【3】

「そこだ、そこで車を停めろ」

 塩屋の指示通りに走り続けたローレライがなだらかに辿り着いたのは、外灯が一本も立っておらず、周囲に人の気配が一切感じられない、暗闇に包まれた埠頭だった。それは、大きな廃工場が乱立する工業地帯の合間を縫うように設けられた狭い道を、ぐねぐねと彷徨うように通り抜けた先にあった。

 本来立ち入り禁止の場所だったのか、入り口の脇にはバリケードの残骸らしきものが積まれていた。雨と潮風に削られた、ひび割れだらけのコンクリートの地面。あちこちに不規則に並ぶテトラポッドらしきコンクリート塊。打ち捨てられたように放置されたボロボロの発泡スチロール製のブイ。それらを、遠くに見える対岸の栗栖港の灯りと月明かりが頼りなく照らしていた。複雑に入り組んだ道の先にあるからか、それとも工業地帯の海辺特有の汚い有り様からか、夜釣りをする釣り人は周囲に一人も見当たらなかった。

「いいか、ライトを消して、ドアを開けろ。そっちもこっちもだ。逃げ出そうなんて思うな。撃たれたくなかったらな」

「……」

 運転手は塩屋の言葉に従ってライトを消すと、手元のボタンを操作してリヤドアを開いた。同時に、自分の手でゆっくりとフロントドアを開き、ローレライの右側のドアが、すべて開け放たれた。

「降りろ、ゆっくりとな」

 銃口を突き付けたまま、塩屋が言う。その右手にも顔にも、びっしょりと汗を掻き、生え際からは白と黒の頭髪が入り乱れて跳ねていた。

 運転手は観念したかのように、両手を前に掲げて、ゆっくりと外に出た。塩屋も、息を合わせるかのように続いた。

「振り向くな! いいか、そのまま——」


 ———バタン


 と、音がして、塩屋の身体が跳ねた。いつの間にか、開け広げていたローレライのドアが閉まっていた。

 最新式の電気自動車は、こんな機能まで付いているのだろうか。驚かせるな、こんな時に。まったく腹立たしい、何もかもが。

「チッ、前に歩いていけ!」

 塩屋が怒鳴りつけると、運転手は両手を掲げたまま、素直に前方の、埠頭の縁へと歩いて行った。

 その背中を見つめながら、塩屋は心の中で安堵していた。

 ああ、上手く騙すことができて良かった、と。

 今、右手で構えているこの拳銃は、最初に疑われた通り、ただのモデルガンだ。3Dプリンターで作られてなどいないし、自分が作った訳でもない。ずっしりと重く、金属質な光沢を帯び、本物然としているが、弾など出るはずもない。

 元々は、引き籠りの息子が通信販売で購入したものだった。

 妻が甘やかしたせいで、息子は不登校になった末に引き籠り、通信販売で様々なものを買い込むようになった。最新のゲーム機、デスクトップパソコン、タブレット、フィギュア、プラモデル。そして、このモデルガン。

 こんなくだらない物が、数万円もするというのが信じられなかった。しかし、今はその値段以上の働きをしているモデルガンに感謝していた。これがチープな造りの安物だったなら、運転手を騙せなかったかもしれない。泣き喚く息子を殴りつけ、取り上げた甲斐があったというものだ。

 自室で絞め殺した妻の死体をキャリーケースに詰めている時、ふと、開け放したクローゼットの中に梱包ごと押し込めていたこれが目に入った。いつしか、休日に宅急便が来て、珍しく自分が玄関口で受け取った物。

 普段は、別に何が届こうと構っていなかった。落伍者と化した息子が何をしようと、知ったことではなかった。そうなったのはすべて妻の責任で、自分には関係ないのだから。妻に任せていた家庭で起きた問題は、妻が責任を持って解決するべきなのだから。

 だが、これを息子が、それも自分が汗水を垂らして稼いできた金で購入したと思うと、無性に腹が立った。あの時ばかりは、我慢がならなかった。

 制止しようとする妻を払い除け、ドアをこじ開け、薄暗い部屋の中で息子を殴打した。何度も、何度も。「こんなものでどうにかなるとでも思っているのか」と怒鳴りながら。

 あの時なぜ、そんなことを口走ったのかは分からなかった。が、今では理解できる。

 これは、いわばマチズモの象徴なのだ。男が持つべき、圧倒的な力。男としての強靭さ、逞しさ、好戦的な勇猛さ。

 紛い物と言えど、銃にはそういった、弱者を服従させる権力があるのだ。今まさに、一人の人間を屈服させているように。

 だから、気に入らなかったのだ。落伍者の息子が、人生という戦いから逃げた息子が、仮初めの権力を手に入れようとしているのが我慢ならなかったのだ。「こんなものでどうにかなるとでも思っているのか」という怒りを抑えられなかったのだ。

 今にして思えば、これを取り上げた後、妻にも内緒で捨てもせずに自室のクローゼットにひっそりと保管しておいたのは、自分も魅せられていたからかもしれない。銃の持つマチズモめいた力に。

