第一夜 キャリーケースの男
【1】
真夜中で、月が出ていた。
そんな頭上の景色には目もくれず、
息苦しさを感じて立ち止まると、既に緩ませていたネクタイをさらにグイッと緩めた。腕時計を見ると、針は零時過ぎを指していた。夏の夜の粘ついた空気を吸い込んでため息をつくと、再び目的地を目指して歩き出す。
もう少しだ、その角を曲がれば———、
「……チッ」
思わず舌打ちをした。辿り着いた栗栖駅は、歓楽街から帰っている途中であろう若者たちで溢れ返っていた。中には、ちらほらと塩屋のようにヨレたスーツを着た中年のサラリーマン連中もいたが、皆一様に酒で顔を赤くしていた。
思わず、呑気な酔っ払い共が、と怒鳴りつけてやりたくなった。こちとら、大変な目に遭っているというのに。今すぐにでも酒を煽りたいというのに。
週末の夜だからだろう。イラついたって仕方がない。
そう自分を納得させると、手前の通りでタクシーを探した。駅前ロータリーで乗り込むのもいいだろうが、酒で浮かれている連中に混じるのは、あまり気が進まなかった。
ロータリーに帰ってくるタクシーはいないものか。それをこの手前の通りで捕まえれば——そう思い、ビジネスバッグを持ち換えて手を挙げようとした矢先、塩屋の目の前に一台の車が現れた。
あまりに静かなので、塩屋は最初、気が付かなかった。その車は、フィイイン……という澄んだ耳鳴りのような独特の駆動音を響かせながら、なだらかに塩屋の目の前に停車した。
まるで、夜の暗闇に紛れるかのような漆黒の流線型のボディに、それを鋭く切り裂くように銀のラインが走ったセダンタイプ。その表面は鏡のように艶めき、通りの向こうから降り注ぐ歓楽街のネオンを鮮やかに反射して光らせていた。どこか鋭い爪を思わせる意匠のホイールも艶やかな漆黒に染まっていて、フロントには狼の眼を思わせる二対のヘッドライトが睨みを利かせており、銀色のグリルには数字の8を鋭く尖らせたようなエンブレムが掲げられている。そして、その下には白ではなく、緑色のナンバープレートが取り付けられていた。
緑ナンバー? ということは、と塩屋が思っていると、車のリヤドアが静かに開いた。呆気に取られていると、運転席の真上のルーフに黄色い行灯が掲げられていることに気が付いた。〝個人〟と表示されている。
個人タクシーかと理解した瞬間、今度はフロントドアの窓がスルスルと開いた。中を見遣ると、運転手がこちらを見つめている。
「……お乗りになりますか」
運転手の顔はよく見えなかったが、その声は若い男を思わせた。
「あ、ああ。頼む」
そう答えると、ほんの少しの間を置いて、運転手は車から降りてきた。そのまま、歩道に佇んでいた塩屋に静々と歩み寄り、
「……大きな荷物の方は後ろに」
と、呟いた。
塩屋はそんな運転手の、夜の街が放つ光によって暴かれた風貌に、思わず面食らっていた。
白いYシャツに黒のシングルベスト、黒い無地のネクタイ、黒のスラックス、黒革のドライビンググローブ、黒い革靴。スラリと背の高い細身の身体にそれらを着こなした男は、両サイドを短く刈り上げた黒髪という清潔感のある髪型をしていたが、顔の右側だけを長い前髪で覆い隠すように垂らしていた。
それは、タクシーの運転手というよりは、キャバクラのボーイやホスト、バーテンダーを思わせる佇まいだった。しかし、そんな夜職の雰囲気が漂う大人びた格好や身体つきに反して、ほとんど左側しか見えない顔は、まるで少年と青年の境を彷徨っているかのような青臭さを感じさせた。
「……」
固まっていた塩屋にしびれを切らしたのか、運転手は無表情で塩屋のキャリーケースに手を伸ばした。
「い、いい。自分でやる」
塩屋は慌てて告げると、キャリーケースを引きずって車の後方へ向かった。
