DAY.6:「沙也さんは楽しいのかな、人生」
物事に集中しやすい環境は人それぞれだが、俺の場合はそれがバスルームだった。身体を洗うというルーティーンを無意識でこなしながら、頭の中では別のことを考えている。大抵はシャワーを浴びる直前の勉強の内容だったり、「明日の朝食は何にしよう脳内会議」だったりする。
最近はもっぱら沙也さんのことばかりだ。そろそろ電車に乗った頃かなとか、今度の金曜日も酒の肴を作ってあげようかなとか、ウチの方が日当たりいいからまとめて布団を干したいとか。
先月まではお隣さんとここまで親しくなれるなんて思ってもみなかった。それどころか、俺は昔から人付き合いが希薄だった。幸い、クラスにある程度親しいと呼べる存在はいるものの、彼らと休日に出かけたことなんて数えるほどしかないし、中学時代の部活のやつらとは卒業以来、一度も会っていない。チャットのグループでは、受験が一段落ついたらみんなで集まろうという話題が出ているが、去年の夏休みも祭りに行こうという流れになって結局実現しなかったから、また頓挫するかもしれない。その次の機会は……成人式あたりかな。
二年後には自分が二十歳になるなんて想像もつかない。それどころか、今は目の前の受験勉強に手いっぱいで、大学生の自分だってうまくイメージできていない。大人になるのは避けられないのに。
たまに思う。良い大学に入れたとしてその先、選んだ就職先がブラック企業だったら。薄給で毎日深夜まで働いて、休みもろくにもらえない。神経をすり減らし、趣味もなく、会社と自宅の往復の日々……。高校生活がそこにたどり着くための前準備だとしたら、人生とはなんと空しいものだろう。
「沙也さんは楽しいのかな、人生」
一度訊いてみたい気もするが、ネガティブな言葉が返ってきたら勉強のモチベーションが一気に下がりそうだから止めておくか。
バスルームを出て頭をわしゃわしゃと拭き、雑念を取り払う。沙也さんが帰宅して寝る準備をするまで、もうひと踏ん張りだ。その前に日課のゴミ捨てを済ませておこう。
気持ちを切り替えると、地面を叩く雨音が耳に飛び込んできた。
週末は天気が悪くなるようなことを予報で言っていたが、一足早く雨雲が到来したらしい。窓に目をやると、ガラスに大きな粒がパタパタとぶつかっている。
「朝までには止んでほしいな」
そんな願いは、玄関の扉を開けた瞬間に強風によって吹き飛ばされた。
ゲリラ豪雨。いや、突発的な台風。
アパートの
ゴミ捨て場が建物の目の前なのは幸いだが、敷地を出てわずか数メートル歩いただけで、シャツやスウェットの裾が湿っている。
さっさと部屋に戻って勉強を再開しようと思った時、ある不安が頭をよぎった。
「……沙也さんって、傘持ってるのか?」
もし終電に乗っていたとしたら、この時間は最寄駅から自宅まで歩いている真っ最中のはず。
いつから雨が降っていたのかはわからない。改札を出た時点でどしゃ降りだったら、タクシーに乗るなり駅のコンビニで傘を買うなりできたかもしれない。だが途中でこの豪雨に見舞われ、折り畳み傘も用意していなかったとしたら。
「…………」
俺は自宅とは反対の方向に歩みを進める。このまま駅まで向かえばどこかで沙也さんとかち合うはずだ。
もし傘を差した彼女と出くわしたら、俺は恥をかくことになるだろう。友達でも恋人でもないただの隣人のことが心配で歩いてきた、なんて知られたらドン引きされる恐れもある。
ほ、ほら、風邪でも引かれたら、一緒に寝る俺に移っちゃうかもしれないし。ベッドフレンドとして、パートナーの健康を危惧しているのだ。
毎夜のことだが、道端には人も車もまったく見当たらない。この辺りの住人は、健康的な働き方をしているようだ。
街灯や自販機が、街を煌々と照らしている。地元にいた頃とは夜の明るさが段違いだ。こっちは何時になっても一日が終わる気配を見せない。静かなのになぜか心はざわついて、心が落ち着かない。そのうちすぐに朝が来て、再び夜まで気を張らなきゃいけない。その繰り返し。
スーツを着た仕事モードの沙也さんは、まるで世界中が敵であるかのように周囲を警戒している。声を潜め、姿勢を正し、気を張っている。だからこそ、俺にぬいぐるみの代わりとして癒しを求めたのだ。大人のくせに恥ずかしいなんて、俺は微塵も思わない。沙也さんは頑張っている。俺はそれを知っている。
駅までの道のりの半分を通過しても、猫一匹すれ違うことはなかった。普通に考えて、タクシーで帰ったのだろう。直径七十センチという大きな傘を使っている俺でさえ、両肩が濡れているのだ。この悪天候で、二十五分の道のりを徒歩で移動するなんて無謀すぎる。次の曲がり角で人がいないことを確認したら、引き返そう。俺の帰りが遅くなって沙也さんの睡眠時間が削られてしまったら本末転倒だ。
そう思い、ブロック塀の角を左折すると。
「……ん?」
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