 マンションを出る時、ビジネスバッグにこれを忍ばせたのも、いざという時に何かに使えるかもしれないなどという馬鹿げた理由からではなかった。結局、その通りになってはいるが、これを持ち出したのは、いわば景気付けだ。自分にできないことは無いという意向の。

 そう、これは本来、自分のような者が持つべき物なのだ。紛い物であったとしても、これを振りかざしていいのは、自分のように人生と戦い続け、勝利を手にした強者だけなのだ。

 しかし、我ながら上手く騙せたものだと、塩屋は心の内でほくそ笑んだ。3Dプリンターを使う仕事をしているだの、コンビニ強盗がデータを流出させただの、よくあんなにもスラスラと嘘を並べ立てられたものだ。もしかしたら自分には、俳優の素質があったのかもしれない。

「止まれ」

 運転手があと二、三歩で海へ落下しようかというところで、塩屋は呼び止めた。

「いいか、そのまま、ゆっくり振り向くんだ」

 運転手はテラテラと光る黒い海を背に、ゆっくりと振り向いた。月明かりに照らされたその顔は、やはり無表情だったが、右目だけは長く垂らした前髪に隠れて暴かれずにいた。

「……鍵をこっちに投げて寄越せ。いいか、妙な真似はするな」

 塩屋は十分に警戒しながら、銃口で指図した。距離こそ取っているが、相手は若い男だ。これが偽物だとバレたら、あっという間に伸されてしまうだろう。さながらオヤジ狩りのように。

 鍵を奪ったら、あの車に乗り込み、運転手を轢き飛ばせばいい。死体を海に蹴落としたら、後は予定通りにトランクの中のキャリーケースに石を詰め込み、海の底へと沈める。この一帯は立ち入り禁止な上、工業排水で水質が汚いので、マナーの悪い釣り人すら寄り付かない場所。見つかることは無いだろう。そのまま車で市街地の近くまで戻り、その辺に腐るほどある廃車置き場へ乗り捨てておけば完璧だ。

 妻は、口論の末に家出して行方不明。運転手は、死体がどこぞに漂着するだろうが真相は不明。どちらにも、文句無しの結末が待っている。

「早くしろ!」

 突き付けられた銃口に動じる様子も無いどころか、鍵を寄越そうともしない運転手にしびれを切らして、塩屋は怒鳴りつけた。すると、運転手は渋々といった風に、掲げていた右手をスラックスのポケットに突っ込んだ。

「……奥さんは今もあなたの隣にいる」

 ポケットを弄りながら、運転手が呟いた。

「あなたを恨んでいるようですよ。よりによって、結婚記念日に殺すことはないだろうとね」

「……なんだと?」

 塩屋は、呻くように声を上げた。

 今日は……思い出せない。結婚記念日など、今まで一度も祝ったことがない。そんなもの、祝う必要が無いのだから。

 左手の親指で、薬指の結婚指輪を撫ぜた。結婚したのだという証。周囲から妻帯者だと認められる証。それ以外に、これが持つ意味など無い。同様に、それ以外の価値も無い。

「……さっさと鍵を寄越せっ!」

 怒鳴りつけると、運転手はポケットからチャラリと鍵――黒と銀の二色で構成された滑らかに艶めく小判型のスマートキーを取り出した。

「……最後の忠告です。どうか、自首してください。奥さんがそう望まれている」

 運転手は表情を崩さないまま、淡々と塩屋に呼びかけた。

「ふん、またそれか。そんなハッタリはよせ。動揺させようったって、そうはいかない。私は、幽霊など信じない」

 すべて、ハッタリだ。なぜ、あんなにも自分のことを――過去も、職業も、犯した罪も知っていたのかは分からないが、幽霊などいるはずがない。そんなものが、現実に存在してたまるか。

「……奥さんは心配されています。息子さんの行く末を。今なら、まだ間に合う」

 運転手は、ゆらりと一歩、横に動いた。塩屋は、逃すまいと銃口で追いながら、

「息子だと? あんな出来損ないの面倒を見る義理などあるか! 今に叩き出して、どこぞの矯正施設にでも送ってやる! そして私は、一から人生をやり直す! 誰にも邪魔のされない、完璧な第二の人生をな!」

 と、怒鳴った。

 途端に、運転手はずっと保っていた無表情を、初めて崩した。細い眉が険しく吊り上がり、怒りに満ちた左眼が塩屋を鋭く睨んだ。

「……そうか」

 運転手はボソリと呟くと、

「あんたは、救いようのないクズだ」

 冷たい声色で続けて、またゆらりと一歩、横に動いた。

「黙れっ! お前に何が——」


 ———フィイイインッ!


