DAY.16:「自分に……負けんなっ!」
学校の図書室に面した進路資料室には、先客がいた。
はじめの一瞬は、この人物がようやく自分の将来を真剣に考え始めたのかと感心したものの、すぐにミスマッチ感の方が上回ってしまった。
「この部屋に漫画は置いてないぞ」
彼女は広げていた有名私立校の資料を閉じ、大げさにため息をつく。
「アタシ、漫画読むのはくつろぎたい時とバイト中だけって決めてるから」
「後者はただのサボりじゃねえか」
チヅはヒヒヒ、といつもの屈託ない笑みを浮かべる。
「まさかお前とここで会うとは思わなかったな」
「それ、ライバルポジのセリフっぽい」
「どこまでも漫画脳かよ」
「でも、ようやく進路の方向性が決まったよ」
「『FUN・key』のバイトリーダーじゃなくて?」
「漫画の編集者に、アタシはなるっ!」
「ボケはもういいから」
「いや、かなりマジで」
「……マジで?」
「大マジ」
部屋の隅にあるパイプ椅子に、チヅが腰を下ろす。
「新卒で編集者になるなら、それなりに良い大学入らないとキツいぞ?」
俺の記憶では、チヅの成績は下の上といったところだ。テストの学年順位は下から数えた方が圧倒的に早い。一度だけ成績表を見せてもらったことがあるが、体育や美術はともかく五教科はいずれも壊滅的な数字だった。
「やっぱアタシ、漫画が好きだからさ。どうしても仕事で携わりたいんだ。でも描くのは苦手だしずば抜けた発想力もないから漫画家にはなれない。ってなったら消去法で編集者しかないぢゃん、みたいな?」
「消去法で残った仕事も難易度が高いわけだが」
「世の中に簡単な仕事なんてないでしょ」
「……おっしゃる通りで」
まさかチヅに正論を吐かれるとは。
俺は数日前のベッドでの会話を思い出す。
あの日以来、沙也さんとは一度も会っていない。決して関係性が拗れたからではなく、これから彼女が仙台で新たな生活を始めるにあたり、ブラウンとの添い寝の感覚を取り戻すためだ。
人は新しい環境に移行すると、得てして寝つきが悪くなるものである。仙台支社でバリバリ働けるよう今のうちに、ブラウンさえ隣にいればすぐ眠れる身体に整えておく必要がある。
今のところは快眠の報告をもらっている。何年も眠りをともにした相棒の抱き心地を簡単に忘れるはずもない。「もしかしたらまた睡眠不足になるんじゃ……」というのは、俺の完全な思い上がりだ。
緩やかな失恋。穏やかな別れ。
別離があらかじめわかっているのはいい。心の整理がつけられるから。
「ま、他にも楽しそうでコスパも良い就職先の心当たりはひとつくらいあるけど」
「そんなものあるのか」
「トコッチのお嫁さんとか」
盛大にむせた。食事中だったら間違いなく口内の食べ物を噴き出していただろう。
「ジョーダンジョーダン。だってトコッチは沙也サン一筋だもんね」
「……知ってたのかよ」
「ウケる。むしろ何でバレてないと思ってるのか知りたいわ」
「ま、フラれたけどな」
「はぁ!?」
パイプ椅子から跳ね起き、チヅが詰め寄ってくる。あっという間に壁の隅に追いやられ、端から見たら完全に恫喝の一部始終だ。
「意味わかんないし!」
「俺だって完全に納得したわけじゃないけど、向こうにだって都合があるし……」
「話せ、全部」
怒りと動揺が半々の剣幕に、俺は口を割らざるを得なかった。さすがに毎晩一緒に寝ていた事実は伏せ、アパートの前でフラれたということにしたが。事情聴取を終えたチヅは、もどかしそうに頭をガリガリと掻く。
「頑固っつーか強情っつーか……。もっと落としどころがあるんじゃないの?」
それに関しては否定できない。沙也さんはビジネスパーソンとしては優秀かもしれないが、人としては決して容量が良いとは言えない。
「でも俺は、沙也さんの人生を邪魔したくないんだよ。あの人が俺に対して同じことを思っていてくれたように」
「……あァ?」
チヅの目つきが鋭くなる。口元を歪め、頬を吊り上げ、今度こそ正真正銘キレていた。
「そんなの、自分から都合の良い存在に成り下がってるだけじゃん! もっと一人の人間として向き合いなよ! トコッチの好きな気持ちって、そんなハンパなものだったの? 普段は散々周りに世話焼いてるくせに、いざ相手が距離取ろうとしたらそんな簡単に突き放すの?」
「……突き放してなんかいないだろ」
「同じことだよ。トコッチのことフって、沙也サンが傷ついてないとでも思う? すぐに告白のことなんてすっきり忘れて、転勤先で彼氏見つけるとでも? そんなことできないから、トコッチと本当のお別れしたくないから、沙也サンだって自分の本心隠したんじゃん。コクったんなら責任もって覚悟決めろよ!」
「覚悟……」
「アタシだって、トコッチがいたから勉強頑張ろうって思ったんだよ?」
「俺が……いたから?」
「ちょっと前まではトコッチ、勉強に対して義務感っていうか、やらなきゃいけないものだから仕方ない、みたいな感じだったじゃん」
「それは、まぁ」
良い人生を送るための一番の近道。努力を客観的に証明するためのツール。俺にとって受験とは、大学とは、その程度の認識でしかなかった。
「でも最近はすっごく楽しそうだったから。『合宿』の時も生き生きしてるし。それは勉強に対して前向きになれる理由を見つけたからじゃない?」
沙也さんが仕事を頑張っているから、俺も胸を張って勉強を頑張っていると言いたかった。抱き枕としてじゃなく、対等な人間として抱き合いたかった。
「トコッチを近くで見ていたから、頭悪いアタシでも、この時期からでも、本気で勉強やろうって思えたんだよ!」
沙也さんもチヅも、自分の進む道をしっかり考えて、自分で決めようとしている。対して俺はどうだ。進路をなんとなくで選んで、相手の言葉をそのまま受け取って、極力傷つかないように自分を納得させようと小さくまとまっている。
「自分に……負けんなっ!」
チヅが俺の腹に正拳突きをする。力任せに殴るのではなく、親愛のこもったソフトな突きだった。腹部から身体全体に、少しずつ気合が満ちていく。
「……ダサいな、俺」
俺だけちっとも成長していない。今のまま生きていたら、この先何度も同じ壁にぶつかって、そのたびに逃げ帰ってしまうのだろう。
置いていかれるのも見送るのも、やっぱりごめんだ。
「すまん、俺が甘かった」
「アタシこそ勝手なこと言ってゴメン! 謝らないけどね!」
ヒヒヒ、と屈託のない笑みが返ってくる。
時間はまだ残されている。打開策はきっと見つけ出せるはずだ。
俺は自分より大きな本棚に向き直る。
答えはきっと、この進路資料室のどこかにある。
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