心霊タクシードライバー:夜坂零二
椎葉伊作
Intro
かつて、というのは誤りがあるかもしれない。市の南部の海沿いにある、バブル期に雨後の筍のように乱立した無数の自動車工場からなる工業地帯は、現在でも栗栖市の経済を支えている重要な産業の基幹といえるからだ。
しかし、その周囲に目を向けてみると、稼働を止めて赤錆にまみれている廃工場群や、廃車や鉄くず、古タイヤがうず高く積まれている荒れ果てた空き地や、住人のほとんどが出て行った局地的な住宅街、朽ち果てて倒壊するのを待っているかのような、かつて労働者たちの寮だったモルタルのアパート、社宅だった低層の団地群など、荒廃の影が忍び寄っているのが窺える。兵どもが夢の跡、というと聞こえはいいかもしれないが、その情景はあまりにも赤錆と砂埃で薄汚れていて、日本の地方都市の衰退という現実を投影していた。
もっとも、そんな荒廃の影が表向きに差しているのは、栗栖市の南部くらいで、中心部の市街地へと赴けば、時代遅れのネオンが衰えを見せることなく煌々と輝く歓楽街や、閑静な住宅街、日本中に展開しているありとあらゆるチェーン店がずらりと立ち並ぶ大通りや、大型のショッピングモール、娯楽施設などが一通り揃った、そこそこ栄えている地方都市といった面を垣間見ることができる。
そんな栄華を保てているのは、市の北部に本社を構えている大手自動車メーカー、エイト社の威光によるものが大きかった。
エイト社は、県のみならず日本の経済を支えるほどの社力を持った大手自動車メーカーである。その歴史は古く、同時に偉大なものであり、当然のように知名度も高い。
いつの時代もテレビのゴールデンタイムに人気俳優を起用したCMが流れている、車といえばエイト社と言う者も多い、誰もが知っている有名な大手企業。
栗栖市は、そんなエイト社の本拠地であり、日本を代表する有数の工業都市なのである。
だが、現実の光と同じく、エイト社の威光は本社がある北部から中心部にかけてしか届いておらず、遠い海沿いの南部には、前述した通り荒廃の影が差していた。
北から南へグラデーションのように栄え方と華やかさが違う街。それが現代における栗栖市の在り様だった。
―――そんな煌びやかな鉄とうらぶれた鉄で構成された街を走る車が一台。
月の出ていない、闇の深い夜のことだった。その車は、そんな夜の闇と同じ色をしていた。
鏡のように艶やかな
漆黒の車は、ボディ全体がボロボロに焦げ付いている上、走っているのが不思議なほどに、フロントの右側が潰れてしまっていた。フロントグリルはべっこりと凹み、ボンネットは皴が寄ったシーツのようにぐちゃぐちゃで、フロントガラスには亀裂が入っており、片方のヘッドライトは粉々に割れて輝きを失い、フロントバンパーは外れかけて、地をガリガリと擦っていた。
しかし、EV車――電気自動車なのだろうか。漆黒の車はフロントバンパーを引きずるガリガリという不快な騒音とは別に、フィイイイン……という澄んだ耳鳴りを思わせるような独特の駆動音を同時に響かせていた。
手負いの獣らしくない無機質且つ美麗な音を響かせるその漆黒の車は、どうやら栗栖市のうらぶれた鉄の地——南部を目指して走っているようだった。手負いとはいえ、本来持っているであろう気高き美しさとは対称的な地の方へ。まるで、エイト社がもたらす栄華の光から逃れるように。隻眼のヘッドライトで、赤錆と砂埃にまみれている暗闇を切り裂きながら。
人気のない道路を走り続け、
灯りのともっていない局地的住宅街を通り抜け、
人の住んでいないモルタルの廃アパートの前を突っ切り、
朽ち果てた低層団地群を横切り、
廃車と鉄くずが打ち捨てられた空き地の前を過ぎ去り、
廃工場群の中を右へ左へ彷徨いながら、
走って、走って、走り続けて―――。
やがて、手負いの獣は歩みを止めた。
漆黒の車は力尽きたかのように、ゆっくりと暗闇に包まれた廃車置き場にされているらしい空き地に乗り上げた末、不規則に並べられた廃車群の中へ身を潜めるようにして停車すると、輝かせていた左側のヘッドライトの眼光を消し去り、独特な駆動音を響かせるのもやめて、完全に沈黙した。
代わりに、
「……うう」
弱々しい呻き声が、暗闇の中に響いた。
それは漆黒の車の運転席から漏れ聴こえていた。
「う……あ……」
声の主は、男のようだった。が、その声は、弱々しい呻き声という点を差し引いても、どこか青臭さを感じる、まるで少年と青年の境目を彷徨っているかのような脆弱さを湛えていた。
「あ……あ、け……」
声の主は何かを言おうとしていた。まるで、たった今目覚めたかのような、それとも満身創痍なのか、もしくはその両方なのか、おぼつかない口調で、必死に息を絞り出すかのように。
「アケミ……」
一言。
その一言だけ絞り出すと、男は意識を失ったのか、漆黒の車と同じく、完全に沈黙した。
深い夜の暗闇の中、一台の車と一人の男は、まるで駆け落ちを果たした恋人同士のように寄り添っていた―――。
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