 突然、澄んだ耳鳴りのような音が響き、二人に強い光が当てられた。

 それは、狼の眼を思わせる二対のヘッドライトの光だった。それが、二人を目掛けて勢いよく迫り、

「な――」

 ドムンッ! という鈍い音と共に、塩屋を突き飛ばした。いや、塩屋は、轢き飛ばされたのだ。突如としてひとりでに動き出した、漆黒のローレライによって。

「ぐぁっ、がぷっ、ああっ!」

 運転手の真横を転がりながら通り過ぎて埠頭の縁から勢いよく落下し、夜の黒い海に呑まれた塩屋は、命の危機を感じていた。ヨレたスーツが海水を吸い、身体に重苦しく纏わりついている。太腿の辺りに、今までに体感したことのない鈍痛を感じ、脚が上手く動かせない。このままでは———、

「た、助けっ」

 口の中に侵入してくる海水を吐きながら必死にもがいていると、運転手が埠頭の縁から侮蔑に満ちた冷たい眼差しでこちらを見下げているのに気が付いた。

「助けてくれぇっ」

 と、助けを求めた塩屋を、運転手はひとしきり見つめた後、ふんと鼻を鳴らし、フィインと唸るローレライの後方に向かった。カチャリと、ひとりでにトランクが開き、塩屋のキャリーケースが月明かりの下に晒される。

 運転手は無言でそれを抱え下ろすと、ガラガラと引きずり、塩屋が落下した埠頭の縁の傍に置いた。

「……分かりました。お人好しですね。あなたも」

 不意に、運転手はキャリーケースの上の虚空を見つめながら、独り言のように呟くと、近くにあったボロボロの発泡スチロール製のブイを拾い上げ、黒い海の中でもがく塩屋に向かって投げつけた。

「ぶ、ぶはっ、ぐうっ……」

 無様にそれにしがみついた塩屋に、運転手は、

「奥さんに感謝しな」

 と、吐き捨て、踵を返した。

「ええ、警察には後で。……ああ」

 運転手は思い出したように塩屋の方へ戻ると、

「おい、財布をこっちに投げろ」

 と、言い放った。

「な、何を……」

「いいから寄越せ!」

 怒鳴られた塩屋は渋々、上着の内ポケットからずぶ濡れの財布を取り出すと、運転手に向かって投げた。海水を吸った二つ折り財布が放物線を描き、ベシャッと埠頭の地面に転がる。運転手は無言でそれを拾い上げると、中から濡れそぼった紙幣だけを抜き取り、

「迷惑料だ」

 と、言い放ち、ポイッと海に捨てた。そして、呆然と海に浮かぶ塩屋に向かって、

「俺のことは警察に言うなよ」

 と、釘を刺した。

「ま、待ってくれっ。このままっ――」

 何事か言いかけた塩屋を無視して、運転手はまた踵を返した。フィインと唸るローレライが、出迎えるように運転席のドアを開く。

 それに乗り込もうとして、

「……俺ですか?」

 不意に、運転手は振り返り、誰もいないはずの虚空を見つめた。

「自分は、こういう者です」

 運転手はベストの内ポケットから、ローレライのコンソールボックスのトレーに積まれていたものと同じ名刺を取り出すと、虚空に向かって掲げた。

 その黒一色の名刺には、銀色の、だが、質素な明朝体のフォントで、


 〝夜坂零二やざかれいじ   070ー☓☓☓☓ー☓☓☓☓ (21:00~4:00)〟


 と、記されていた。

「ただのタクシー運転手ですよ。ああ、そうそう。事が済んだら、あなたもさっさと成仏してくださいね。それでは……」

 運転手——夜坂零二は名刺をしまうと、漆黒のローレライに乗り込み、澄んだ耳鳴りのような音を響かせながら、暗闇の埠頭を後にした。




「ええ、栗栖港の近くの廃工場の裏辺りの埠頭ですよ。奥さん殺した男が海に浮いてるから、逮捕しといてくれ。それじゃ」

 受話器の向こうの困惑した声を無視して電話を切ると、夜坂零二は公衆電話ボックスから出た。路肩に停めていたローレライに乗り込むと、ベストの内ポケットから銀色のジッポライターと、黒い紙箱の煙草——JPSジョン・プレイヤー・スペシャルKSキングサイズボックスを取り出し、火を付ける。


 〝ジッ……ジジッ……煙草は様々な健康に影響を与えます。今からでも遅くありません。始めよう、禁煙生活……〟


 突然、カーナビがラジオアプリを立ち上げ、若干のノイズと共に禁煙を促す内容のCM音声を流した。

「……分かってるよ」

 ため息をつくように煙を吐くと、ひとりでにローレライ中の窓が全開になった。

「災難な目に遭ったんだ。こんな夜くらい、いいだろ。……アケミ」

 夜坂零二はそう呟くと、咥え煙草でアクセルを踏み込んだ。と同時に、カーナビがミュージックアプリを立ち上げ、Radioheadレディオヘッドの〝Karma Police〟を流し始めた。

 トム・ヨークの繊細で美麗な唯一無二の歌声と、澄んだ耳鳴りのような独特の駆動音を、青みを帯びた薄暗い車内に響かせながら、夜坂零二の駆る漆黒のローレライは、真夜中の深い暗闇をヘッドライトで鋭く切り裂いて走り出した。

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