第二夜 悲恋の女

【1】

 真己まみは一人孤独に、夜の街をトボトボと歩いていた。

 深夜だからか、通りにはまったく人がいなかった。それは平日夜の帝苑町の住宅街には相応しい光景だった。どこの家も、営みの灯りを消して寝静まっている。灯っているのは、通りの電柱にポツポツと設置されている外灯くらいだった。

 その羽虫がたかっている薄暗い光の下を、真己は無言で、何を考えるでもなく、目的地を目指してひたすら歩を進めていた。

 いや、正確に言えば、何も考えられないでいた。ぼんやりとした頭の中には、住宅街といえど人気の無い夜道を女一人で歩くのは危険ではなかろうかとか、明日は仕事なのにとか、部屋の鍵は掛けただろうかとか、そういった懸念や雑念は浮かんでいなかった。

 代わりに、少しの隙間も無いほど満ちていたのは、限りなく虚無感に似ている悲しみだった。


 ―――なぜ、あの人は私を置いて行ってしまったのだろう。


 そんな風に暗く俯く真己を、突然照らす光があった。それは背後から近付いてきて、徐々に明るさを増していき、横を静かに通り過ぎていった。

 顔を上げると、それが車のライトだったことが分かった。夜の闇に溶け込んでいるかのような漆黒の車が、フィイインと澄んだ耳鳴りのような音を響かせて走っていた。

 電気自動車かしら、とぼんやり思っていると、不意にその車は停車し、ハザードランプをチカチカと点滅させた。怪訝に思いながらも、その横を通り過ぎようとすると、リヤドアがまるで真己を待っていたかのようにガチャリと開いた。

 思わず身じろいでいると、開いたリヤドアの向こうから、運転手がこちらを見つめているのに気が付いた。青い光に照らされているその顔は、右側が長い前髪に隠れていてよく見えなかった。

「……あの、何ですか?」

 真己がため息を吐くように訊くと、

「こんな所で何をしているんです?」

 と、運転手は訊いてきた。

「あなたに関係ないでしょう」

「こんな真夜中にたった一人で、そんな恰好で歩いていたら、声を掛けない方が不思議ですよ」

 そんな格好? と自分の身なりを検めたが、着ている白いワンピースにはどこにも妙なところなど無かった。が、言われてみれば、こんな平日の真夜中に一人で歩いている女の格好としては、不自然なものかもしれないと思った。仕事帰りという風でもないし、夜のウォーキング中という風でもない。

 しかし、だからといって、

「……構わないでください。私はただ——」

「どこかへ行かれるのなら、どうぞ」

 不意に、車のルーフが黄色く光った。目をやると、そこには車の醸し出す独特の雰囲気に随分と不釣り合いな〝個人〟の文字が掲げられた行灯があった。

 個人タクシー……。

「……まあ、乗るか乗らないかは任せますよ」

 そう言うと、運転手は前へ向き直った。カチカチというハザードランプの音が、まるでクイズ番組のシンキングタイムのように響いた。

「……」

 真己は少しの間、逡巡していたが、やがて無言で車に乗り込んだ。バタン、とリヤドアが閉まり、

「で、どちらまで?」

 と、運転手がアクリル越しに訊いてくる。

「……帝苑山ていえんざん自然公園まで」

 真己がそう呟くと、運転手は無言でカーナビのタクシーメーターを起動させ、アクセルを踏み込んだ。漆黒の車——ローレライが独特の駆動音を響かせながら、住宅街の中を静かに走り出した。




「……あの、道が違うと思うんですけど」

 住宅街を抜けた後、急に外灯が一本も無い山道方面へと車が逸れていったのを怪訝に思い、真己が声を掛けると、

「こっちから行った方が近いので」

 運転手は無愛想な返事をした。ルームミラー越しに見えるその顔は、無機質な表情を浮かべていた。

 会話するのはよそうと決意し、真己は窓の外を眺めた。眼下には、先程まで自分が歩いていた住宅街が広がっていた。上から見てみると、総じて寝静まっていると思っていた街並みの中には、ポツポツと数えるほどの営みの灯りが見受けられた。

