第41話 広げた翼(後編)

「あれは?」

「聖女アーラ様じゃないのか? なんでこんな場所に!」


 アルスに手を引かれ、白い髪の少女が現れた。〈赤霊峰マウント・ルーベル〉で見た少女本人だ。

 色を除けば、まるでコンピュータが見せた映像からそのまま抜け出てきたんじゃないかと思うほど、彼女は一万年前と変わらない姿をしていた。

 一切の感情を抜き取られた彼女はイリスよりも無表情で、失明しているんじゃないかと思うほど周りを見ていなかった。

 いや本当に失明しているんだ。今は妖霊が一羽も宿っていないから。


「ツバサ……!」


 旧友の目覚めを目の当たりにして、ステラは目を見開いた。怯えているようにも見える。アルスはそんな彼女の前に立ち、諭すように言った。


「答えがわかったんだ。ツバサの言った三つの質問の」

「……本当に?」

「ああ。ツバサに直接言いたい。ツバサの精神を返して」


 ステラは嫌だと首を振った。ペンナとイリスが両サイドにしゃがみ、黄色い少女の肩を叩いた。


「ステラ、お願い」

「……きっとツバサが泣いてしまう」

「貴女が泣くのも辛いのよ。ねえ、お願い。ステラ」


 ペンナの説得もあり、ステラはようやくツバサに精神を返すことにしたらしい。星くずのような光を手の中に灯し、それをツバサの胸に押しこんだ。

 息を吹き返したかのようにツバサがハッと顔を上げた。やはり何も見えていないらしく、両手を前に突き出してツバサはフラフラと辺りをさまよった。

 ペンナがステラの手を取り、おもむろに腰を上げた。


「行きましょう。私達は元々一つだった。三羽とも宿ってあげないと」


 深呼吸し、三羽の神霊はツバサの肩に手を添えた。目を閉じるとそれぞれ黄金の塵、紫色の霧、緑色の光になり、ツバサを包み込んだ。

 妖霊を得て、視力が回復したらしい。傷ついた無数の妖族と魔族に注目されていることに気づき、ツバサはヒッと短い悲鳴を上げた。

 背後からアルスが歩み寄る。足音を聞き、ツバサは懐かしい人に振り返った。


『やあ。久しぶり……でもないのかな。そっちは』


 ワコク語で話を始めた。それだけでアルスが別人に見えて僕はドキリとした。

 ツバサは目の前の状況を受け入れられずにいるようだった。アルスは何と切りだそうか悩み、落ち着きなく頭を掻いた。ツバサはシャツの裾を掴み、うな垂れた。


『思い出したの?』

『一万年もかかったけどな』

『そんなに経ってるの?』

『驚くよな。そりゃあ。ツバサはずっと眠ってたんだ。その間に色々なことがあった』

『色々って?』

『色々だよ。色々……』


 重々しい沈黙。ツバサが眠りに就く前、二人の関係がいかにこじれていたのかが空気でわかった。

 二人とも、本当に苦しくて辛い時を生きていたんだな。

 ツバサは何かを呟くように息を吐き出し、裾を更にキツク握りしめた。アルスがまた頭を掻く。言葉に困った末、アルスは口を開いた。


『俺、今、アルスって名乗ってる。学術とか学びとか、そういう意味の言葉』

『知ってる。私、アーラが名付けるのを見てた』

『あ、そ、そっか。でも、ユウヤだった頃のことも覚えてて』

『だから?』

『だから、ええっと……』


 アルスがこんな風に口ごもるなんて。あまりにも落ち着きがないので、思わず頑張れと励ましの声をかけたくなった。

 それでも、アルスはやはりアルスだった。自分で解決しようと、一握りの勇気を振り絞ってツバサに頭を下げた。


『ツバサ、謝りたいことが二つある。まずはユウヤとして。ツバサの命の重さはいくらかって質問をしてごめん。無神経すぎた。本当にごめん』

『……』

『それから、アルスとして謝りたいことが。ユウヤのフリをしててごめん』

『……ユウヤじゃないの?』

『ユウヤと同じ精神と記憶を持ってるのは間違いない。でも、ユウヤは死んでいるんだ。俺はユウヤじゃなかったんだ』

『ユウヤなんでしょ?』

『違うって君の心の奥底が言っているだろう?』


 ツバサは混乱しているようだった。裾を握っていた指を髪の毛に絡ませ、頭を抱えた。


『ツバサ』

『どうして空は茶色いの? どうして私の肌はこんなに青くなってるの?』

『〈太陽ソル〉が消えたから』

『どうして〈太陽ソル〉は消えたの? どうして〈太陽ソル〉に手を出したの? 私、耐えられなかったんだよ。変色した景色に、朝も夜も来なくなった世界に。なんで私一人のためにあんな大掛かりな実験をしたの? ねえ。ねえってば!』

