第32話 懺悔(中編)
「こんにちは」
女の人の声が聞こえた。しかも、かなりの至近距離から。
「誰?」
「ウェントスよ。もうすっかり定着してるし、ペンナの方がいっか」
温かな風が冷えた手をそっと包みこんだ。
「記憶を思い出していたの?」
「少しだけ」
「その様子じゃあ、悪いことばかり思い出しているようね。貴方はそんなに恥ずかしがるような人じゃなかったよ。ちょっと手を貸してくれる? 渡したい物があるの」
引っ張られるまま、前に手を突き出す。ペンナは丸くて小さい物を僕の手に握らせた。
「これは?」
「キャンディーよ。それを舐めれば寸断された記憶の回路が戻る。思い出すか出さないかは貴方次第だけど、思い出した方が自分のためだと思う。私は先に神殿に戻っているから。じゃあね」
優しく頭を撫でてくる。まるで母親が息子を励ますように。
僕は俯いていた顔を上げた。失明しているのに、ペンナの顔をよく見たいという衝動に駆られた。
フワリ、静かな風が吹いて止まった。ペンナが去ったようだ。
記憶を思い出させてくれる飴か。グッと握りしめてみて、その硬さと脆さを確かめてみる。
まだ思い出したくない。思い出すのが怖い。
フロースが怒っているかもしれない。泣いているかもしれない。
辛い思いに耐えられるほど僕は強くないんだ。
僕はそっと飴をポケットにしまった。
ガシャガシャと重々しい音が響く。鉄格子が開いたらしい。
牢番か? どこかに連れていかれるのかもしれない。
僕は身を硬くして足音が近づいてくるのを待った。ハハハ、と幼い声が笑った。服の擦れる音ですぐ近くにしゃがんだことがわかった。
「お待たせ。牢番から鍵をかっさらってきたよ。一緒に出よう」
「誰だ?」
「コルヌだよ。これ、見える? サノー先生が余った材料で作ってくれたんだ」
カチッという音とともにボンヤリと何かが浮かび上がる。灰色の冷たい石畳と、かすかに震えている僕の薄汚れた手だ。
コルヌが僕の右手に懐中電灯を握らせてくれた。
警戒しながら光をコルヌの方に向けてみた。顔が見えた時、コルヌが眩しいと顔を背けた。
「扉は魔神族の魔力で鍵がかけられていたはず。どうやって開けたんだ?」
「エヘヘ。実は、ここに捕らえられてる間にここの見回りも任されたことがあって、その時に開け方を教えてもらったの」
「フロースは? 無事なのか?」
「いなくなっちゃった。僕と先生で抑えてたんだけど、星の力を使われたら体動かなくなっちゃって。コウモリになって出ていくのを見てるしかなかった」
手を引かれるまま立ち上がった。
ほんの狭い範囲しか照らせないが、懐中電灯があるだけで恐怖心がかなり和らいだ。
これがなければ歩くことすらままならなかったと思う。
「記憶は戻ったのか?」
「小瓶を飲んだら全部元通り。国王様と王妃様は先に牢屋から出して、魔神室においでだよ。皆、ゼノと話したくて仕方ないんだ」
石畳を進み、階段を上る。懐中電灯で照らすと全ての物が変色していることに気がついた。
深い緑色だった絨毯は目の覚めるような赤に、薄紫だった壁はクリーム色に、銀色だった手すりは黄金に。
違和感と懐かしさが入り混じる。風の神殿で〈
さっきは数分で駆け上がった道のりを十五分もかけて進み、ようやく魔神室に着いた。
魔神室に入るなり、あのロバ女がヌル臭い鼻息を吹きかけて出迎えてきた。
「まあ、ゼノ! よくぞ来てくれましたわ」
「ゼノって呼ばないでくれませんか」
「え? だって、ゼノっていう名前なんでしょう?」
「呼ばれたくない。どうしても名前が必要なら、イグニスにしてくれ」
「あ、そう……」
敬語は強烈な壁を作る。だから敢えて家族だと思っていた人達に使った方がいいと思った。今の僕にとっては息子だと思われることが一番惨めだ。
ロバ女を振り切り、中央に進む。空っぽのベッドの横でサノーが顔を上げ、後ろめたそうに背中を丸めた。
更にその横に国王ラウルムが佇み、僕がつま先で足元を確認しながら進むのを黙って見ていた。
カエルムの遺体は既に片づけられているらしい。真っ赤なじゅうたんには砂粒一つ残っていなかった。
「体は? どこか痛む場所はないか?」
「大丈夫……です。ただ捕らえられただけですから」
「そんな風に他人行儀な言葉を使わないで欲しい。以前のように、楽に話してくれないか?」
「そうは言っても他人ですから」
「そういうことを言うな。お前は家族も同然だ。胸を張れ」
「何が家族も同然だよ。今までずっと僕のことを放っておいたくせに」
「なんということを。俺は本気でお前のことも息子だと思っているのに!」
サノーが落ち着くようにとラウルムを宥めた。コルヌが不思議そうな顔で見上げてくる。ここまで導いてくれた幼い手を僕は払いのけた。
折角牢屋から出られたと思ったのに、最低な気分だ。これならあそこで一人でいた方がマシだった。
「すまんのう。お前さんには嫌な言葉が並んでしまったかもしれん」
懐中電灯を向けると、サノーが深々と頭を下げていた。ラウルムが眩しそうに顔をしかめて目を背ける。
サノーはだけはやはり眩しがらないので、遠慮なくしわだらけの顔を照らすことにした。
「お前さんをここに呼んだのはわしなんじゃ。あの時、魔神カエルムが音場の結晶を残していたのを見たじゃろう? それを一緒に聞いてほしいと思ったんじゃ」
「だったら、僕とサノー二人だけでいいだろう」
「お前さんや、気持ちはわからないでもないが」
「大体、なんで〈
国王と王妃は互いに顔を見合わせた。僕の意見にぐうの音も出ないと思ったらしく、仲良く頭を下げて謝ってきた。
「やはりお前はイグニスとはどこか違っているな」
「……」
「わかった。ここはお前に従って身を引こう。しかし忘れないでほしい。お前が望むなら、俺達はいつでもお前を息子として迎え入れるつもりだ」
「気持ちだけで結構です。僕はずっと一人で生きてきたんです。今更、誰かと一緒に暮らそうなんて思いません」
「そうか……」
国王と王妃は扉を開けて出ていった。去り際に国王がコルヌを呼んだが、コルヌは首を振って僕の隣に並んだ。僕の手を握って、甘えた目で見上げてきた。
「僕は残っててもいいよね? 僕はただの召使だから」
「だからと言って残る理由もないだろう。なんで居座ろうとする?」
「僕はイグニスのことがもっと知りたいんだ。一緒にいちゃ駄目なの?」
正直、馴れ馴れしくされるのは嫌だった。
しかし、コルヌはまだ国王と王妃に比べたらマシな気がしたから、許すことにした。
バタンと重々しい音を立てて大扉が閉まる。僕には何も聞こえなかったが、聴覚の優れたコルヌの鹿耳は暫くの間大扉の方を向いていた。まだあの二人近くにいると思うと話を切り出す気になれず、僕は沈黙を貫いた。
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