 営みの灯り。即ち、暮らしの灯り。即ち、人の温もりに満ちている灯り。

 そんなことを考えていると、心の中に暗雲が立ち込めていった。

 私があの灯りを灯すことは、もう二度と―――、

「帝苑山自然公園なんかに、何の用があるんです?」

 不意に、運転手が訊いてきた。

「……何だっていいでしょう」

 真己は、躊躇うことなく無愛想に返した。自分もついさっき、無愛想に返されたのだから。

「すいません。ちょっと気になりましてね。なんでこんな真夜中に、あんな人気の無い公園に行こうとしてるのか」

「……家が近くにあるんです」

「へえ。あの辺に民家なんか無かったと思いますがねえ」

 飄々と言う運転手に、真己は少し苛立ちを覚えた。

 この男は、さっきから何なのだろう。無愛想な割に、人を食ったような物言いを繰り返してきて。

 やはり、タクシーなんか乗らなかった方が―――、

「お客さん、まさか死のうとしてるんじゃないでしょうね」

「……っ」

 不意にを見抜かれて、真己はたじろいだ。

「そ……そんなわけないでしょう。変なことを言わないでください」

「そうですか。すいませんね。あそこ、昼間でもあんまり人気が無いせいか、自殺スポットとして有名ですから」

 そう言うと、運転手は粛々とウィンカーを上げて山道から抜け出た。先程の〝こっちから行った方が近いので〟の言葉は本当だったようで、ヘッドライトが〝帝苑山自然公園 ↑ 3km〟という看板を照らしていた。

「それと……お客さんが、なんだか思い詰めてるように見えたもので」

 運転手は前を向いたまま、運転に徹しながら、

「何か、悩み事でも?」

 と、続けた。

 既に落ち着きを取り戻していた真己は、少し悩んだ後、

「……ええ。その……恋人と……離れ離れになってしまったんです」

 静々と、切り出した。

 別に、慰めてもらおうとか、そういったことは考えていなかった。

 命を絶つ前に、他人と会話をするのも悪くは無いかもしれない。どう思われようと、どうせ死ぬのだし、それがタクシー運転手ならば、尚のこと都合がいい。一度乗せたきりの客が後でどうなろうと、大して責任など感じないだろうから。こちらが「これから死ぬんです」なんて言わない限りは、自殺幇助になることも無いのだし。

 ただ、そんな風に思ったからだった。

「ずっと一緒に居ようって約束したのに、彼は私を置いて行ってしまったんです。一人だけで……私を見捨てて……」

 顏が悲痛に歪むのを感じ、下を向いた。と、その時、


 ———ザザッ……ジジジッ……


 突然、静かな車内にノイズ音が響いたかと思うと、ステレオから音楽が流れ始めた。顔を上げると、カーナビがミュージックアプリを立ち上げていた。大きなディスプレイの中に、CDジャケットとアルバム名、アーティスト名、曲名などが表示されたウィンドウが現れている。

 この曲は確か、恋人と別れた女が一人でも強く生きていくんだと決意する内容の歌だ。このアーティストは、こういった悲恋をテーマにした歌ばかりを歌うことで有名だった。

「……気を遣っているつもりですか」

 少々不愉快だった。同情されたくて打ち明けた訳ではないし、お節介を焼けと頼んだ訳でもないのに。

「……選曲したのは俺じゃありませんよ」

 運転手は、なぜかばつが悪そうだった。どういうことだろうか。運転手が要らない気を利かせてこの曲を流したと思っていたのに。

 真己が不思議に思っていると、今度は突然ミュージックアプリが終了し、曲が止まった。ちょうど、一番のサビが終わった所だった。

 運転手が操作をした素振りはなかった。もしかして、AI搭載車というやつだろうか。車には詳しくないが、最新式の電気自動車のCMでそんな文句を謳っていた覚えがある。

 しかし、車に搭載されているAIとは、音楽まで自動で操作するものなのだろうか。まるでスマートスピーカーのように。いや、スマートスピーカーも、声を掛けない限りは自動で動くことなど……。

 考えても無駄だなと思い、無気力に窓の外の暗闇を眺めていると、

「離れ離れになったって言ってましたが、一体どういう理由があったんです?」

 運転手が、沈黙を破った。

「……言ったでしょう。彼は、私を置いて行ってしまったんです」

 妙な詮索をされたくなくて、同じ文言で答えると、

「死別ですか?」

 運転手は飄々と訊いてきた。

「……ええ」

 正直に答えた。これだけ重いことを言えば、もう何も訊いて来なくなるだろうと期待を込めての返答だった。

 しかし、運転手はその期待に反し、

「お亡くなりに?」

 と、重ねて訊いてきた。

「はい」

 真己は若干、語気を強めた。なぜ、こんなにしつこく訊いてくるのだろう。

「どちらがです?」

「……はい?」

 どちらが?

「……どういう意味ですか?」

「そのままの意味ですよ。どちらがお亡くなりになったんですか?」

 意味が分からなかった。この男は、何が言いたいのだろう。

「さっきから、何なんですか。しつこく訊いてきて、挙句の果てに——」

「ああ、やっぱり気が付いていなかったんですね。まあ、最初から何となくそんな気はしてたが」

 運転手は真己の言葉を遮ると、きっぱりと言い放った。

「あなたは、既に死んでいるんですよ」

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