【2】

「……何?」

「俺があなたとした会話は、だ。それ以外は、、あなたの隣にいる人と話をしてたんだ。あなたが殺した、あなたの奥さんとね」

 車内に、突如として緊迫した空気が流れた。塩屋の額に再び汗が滲み、雫となってツウッと頬に垂れていった。

「な、何を馬鹿なことを。なぜ私が——」

「あなたは酷い人だ。仕事仕事で家庭を顧みず、父親の役目をろくに果たさなかったくせに、息子さんが引き籠ったのを奥さんのせいにし続けた。自分の思い通りにならない家族に腹が立って、暴力も振るった。息子さんはますます心を閉ざして、奥さんとは口論が絶えないようになった。そして今夜、口論の末に、とうとう奥さんを手にかけた。そのネクタイで首を絞めたんでしょう? 随分と太い神経をしてますね。長年連れ添った奥さんを絞殺した道具を身に着けたままでいるなんて」

 塩屋は、開いた口が塞がらなかった。

 なぜ、どうして、この運転手は知っているのだ。

 自分の過去を、家族のことを、今夜、自分が犯した罪を、何もかも―――。

「じょ、冗談はやめてくれ。これは何かね? 最近流行っているとかいう、動画サイトのドッキリ企画かね? ふん、悪質な輩もいたものだ。大体、あんなくだらないものがまかりとおっている世の中が——」

「奥さんが隣で聞いていますよ」

 運転手は冷ややかに言い放った。塩屋は思わず、隣の座席を見た。

 そこには――当然のように、誰の姿も無かった。純正品らしき艶やかな黒い革張りのシートには、誰も座ってなどいなかった。

 だが、塩屋は、そこにいるような気がしてならなかった。ネクタイで首を締め上げたせいで見開いた目が真っ赤に充血し、舌をでろりと出して苦悶の表情を浮かべる、二十五年連れ添った妻の姿が。

 もちろん、そんなはずはなかった。妻は今、身体を〝ん〟の字に曲げて、トランクのキャリーケースの中にいるはずなのだから。生命活動を停止した死体として。

「やめろっ! よせっ! 何だか知らないが——」

「奥さんがすべて話してくれましたよ。その様子だと、嘘は言っていないようだ。反対に、あなたの出張だの商談だのは嘘らしい。さっき、深く訊いても無いのに、やけにべらべらと事細かに話してきたが、栗栖市に住まれているんでしょう? パークタワー帝苑というと、北栗栖きたくりすの方にある高層マンションか。中々いい所にお住まいですね」

「な、な……」

「なるほどね。車は持ってるが、偶然にも車検の最中で、代車も頼んでなかったから死体を運ぶ術が無くて、でもマンションに置いといたら息子さんに見つかるから、余所者のビジネスマンを装ってタクシーを使うことにしたと。中々、大胆な手口だな。栗栖港に、奥さんを沈める気ですか? 釣りが趣味だそうですね。どこか、死体を沈めても絶対に見つからないであろう場所でも知っているんですか? そんなことはやめた方がいい。どう足掻いたって、いずれは足が付くんだ。大人しく警察に——」

「黙れえっ!」

 塩屋は口の端から泡を吹きながら、足元のビジネスバッグから取り出した物を運転手に向かって突きつけた。

「私を舐めるなっ! 若造風情がっ! これが見えるかっ!」

 それは、黒光りのする――拳銃だった。

 その銃口は、アクリル越しに運転手の後頭部へと向けられていた。黒く艶めく表面に、運転席から漏れる青い光が鈍く反射していた。

「……モデルガンで脅す気ですか」

「何を言ってる! これはれっきとした拳銃だ!」

「医療メーカー勤めのサラリーマンが、どうして拳銃なんか持ってるんです?」

「お前は知らないだろうが、私は3Dプリンターを使って医療部品を開発する部署で仕事をしているんだ! 少し前にコンビニ強盗が3Dプリンターで自作した銃で店員を撃って怪我をさせた事件があっただろう! これは、その犯人がネットに流出させたCADデータを基に、私が作った代物だ! 護身用としてな!」

「……そんな与太話を信じるとでも?」

「試してみるか? 紛い物には違いないが、威力は本物と遜色ない。こんなアクリルなど容易くぶち抜くぞ!」

 塩屋はそう捲し立てると、ガチリと拳銃の撃鉄を起こした。その重たい音は、凶器然とした冷たい危うさを感じさせた。

 運転手はルームミラー越しに、無言で塩屋を睨んでいた。その目は、拳銃と同じように青い光に照らされていたが――やはり感情が読めない無機質なものだった。

「いいか、一秒でも命が惜しかったら黙って車を走らせろ。栗栖港には入るな。手前の工業地帯の裏の埠頭に向かえ。分かったな!」

 運転手は初めて、後ろを振り向いた。無表情のまま横目で突き付けられた銃口を見遣ると、僅かに眉をひそめ、また向き直り、アクセルを踏み込んだ。

「……ひとつ、訊いていいですか?」

「何だ!」

 凶器を向けられているというのに、妙に飄々としている運転手の態度が気に入らない塩屋は、苛々と声を荒げた。

「さっき、〝お前は知らないだろうが〟って言ってたが、それは俺じゃなくて、奥さんに向かって言ったんですか?」

「……うるさい! 黙って運転しろ!」

 その塩屋の怒号を最後に、車内には刺すような沈黙が張り詰めた。

 そんな中、漆黒のローレライだけが、変わらずに静かな駆動音を響かせながら、潮風の吹きつける暗闇の海沿いを走り続けていた。

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