『だってそれは、君が自分なんて無価値だって言うから』


 アルスもたまらなくなってきたらしい。僕の聞いたことのないような緊迫した声を出していた。


『〈命源ポエンティア〉の観点からいけば、私は寿命も短かった。ロクに働けず、誰からも必要とされていなかった』

『寿命が命の重さを決めているなんて、間違っている』

『妥当な測り方よ』

『間違っている! だったらどうして俺はこんなに苦しい? 本当に無価値だったら、き、君と替われたらとかそういうの、思わないだろ! 俺は、君のそういう態度、凄く気に入らなかった。だから……だからあの理論を、傾動天秤理論を立てたんだ! 君はああいう風に言わなきゃ、納得しないだろうって思ったから。なのに、君は……君は全然! 全然わかろうとしなかった! なんで、なんでなんだよ! なんでそんなに俺の言うことが、し、信じられないんだよ!』


 興奮に震え、アルスの声は段々か細くなていった。こんな風にどもっているのも、声を絞り出すようにしか話せなくなっているのも初めてで、見ているこっちが不安になった。

 その性格を知っていたのか、ツバサはあまり驚いていないようだった。不自然なほど冷静で、フウと溜め息をついた。


『……ユウヤの話、いつも回りくどくてわかりにくいんだよ』

『……』

『ここに命を測れる天秤がある。観測対象の君を左皿に乗せたとする。天秤を釣り合わせるためには、右皿には何を乗せればいいか。但し、観測者は俺とする。この答え、結局なんだったの?』

