DAY.17:「一番近くで」
沙也さんの研修出張前夜。三日ぶりにメッセージが届いた。
『最後に一緒に寝てくれませんか』
こちらから連絡する手間が省けた。俺は二つ返事で快諾した。
今週に入って、沙也さんは今までの残業地獄が嘘みたいに、九時前にはアパートに帰ってくる。引き継ぎはつつがなく進んでいるらしい。
この頃は日付が変わる前には就寝しているそうだが、部屋に行くのはいつもの時間で構わないという。
深夜二時前。長袖Tシャツとスウェット姿で外に出ると、夜風が肌を刺す。十一月にもなると、感覚的にはもはや冬だ。
枕を持参して、隣の部屋のチャイムを鳴らす。この動作もずいぶん懐かしい。中から「はぁい」と甘い声が聞こえてくる一連のやり取りも、何だか感慨深い。
「久しぶり」
笑顔に一抹の寂しさが見え隠れしていると感じるのは気のせいだろうか。
「お邪魔します」
サンダルを脱ぎ、部屋に上がる。
キッチンは新品同様にすっきりしていて、リビングの白を基調とした内装にもところどころ地肌が見える。前回訪れた時より部屋が簡素になっていた。
「だいぶスッキリしましたね」
「契約解除は来月末だけど、少しずつ処分してるの。欲しい家具とかあったらあげるよ?」
ハンガー、ウォールポケット、ラグマット、観葉植物。一つひとつは無くても困らないが、そういうものが空間の色を作っていたのだと悟る。最小限以外の部分にこそ、豊かさは宿るのだ。
「……もう遅いから、寝よっか」
沙也さんがベッドに移動し、掛け布団をめくる。
「その前にひとつ、いいですか」
俺はベッドの上で正座した。話ならテーブルの前で向かい合うのが適切だが、俺たちのアイデンティティとなる場所ですべきだと思ったのだ。
「……なに?」
沙也さんも同じ姿勢になる。俺が枕側、沙也さんが足側という配置だ。
「……前も話したように、俺って将来の夢とか目標とかないんですよ。受験勉強に熱心なのは、良い大学に行った方が就職に有利だとか奨学金がもらえるとかっていう当たり前の動機で。情熱もやる気もなかったし、毎日機械みたいに机に向かってました」
こんな淡々とした日々が一生続くと考えていた。絶望とまではいかないものの、人生に意味なんて見いだしていなかった。
「でも沙也さんと出会って、少し変わったんです。メリハリがついたっていうか、良い意味で生活に制限がついたっていうか。人の予定に合わせて勉強のスケジュールを調整するなんて、実家にいた頃もしたことなかったし」
「……」
話の方向性が見えないからか、沙也さんは不思議そうな眼差しをしている。
「そんな俺にも人生の指針ができました。俺はやっぱり、沙也さんが好きです。沙也さんと一緒にいたい」
飾らず、迂回せず、真っ直ぐに。余すことなく気持ちが伝わるように。
「それは……ダメだよ。道が違う以上、私たちは一緒にはいられない」
沙也さんは目を伏せる。
俺もそうだった。前を向くのが怖くて、一度は逃げようとした。でも今は違う。
「これを見てください」
俺はポケットからスマホを取り出し、画面を提示する。
「主な有名大学の偏差値一覧です。俺が受けようとしている国立大学の偏差値はここ」
「経済学部だったっけ?」
「はい。選んだ理由はなんとなくですけど」
最新の模試でB判定を獲得しているとはいえ、やすやすと合格できる大学ではない。奨学金目当てならなおさらだ。
「それがどうかしたの?」
「見てほしいのはもっと上です」
俺が指差したのは、東北にある別の国立大学だ。経済学部の偏差値は国内でも指折りである。
「調べてみたところ、建物の改修をしたり食堂のメニューを増やしたり、近年は受験者数の減少に歯止めをかけるために色々対策をとってるみたいです。奨学金制度も以前に比べてかなり充実していました」
「……もしかして、ここを受けようとしてるの?」
「父さんにも確認をとりましたが、すぐにオッケーが出ましたよ。志望校の偏差値が上がるのにNGな理由なんてありませんからね。元々一人暮らしなわけだし。もちろん、受験対策はやり直しですし、オープンキャンパスも一度くらい行きたいですが」
「そ、そんな理由で志望校変えるなんておかしいよ!」
「どうしてですか?」
「どうしてって……。だって、私のためにそんな無茶する必要ないよ……!」
「これは沙也さんのためじゃなく、俺のためです。これからも沙也さんのそばにいたいから、隣でいつか自分の夢を見つけたいから。それに沙也さんの夢だって、一番近くで応援したいから。辛いことも楽しいことも分かち合いたいから。俺が、俺のために頑張りたいんです」
人のためじゃなく、自分のために。
こんなことを願う日が来るなんて、一か月前まで想像もしなかった。
「って、ここまで俺の勝手な都合だけでしゃべっちゃってますよね。そもそも沙也さんが俺と一緒にいるのが嫌だったら、もちろん普通にこっちの大学を受けますけど……」
「そんなわけない!」
俺の懸念を、沙也さんは大声でかき消した。
「そんなわけ、ないよ……。あるわけないじゃん。でも……」
俺は正座のまま半歩分、距離を詰める。
「先週このベッドで告白した時、そういえば言ってくれませんでしたよね。俺のこと、どう思ってるか」
きっと聞いた言葉のすべてが、偽りのない沙也さんの本心だった。しかし人は嘘を吐かなくても、嘘をつくことはできる。
「俺の古傷を抉らないよう、最大限言葉を選んでくれたんですよね。でも俺は、沙也さんの本音が訊きたいです。今度はどんな返事でも受け入れるので、聞かせてくれませんか?」
好きか、嫌いか。
本心を語るには、相手を心から信頼しないといけない。信頼とは、非常にエネルギーを使う行為だ。だから俺は相談する。俺のためにエネルギーを使ってくれませんかと。
それを頼めるのは、俺も沙也さんを心から信頼しているからだ。
沙也さんは歯を食いしばっていた。戦っていた。自分の矜持と、そして本心と。
好きか、嫌いか。
「……き……ぃ」
心が零れるように、沙也さんが言葉を漏らした。
次の瞬間、俺はベッドに仰向けに倒れ込んだ。
頭が枕にゆっくり沈んでいく。手足の自由がきかない。
「苦しいです」
俺は沙也さんに真正面から抱きしめられていた。
「……サドーくん」
「告白した日以来、初めて名前呼んでくれましたね」
「だって呼んだら、別れるのが辛くなっちゃうから……。メッセージ送るのだって極力少なくして、出勤の時間もちょっとずらして、なるべく顔合わせないようにして……」
「じゃあもう、気兼ねなく呼んでださい」
細い身体を抱きしめると、胸から温もりが伝わってくる。触れ合った肌が、わずかに感じる息遣いが、髪の甘い香りが、愛おしい。
「私も、サドーくんのことが好き。大好き……!」
沙也さんは確かめるように、我慢していた分を吐き出すように、何度も何度も「好き」とつぶやく。はじめは「俺も同じ気持ちです」「ありがとうございます」「これからもよろしくお願いします」とその都度返事をしていたが、やはり俺の貧困なボキャブラリーではすぐに返答のバリエーションが尽きてしまう。
だから結局、シンプルな言葉に落ち着くのだ。
「俺も、沙也さんが大好きです」
枕に頭を預けながら見上げる天井は、一面真っ白だった。
まるでキャンバスみたいで、新たな人生がスタートしたかのようだ、と思った。
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