DAY.14:「……そういうことでいいんだよね?」
場所が自宅からホテルに変わっても、俺の体内時計は正確そのものだった。現在時刻は朝の六時過ぎ。もうすぐ朝食バイキングが始まる頃だ。
俺たちの体勢は一ミリも変わっていなかった。寝返りを打たず、ベッドをはだけさせず、抱き合っていた。温もりが愛おしくて、両手を離したくない。
いかん、予定の起床時間になったからには、沙也さんを起こさねば。放っておけば、丸一日眠り続けてもおかしくない。
「おはようございます、朝ですよ」
「……」
だいぶ深い眠りについているようだ。肩をゆすっても背中を優しく叩いても、まったくの無反応。おとぎ話ならキスのひとつでもするのかもしれないが、現実でそれをやったらただの犯罪である。ここは心を鬼にして、多少強引に目覚めさせる必要がある。
起床した俺は掛け布団を剥がし、次に窓のカーテンを全開にする。まばゆい朝日が沙也さんの横顔を照らす。
「……」
微塵も反応がない。
続いて俺は沙也さんの頬を両手で挟み、もにゅもにゅと顔面マッサージをする。
「……」
ビクともしない。ならば最後の手段だ。できれば実行したくなかったが。
俺は沙也さんの背中と膝の裏に手を回し、お姫様抱っこで身体を持ち上げる。
「起きろー!」
掛け声とともに、沙也さんをベッドに放り投げる。
ぼふん、と身体が小さく跳ね、沙也さんが枕に突っ伏した。
「ん、む」
沙也さんはもぞもぞと両手を動かし、空をつかんでいる。
「んー」
「起きてください。レストランで朝ごはん食べましょう」
「……もっかい」
「え?」
「もっかい、抱っこ」
「いつから起きてたんですか」
「抱っこー」
「はいはい」
再び背中と下半身に手を入れて持ち上げると、沙也さんが手を俺の首に回す。
「ほら、準備してください」
「……ぐぅ」
「こら、寝るな」
「……えへへ」
沙也さんはスリッパを履いて自分の足で立つ。
「少しは休めましたか?」
「まだ眠いけど、なんとか一日頑張れそうだよ」
沙也さんの笑みに、俺も勉強を頑張ろうとやる気をもらえる。
俺たちは身支度をして、一階のレストランに移動した。
ホテルの朝食バイキングは、独特の穏やかな空気で満ちている。同じ時間帯のファストフード店や牛丼屋ではこうはならないだろう。全員が同じ宿で夜を明かしたからこそ、室外でありながら室内のような程よくリラックスした空間が生まれるのだ。
俺はご飯に漬物、みそ汁、納豆、卵焼きと、王道の和食セットに仕立てた。飲み物は食事に合わせるならほうじ茶あたりが無難だが、選んだのはアイスミルクだ。牛乳は買うと何気に高いからな。統一感があるようでどこかアンバランスなのが、いかにもバイキングって感じだ。
一方、沙也さんはサラダにハムエッグ、トースト、ウインナーと欧米風のモーニングだ。飲み物はホットコーヒー。デザートにヨーグルトも持ってきている。
スーツを纏った沙也さんは美しい姿勢と所作で、食事に手を伸ばす。ここは彼女にとってもう【外】らしい。
だが表情に緊張はない。バターと砂糖たっぷりのトーストをかじり、頬を緩ませている。
「今日もホテルの部屋確保しておきます。仕事が一段落ついたら迎えに行くので、連絡くださいね。不要な荷物はこっちで預かりますから」
「そのことなんだけど、茶道くんはおうちで待っててくれないかな?」
「俺は構いませんが、一日でケリつくんですか?」
昨日のメッセージでは、土日出勤は確実のような口ぶりだったが。
「うん、絶対に今日で終わらせる。しっかり寝たから頭もばっちり冴えてるし。意地でも帰るから、茶道くんにはいつもの場所で『お帰り』って言ってほしいの」
「わかりました。でもキツそうだったら遠慮しないでくださいね」
とは答えつつも、必ず今日中にアパートに帰ってくるだろうという確信が俺にはあった。全身からやる気オーラが溢れ出ている。
朝食を終え、荷物を取りに部屋に戻る。忘れ物がないか室内を見回していると、ふいに背中に温もりを感じた。