『〈太陽ソル〉一つ分でも足りない』

『情熱的な答えだね。でも、私は〈太陽ソル〉がなくなって悲しかった。爆発のせいで何億人も死んだしね』

『それでも、後悔しなかった。出来なかったんだ。俺には』

『私にはその神経が理解出来ない。考え方が偏りすぎだよ。私のためなら何億人も死んでもいいって思ってたってことでしょ? 命は平等のはずなのに』


 あの宿題を出したユウヤもユウヤだが、ツバサもツバサだな。表現が直球すぎて、他人の僕も不安になってしまう。


『……ツバサ。ツバサにとって俺はどれくらいの命の価値がある?』

『なんで急にそんなこと』

『無価値か?』

『そんなわけないでしょ? とても大事よ。何にも変えられないくらい、とても』

『だったら、俺が右皿に乗ってもいいかな?』

『私の命の重さは一人分ってこと?』

『俺一人分。他の誰でもない、俺』


 ツバサは口を噤んだ。再び重い沈黙が流れた。いいやとアルスはふてくされたように笑った。


『俺じゃなくてユウヤだった。アルスとユウヤも重さがつり合わないんだった』

『別にどっちだっていいよ』

『よくない。今話しただろう。俺はユウヤのフリをした別の存在で、アルスなんだって』

『……』

『なんか違和感があったんだろう。上手く表現出来ないけど、ところどころ違う部分があったはずだ。この翼とか』


 隠すように畳んでいた翼を指さした。ツバサの大きな目が縮こまった羽の塊へと移った。アルスは罰が悪そうに顔を暗くした。


『アルスって呼んだ方がいい?』

『その方がいいと思う』

『翼、綺麗よ。第一、私がユウヤに描き加えたものじゃない。綺麗じゃないはずがない』

『そうだな』

『触っていい?』

『ああ』


 解きほぐすようにアルスは右の羽を前に広げた。ツバサはフワフワの羽を気持ちよさそうに撫でた。

 少しくすぐったいのか、アルスは唇を真一文字に結んでいた。


『ある時から見せてくれなくなったよね』

『君が自分を傷つけ始めたから』

『そのうち、貴方を殴るようになった』

『殺された』

『怖くないの?』

『……怖い。でも、今は君なしで一万年も過ごせた自分が怖いかも』


 翼を撫でる小さな手をアルスはそっと取った。


『好きなんだ。コンピュータに映ったツバサを見た時、俺はアルスとして恋に落ちた。ここから新しく始めないか?』

『前の繰り返しになるかも』

『俺がユウヤとは別人だったとわかっても?』

『……どうかな?』

『俺は目の前で成功例を見た。同じ式で表現されても、初期条件が変われば結果も変わる。違うか?』

『そうだね。今度は最適解に辿り着けるといいね』

『結果がわからない以上、俺達は憶測でしか語ることは出来ない。でもそれは同時に、やってみる価値があるってことだ。理論を証明するためには事象が必要だ』


 少し躊躇しながら、アルスはツバサを引き寄せた。宙をさまよう左手をツバサが捕まえる。

 ただ手を握り合う。今の二人にはこれが精いっぱいのようだ。


『傾動天秤理論、少し理解出来た気がする』

『なら、よかった』

『でも、やっぱり〈太陽ソル〉に手を出したのはやりすぎじゃないかな』

『……青い空が好きだった』

『白い雲が好きだった』

『山は緑、海は青』

『桜はピンク色、紅葉は赤と黄色』

『ごめん。俺が壊した』

『二人で考えようよ。〈太陽ソル〉を復活させる方法。壊せたんだから、きっと作れる』


 ツバサは柔らかく笑った。顔立ちはそっくりなのに、ペンナ、ステラ、イリスの誰とも似ていない笑顔だった。


『やっと笑ってくれた』

『アルス』

『ん?』

『私のこと、好きになってくれてありがとう』


 アルスも笑っていた。とても人間らしいというか、普段のひょうひょうとした態度が信じられないくらい温もりに溢れた表情で、見ているこっちまで頬が緩んだ。


 ツバサから三色の妖気が現れ、それぞれ少女の姿に落ち着いた。一緒にいた妖霊が三羽に分裂していて、ツバサは少し驚いたようだった。


『よかった』

『アーラ?』

『今はステラっていうの。精神を返したら、泣くんじゃないかって心配してた。仲直り出来たんだね。もう傷つけないんだね』


 ステラは堰を切ったように泣き始めた。ツバサが心配かけたねと背中をさする。

 その様子はまるで姉妹のように見えた。こうして見ているとステラが如何にツバサのことを愛していたかわかるな。

 手当たり次第に人間の命を秤にかけていたことは許しがたいは思うけど、どうしてそんな非道に走ってしまったのか納得はした。


『ねえ、アルス。私の目、おかしいのかな。さっきから周りに沢山の人が見えるんだけど』

『それは何もおかしくない』

『やだ。こんな大人数の前であんな恥ずかしいこと言ってたの?』

『喋ってる言葉が違うから、そこは大丈夫。あ、でもゼノは俺の記憶を持ってるから、ワコク語でもわかっちゃうかも』

『通じてなくても恥ずかしいよ。どこかに移動しようよ』

『それなら、星の神殿に行こう。〈色封石ラピス・カラー〉の街、まだあるんだ』

『よく残しておいてくれたね』

『礼を言うならステラだよ。ずっとあの場所を守り続けてくれたのはステラなんだ』


 アルスにエスコートされ、ツバサは歩き始めた。聖女様のお帰りだと、周囲の妖族も魔族もサッと道を開けて頭を下げた。

 聖女と呼ばれている現実を知らないツバサは不思議そうに彼らの後頭部を見回していた。ステラが星の力でツバサを重力から解放し、宙に浮かせた。


『アルスは飛べるんだね』

『この翼のお陰で』

『その翼、どうしてユウヤの背中に描き足したかわかる?』

『どうして?』

『それはね』


 二人は遠くの空へ消えた。幸せそうな笑い声が遠く離れても聞こえてきた。

 もうアルスは僕の妖霊になることはない。いよいよそう実感出来て寂しいと思った。けれどこんな別れなら、嫌な気分はしなかった。


「今のはなんだったんだろう?」

「さあ……。聖女様には天使の恋人がいたってことか?」


 周囲の妖族と魔族は呆気にとられる中、フロースが急に胸を押さえてうずくまった。どうしたのかと覗き込んで気づいた。フロースの胸から呪いの証である罰印が消えていた。


「呪い、消えたの?」

「そうみたいだ。何も残っていない」


 フロースの顔に笑みが咲いた。僕も嬉しかった。

 フロースは死なない。これからもずっと生きていかれる。


「フロース」

「ゼノ」


 歓喜に任せて抱き合う。僕は罪悪感すら覚えるほど幸せだった。

 そんな僕達を周囲の妖族と魔族達は不思議そうな顔で見ていた。


「なあ……〈妖国フェリアーヌ〉の王子と〈魔国デモンドカイト〉の王女が仲睦まじいんだけれど」

「〈魔国デモンドカイト〉は〈妖国フェリアーヌ〉の王子の悪事を許したのか?」

「そうとしか思えないだろう。思い返してみれば、最近の魔神様はどこかおかしかった。〈妖国フェリアーヌ〉の殺戮を止めるためには、魔神様を殺すしかなかった?」

「〈妖国フェリアーヌ〉の王子が魔神様を殺めたのは、仕方がなかった。ということは、イグニス・G・イーオンは英雄?」

「気のせいかな。今、魔神女子様が別の名前を口にされたような気がしたんだけど」


 気が済むまで抱擁を続け、僕達は離れた。いつまでもこうしてはいられない。

 まだ僕達に気づかずに戦いを続けている人達がいるんだ。


「フロース、まずはこの場を収めないと」

「わかってるわ。急ぎましょう」


 この場で停戦を宣言するのは危うすぎる。フロースが魔族の司令官に命じ、まずは魔族達を〈妖国フェリアーヌ〉の地から撤退させてもらった。

 僕は僕でレグルスの威厳を借りてまだ頭に血が上っている人達を落ち着かせることに専念した。

 コルヌがこの事態を伝えてくれていたらしく、王宮にいた国王ラウルムも現場に駆けつけてくれた。直々の国王命令もあり、やっとのことで戦乱は終息を迎えた。


 こうして、妖族と魔族の戦いは幕を下ろした。

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