「開けてくれ」
運転手は無表情のまま、トランクを開いた。中には、純正品らしきラバー製のラゲッジマットがきっちりと貼り込まれており、座席後ろのパッケージトレイトリムパネルには、空車と表示された青いLEDランプの表示灯が光っていた。ほんのりと、芳香剤のものらしきシトラス系の香りが鼻先に漂う。
「くっ……」
「手伝いましょうか?」
大型のキャリーケースを抱えるのに苦戦するのを見かねてか、声を掛けた運転手を、
「いいと言っただろうっ」
塩屋は食い気味に撥ねつけた。が、それからまた四苦八苦した後、一人ではどうにもならないと悟ると、助けを乞うような目を運転手に向けた。
運転手は眉一つ動かさず、無言でキャリーケースの反対側を抱えると、塩屋と息を合わせてトランクの中へと押し込んだ。
「……すまない、仕事で疲れているんだ」
額に汗を滲ませながら肩を落として呟く塩屋を、
「構いませんよ」
運転手は無表情であしらうと、粛々と運転席へと戻っていった。塩屋も額の汗を袖で拭うと、開け放たれていたリヤドアから後部座席へと乗り込んだ。
「どちらまで?」
運転手が、ナビゲーションディスプレイの中のタクシーメーターを操作しながら訊いた。
「栗栖港まで頼む。急がないでいい」
そう言うと、塩屋はビジネスバッグを足元に置き、黒の革張りのシートにもたれて、ふううと深く息を吐いた。
「この車、エイト社のローレライかね? 新型電気自動車のタクシーとは珍しいな」
黒い革張りの後部座席でくつろぐ塩屋は、運転手に話しかけた。車はすっかり歓楽街から遠ざかり、寝静まった住宅街を突っ切っている最中だった。
「……」
運転手は答えなかったが、塩屋の予想は当たっていた。
ローレライ――ドイツのラインラント=プファルツ州を流れるライン川流域の町、ザンクト・ゴアールスハウゼンの近くにある巨大な岩山、もとい、その岩山に宿るとされる精霊の名を冠したその車は、エイト社が近年大々的に売り出した新世代型のEV車——電気を動力源としたモーターによって走行する車に他ならなかった。
「しかし、ローレライのような最新式の電気自動車がタクシー仕様で売られているものなのかね? いや、これは改造か? ぱっと見は純正だが、あちこち弄ってあるようだな」
塩屋はしげしげと内装を見渡した。タクシーらしい、運転席と後部座席の間に設けられた仕切りのアクリル板が目を引く。金銭を受け渡す用にコンソールボックスの部分だけ開口されていたが、そこには高級車じみている内装には随分と不釣り合いな黒いプラスチックのトレーが設置されていた。その向こうのダッシュボードには、後ろにあったのと同じものであろう表示灯が置かれている。恐らく、純正品にタクシー仕様の物を無理矢理取り付けたのだろう。
その証拠に、アクリル越しに見える運転席回りの内装は紛れもなく純正品のようだった。黒く艶めくセンターコンソールの表面には、様々な機能のアイコンが規則的に並んで浮かび上がっている。縁取りが無いということは、あれらはボタンではなく、タッチパネルなのだろう。まるでセンターコンソールそのものが、スマートフォンの画面になっているかのようだ。その中心にそびえ立つ黒と銀のシフトレバーも、純正の輝きを見せている。
その向こうのカーナビ――ナビゲーションディスプレイは、一際目を引いた。15インチはありそうな大きな縦長の画面には、上部にタクシーメーターが、中央にはでかでかと近辺のマップが、下部には様々な機能のアプリアイコンが羅列しており、さながらタブレットそのものをはめ込んだようだった。
そして、タッチパネルやメーターパネルの他、ハンドルやスピーカーなどに施されたありとあらゆるディテールが、鮮やかな青い光を発していた。全体的に、わざとらしい近未来感を思わせるような意匠になっている。