「……沙也さん?」
後ろで沙也さんがぴったりとくっついていた。
「あとちょっとだけ、充電」
「だったら、こっちの方がいいでしょ」
そっと両手を外し、前から抱きしめる。そのままベッドに倒れ込み、頭をそっと撫でた。
「……スーツ、皺になっちゃうよ」
「そしたら家でアイロンかけますよ」
「仕事も行きたくなくなっちゃう」
「いつぞやの朝の仕返しです」
「サドーくんのいじわる」
「愛ゆえに、ですよ」
「愛かー。それじゃ仕方ないね」
高校生が愛を語るなどおこがましいだろうか。だがこの激情を他に何と言うべきなのか、知っている人がいたらぜひ教えてほしい。少なくとも参考書でも問題集でも、模擬試験ですらお目にかかったことはないんだ。
今回はさらっと受け流されてしまったが、沙也さんは俺の気持ちに気づいているのだろうか。
俺はただの抱き枕だ。抱き枕に喜怒哀楽など必要ない。もしこの気持ちが彼女にとって余計なものだとしたら、俺は自分の本心を封印できるだろうか。きっとこのままの関係でいた方が、お互いにとってメリットは大きい。
片想いなど、もう片方にとっては邪魔なだけだ。きっと俺は、まだ母親のことを引きずっているのだろう。愛の概念が、十数年前で止まっている。そもそも愛など知らずとも人は生きていける。メシを食って適度に眠れば、死ぬことはない。恋や愛を成就させたからといって、金も名誉も得られない。
それでもやっぱり、俺は沙也さんにこの気持ちを伝えたい。
知床茶道、十八歳の初恋だった。
★ ★ ★
「……はい、準備は通常業務と平行して進めますので。……いえ、こちらこそお手数おかけします。……はい、はい。では正式な手続きは週明けに。……失礼します」
出張中の上司に諸々の報告を終え、電話を切る。スマホの向こうから『牛タンお待たせしました~!』と元気の良い声が聞こえてきたから、一仕事終えて晩酌中だったのかもしれない。
「終わったぁ……!」
蹴伸びをして、回転椅子に背中を預ける。時計の針が夜の八時を回った直後だった。
終わった。良い意味で。目標通り、土曜日じゅうになんとか仕事を片付けることができた。これで日曜日はゆっくり休める。
やはり人間に必要なのは良質な睡眠だということが改めて証明された。朝ごはんをしっかり食べたのも勝因のひとつだろう。
茶道くんにこれから帰るとメッセージを送ったら、一分も経たないうちに返信が来た。
『夜ごはん用意して待ってますね』
思わず頬が緩んでしまう。オフィスに誰もいないとわかっていながらも、すぐに表情を引き締める。
彼には当初、抱き枕をお願いするだけのはずだったのに、今やすっかり生活の一部を委ねるまでになってしまった。ありがたいやら、大人として情けないやら。
「……」
『沙也さん、大好きです』
昨晩に耳元でささやかれた言葉が脳内でリフレインする。彼とベッドで抱き合った瞬間、私は催眠にかかったように眠りに落ちたので、きっと寝ぼけていたのだと自分に言い聞かせていた。
『愛ゆえに、ですよ』
あの時は平常心を装っていたが、内心はドキドキだった。スーツ越しに心臓のざわめきが届いてしまうのではないかと気が気でなかった。今でも思い出すと顔が熱くなる。
「……そういうことでいいんだよね?」
だったら、私も言わなければならない言葉がある。
本当はこのままがいい。人の本心を知るのはいつだって怖い。もし口に出して関係が変わってしまったら、言わなければ良かったと後悔するだろう。それを何年も、何十年も引きずることになるかもしれない。
だが人生は長い。守りに入るにはまだまだ早すぎる。もしうまくいかなくても、離れることになってしまったとしても、ためらってはいけない。
私は前に進みたい。
ノートパソコンを片付け、オフィスを出る。
今夜、彼に伝えよう。
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