DAY.14:「早くシャワー出てきてね」

 目的地に移動する沙也さんの表情は、色で例えるなら紫だった。


 羞恥の赤と、後悔の青。


 オフィスビルの外で待つ俺を見つけた沙也さんは、駆け寄ってきてそれはそれは熱い抱擁を交わしてくれた。失礼ながら、飼い主に飛びつく犬を想起してしまったくらいだ。


 あの場にいたのが俺たち二人だけだったら、俺も相応の情熱的なハグを交わしたいところだったが、沙也さんの背後にいる先輩らしき人物の、不可思議な現象を目撃したかのような眼差しを浴びたことで、妙に冷静になってしまったのだ。


 すれ違いざま、彼女は二つの言葉を残した。


 まず俺に対して、「合倉ちゃんをよろしくね」と一言。


 そして沙也さんには、「会社でもそれくらい柔らかくていいのに。可愛いわよ」と口説き文句のような言葉を残して去っていった。


「うぅ……恥ずかしくてもう来週会社行けない……」

「ま、まぁ、眠ってすっきり忘れましょう」


 誰しも色んな面を持っている。家族に見せる顔、友達に見せる顔、学校や会社での顔、ネット上での顔、一人でいる時の顔。どれも本当の自分で、優劣はない。


 二人きりの時にだけ見せてくれる、感情的で子どもっぽい沙也さんも俺は大好きだ。


 ただ、それを伝えるタイミングは今じゃない。ろくに睡眠をとっておらず、羞恥に支配されたこの状況で告白しても混乱させるだけだ。


「着きましたよ」


 たどり着いたのは、沙也さんの職場から徒歩十五分ほどの距離にあるビジネスホテル。併設しているコンビニは二十四時間営業で、社会人向けにブラウスや下着の類まで扱っていることも調査済みである。


「今さらですけど、勝手にホテル取っちゃって良かったですか?」

「今さらだけど、良くなかったように見える?」

「いえ、まったく」

「よろしい」


 受付でチェックインを済ませ、ルームキーを受け取る。十八歳とはいえ未成年を理由に断られないか不安だったが、手続きはあっさりしたものだった。朝食バイキングの時間など諸注意を聞き、コンビニで買い物を済ませてからエレベーターに乗る。


「私、東京のホテルに泊まるのって初めてなんだよね。ワクワクしちゃう」


 一時的な仕事の開放感からか、沙也さんのテンションも上昇気味だ。明日も休みだったらいいのに、一緒に遅くまで惰眠できたらいいのにと願わずにはいられない。


 八〇一号室のドアを開けると、小ぢんまりとした瀟洒な空間が広がっていた。左にテレビ、右にツインベッド。正面の窓から街並みを覗くと、ビルやトラックの人工的な光があちこちで煌めいていた。世の中にはまだこれだけ働いている人たちがいるのだ。昼間から働き通しの人も、夜勤の人も、すべての労働者に尊敬の念を抱く。


「早速だけど、先にシャワー浴びてきていい?」

「え? あ、はい」


 すっかり失念していた。一緒のベッドで寝るのだから予約は一部屋でOKと認識していたが、つまりはシャワーや着替えも同じ部屋で行うということになるじゃないか。その辺はバスルーム内で完結するとはいえ、配慮に欠けていた。


「わーい、久々にゆっくり浴びれる~」


 沙也さんはまったく気にしていない様子だった。単に俺が意識しすぎなだけか。


 平常心、平常心。


 やがてシャワーの水圧がバスルームの壁を叩く音が聞こえ始める。中から「はぁ~」と、間の抜けた声が届く。


「平常心っ……!」


 何を今さら動揺しているのだ。毎晩のように抱き合って、パジャマの下の肌着だって見たことがある。たかがシャワーの音に心を乱される理由がどこにある。


 洗面台がバスルームの外にあったのは幸いだった。俺は念入りな歯磨きによって邪念を振り払うことに成功した。


「ふぅ、お待たせ」


 藍色の浴衣に身を包んだ沙也さんはパタパタと手で顔をあおぎ、うつ伏せでベッドに倒れ込んだ。顔をこちらに向け、ねっとりとした視線を投げかけてくる。疲れが限界に達しているからか、妙に艶めかしい。


「早くシャワー出てきてね。待ってるから」

「秒で浴びてきます」


 なんてジョークを言いつつも、隅々まで時間をかけてしっかり洗う。耳の後ろ、脇、足の指先など、特ににおいが発生しやすい部分は念入りにこする。沙也さん専属の抱き枕として、不衛生な状態であってはならない。


 ドライヤーで髪をしっかり乾かし、口臭チェックもばっちり。清潔な浴衣をまとい、抜かりはない。


 バスルームを出ると、明かりは落とされていた。ベッド脇のサイドランプだけが薄暗く光を灯している。


 沙也さんはバスルームに隣接したベッド、その左側で寝転がっていた。


「サドーくん、早く早く」

「すぐ行きます」


 俺は身体を倒し、沙也さんと同じ体勢になる。どちらとも風呂上がりだから、距離を近づけるとほのかに温かい。


 さすがはホテルの寝具だ。ふかふかで、程よい低反発。シーツの滑らかな肌触りは、触れた者を虜にする。頭の後ろで枕がざりざりと音を立て、聴覚でも癒しを提供してくれる。中身はい草らしく、畳のにおいがする。


 沙也さんが両手を広げる。俺はそれを迎え入れ、両脇の下に手を回し、顔を交差させる。柔らかくてすべすべの肌が気持ちいい。


「今日も一日、おつかれさまでした」

「ねぇ、サドーくん」

「なんですか?」

「私、とっても幸せだよ……」


 沙也さんはスイッチを切ったように深い眠りに落ちてしまった。


 この三日間、気の休まる時間はひとときもなかったのだろう。沙也さんは一人でずっと戦い続けてきたのだ。仕事と、自分自身と。そして戦いはまだ終わっていない。


 どうか覚えておいてほしい。あなたは決して孤独ではないことを。誰よりも俺は、あなたを想っていることを。



「沙也さん、大好きです」



 真っ暗で飾り気のない部屋を見回していると、まるで世界から切り離されたような気分になる。音もなく、景色もなく、空もない。


 それでもいい。それでいい。沙也さんと一緒にいることが、俺にとっての幸せだ。少しでも長くこの人のそばにいたい。離したくなくて、つなぎとめておきたくて、俺は沙也さんをぎゅっと抱きしめた。

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