しかし、この車は塩屋が睨んだ通りに、改造を施されてはいたものの、市販車を購入して純正の内装をタクシー仕様に仕立て上げているだけの代物ではなかった。
この漆黒の車の正式名称は、世に出回っていないローレライの試作モデル、『ローレライ02NEV』。市販などされていない上、訳あって駆動系統には凄まじいチューンアップを施されている、世界にたった一台のプロトタイプなのである。
故に、見た目は今現在エイト社が売り出しているローレライとほとんど同じだが、中身はまるっきり違う代物だった。
「ローレライを改造してタクシーにしてしまうとは、中々風変わりだな。一体どういった経緯があるんだ?」
その事実に気付いていない塩屋は何の気なしに問いかけたが、運転手はまたしても質問に答えず、むっつりと黙ったままだった。
ふん、無愛想な、と心の中で塩屋は毒づいた。普通は、運転手の方からあれこれと質問するべきだろう。個人タクシーを営業しているのならば尚更だ。世間話に付き合って客のご機嫌を取り、もう一度乗車してもらえるように心象を良くしなければならないだろうに。そういえば、随分と若造だった。きっと社会経験の浅い、人生の酸いも甘いも知らない奴なのだろう。
仕事一筋に生きてきた塩屋からしてみれば、気に入らない相手だった。
男とは、仕事に生きてこそ、人生を仕事に捧げてこそなのだ。仕事のできない男など、何の価値も無い。男として格を上げたいのならば、いくらかの犠牲は省みずに、野心を携えて仕事に打ち込み、出世しなければならない。
それが、塩屋の信条だった。事実、自分はその信条の下に出世し、家庭を持ち、社会的な地位を、男としての格を上げたのだから。
まったく、これだから最近の若造は。せめて名刺のひとつでも渡して――と、その時、コンソールボックスのトレーの端に、名刺が積まれているのに気が付いた。
それは、一面が黒い名刺だった。何のイラストも柄も無い、銀色の文字と数字——名前と電話番号が浮いているだけの、無機質なデザインをしていた。
それに手を伸ばそうとした時、
「何があったんです?」
終始無言だった運転手が、不意に声を上げた。
「は?」
素っ頓狂な反応をした塩屋に、
「……ええ、あなたに訊いているんです」
運転手は、妙に含みを持たせた口調で答えた。
「何がとは……何だね?」
「いえ、構いませんよ。差支えなければ、お話し頂けると」
「……どういう意味かね」
車内の冷房は十分に効いているはずだったが、塩屋の額には汗が滲んでいた。
「もしかして、なぜこんな真夜中に栗栖港なんかに行くのか、ということを訊いているのかね? それは、単純に遅れないように船に乗る為だ。まったく、敵わんよ。地方に出張に来て商談を済ませて、さあ地のものでも食べて地酒でも飲んでホテルでゆっくりしようと思っていたところに、今すぐ戻って来いという連絡が会社からあったんだ。明日の午前中に、本社で別の商談をしなくてはならなくなってね。それが、私がいないとどうにもならない案件だから、とんぼ返りをする羽目になったというわけさ。交通アプリを使って調べてみたら、どうやら夜行フェリーに乗るのが一番早いらしくてね。まさか陸路ではなく海路を行くことになるとは思わなかったが、まあ、狭苦しい深夜バスに揺られて身体を痛めるよりはマシだろう」
塩屋はひとしきり説明すると、
「ああ、自分が目的地まで乗せていきますよ、なんてことは言わないでくれ。タクシー運転手からしたら長距離の客というのは儲け口かもしれないが、さすがに県を三つも四つも超えるのは嫌だろう?」
と、苦笑交じりに付け加えた。
「…………そうですか。それはお気の毒に」
運転手は、妙に間を置いて答えた。その、ややちぐはぐ気味な返事を聞いた塩屋は、ルームミラーを見遣ってみたが、運転手の顔はよく見えなかった。
ふん、と鼻を鳴らすと、塩屋はポケットからハンカチを取り出し、汗に滲んだ額と白髪交じりの生え際を撫でつけるように拭った。
もしかして、この若造は気を遣って会話を弾ませようとしたのだろうか。だとしたら、あまりにもコミュニケーションがなっていない。営業としては最低のレベルだ。口下手ならば、無理をせずに黙って運転に徹していればいいものを。
目線を元のコンソールボックスへと戻したが、もう名刺を取る気にはならなかった。こんなタクシー、二度と利用してなるものか。
車内に、沈黙が満ちた。運転手も塩屋も黙り込んでいた。最新式の電気自動車であるローレライも、外界の音を遮断するかのように静かな駆動音で走っていた。
「なあ、これは禁煙車かね」
しばらくの沈黙の後、塩屋が切り出した。が、それは沈黙に耐えかねたから、という訳ではなかった。
車内に、シトラス系の芳香剤の香りに混じって、ほんのりと煙草の臭いが染み付いていることに気が付いたからである。
「……ええ」
「ふん、そうかね。まったく、喫煙者には辛い時代だよ、本当に」
自分は吸うのに客には吸わせないつもりか、という嫌味をたっぷりと含ませて塩屋は毒づいた。
「なら、せめてラジオでも流してくれないかね。電気自動車というものは、どうも静かすぎて落ち着かん」
塩屋が続けて文句を垂れたが、運転手はその言葉に耳を貸さず、粛々とハンドルを切っていた。
「なあ、おい、聴こえてるのか。ラジオでも流してくれと言っただろう」
「お客さん、それはできません」
「どういうことだ。このタクシーは客の要望を無下にするというのかね」
「いえ……声が聴こえなくなってしまいますので」
そのボソボソとした意味不明な釈明に苛立った塩屋はルームミラーを睨んだ。そこには、運転手の左目が映り込んでいた。青い光に照らされた感情の読めない眼が、塩屋を無機質に睨み返していた。
「声が聴こえなくなるとはどういう意味かね。会話など、さっきからろくにしていないじゃないか」
塩屋は若干声を尖らせたが、運転手はやはり無機質に、
「できないものはできません。それに……自分にはその決定権がありませんので」
と、またしても意味不明な釈明を繰り返した。
「……失礼な個人タクシーもあったものだな。だったら急いでくれ。それくらいはできるだろう。むしろそれ以外に何ができるというんだ。タクシー運転手風情がっ」
塩屋は、今度ははっきりと語気を強めて、直接的に毒づいた。が、運転手は動じる様子も無く、静かにアクセルを踏み、粛々とハンドルを切り続けた。
車内に、再び沈黙が張り詰めた。そんな中、ローレライだけが、静かな駆動音を響かせ続けていた。
だが、やがてローレライが幹線道路から海沿いへと続く一般道に抜け出て、徐々に少なくなっていく街灯の光を代わる代わる漆黒の車体に浴び始めた頃、
「……そうですか、息子さんが」
唐突に、運転手が呟いた。
「まあ、詳しい事情は知りませんが……」
「おい、今なんと言ったんだ」
塩屋が訊いたが、
「それは災難でしたね」
運転手は、脈絡のない返事を続けた。
「なあ、一体何の話をしているんだ」
「ええ、分かっていますよ」
「ふざけているのかね。頼むから黙ってくれないか」
「お気になさらずに。自分は……」
「おい、聴こえてるのかっ!」
とうとう、しびれを切らした塩屋が怒鳴った瞬間、
「———お客さん」
運転手が静かに、だが、鋭く、言い放った。
「俺はね、あなたの隣にいる人と話しているんですよ」
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