第18話 狼の王(前編)
温かい。とてもいい香りがする。
俺はいつの間にか意識を失い、深く眠っていたらしかった。
知らない天井、もぐった覚えのない毛布。そばに人の気配を感じて俺は飛び起きた。
頭がガンガンと痛む。堪えきれず、やけに柔らかい枕に額を沈めた。
「気がついたんだね。よかった」
知らない声。見ると上半身裸の少年が立っていた。胸元には豊かな毛が生え、耳の上から枝分かれの多い立派な角が生えている。
体の変形があるということは、俺と同じ妖族か。
「君は……?」
「何か言った? 喉渇いたよね? 何か飲む?」
「ここはどこなんだ?」
「やだな。イグニスの部屋だよ。寝ぼけてるの?」
俺の部屋? 随分と豪華だ。
金装飾の施された家具が並び、フカフカな絨毯が一面に敷き詰められている。念入りに掃除しているのか、埃一つ見当たらない。
ふと足に違和感を覚えて毛布をめくってみる。げっ、脚が鳥の脚に戻ってるじゃないか。
「なんで……」
「もしかして脚のこと? それなら、変な呪いがかかってたから解いたよ」
「解いたのかよ!」
「うん! 解くの大変だったんだよ。強い祈魔法を使える召使を三人も呼んだんだから」
余計なことをしてくれる。でも、変形のことを何も言ってこないってことは、やはり体の変形を気にする俺っておかしいんだろうか……。
金ぴかの高級そうなドアが開く。周りの制止を振り払い、慌てた様子で一人の女性が滑り込んできた。
耳が横に伸び、顔立ちもロバとそっくりだ。女はフガフガと鼻を鳴らし、俺の首元に抱きついた。
「今までどこに行っていたの? 魔族に呪いなんかかけられて、可哀想に」
抱く力が強すぎる。しかも鼻の粘膜が首について気持ち悪い。
ゾッとして、俺は思わず悲鳴を上げた。
「は、離れろよ! っていうか誰だ、おばさん?」
「お、おばさん!」
ロバ顔が視界に飛び込み、拡大する。
なんだよ。気持ち悪い顔してるのが悪いんだろ。
俺は女を押し返し、毛布を首元に引き寄せた。
「貴方をそんな口の悪い子に育てた覚えはない!」
「俺を育てた? あんたが?」
「何の冗談を言っているつもり? 私は〈
マジかよ! そっちこそ何かの冗談だろ。
俺が王子? このロバ女の息子?
「それじゃあ、そこにいる角の子は?」
「いつまでとぼけるつもりなの? 弟のコルヌじゃないか」
ハハハ、弟……。俺、兄だったのかよ。まぁ兄弟くらいいてもおかしくはないけど。
バタンとドアが開く。そこからコルヌと年がそう変わらない少年少女が四人なだれ込んできた。全員体が動物のように変形している。唸り声と金切り声で部屋の中が騒がしくなった。
「イグニス兄様!」
「本当に生きていたのか? って何か姿変わっているな?」
「幻ではないのですよね? 安心いたしましたわ、お兄様」
「心配したよ。兄上がいないんじゃあ俺が国王になんなきゃいけないのかって思って、最近ずっと眠れなかった」
「う、うるさーーーい!」
なんなんだよ、もう。ってこいつら全員俺の弟と妹なのか? どんだけの大家族なんだよ!
オッホンとロバ女が咳払いした。弟妹達を下がらせ、ロバ女は偉そうにのけ反った。
「国王陛下がお呼びです。立てるのなら王室に参りなさい」
「……はい」
やれやれ、状況が益々とんでもなくなってきたな。
起きられるとわかると俺は半強制的に国王の元へ連れていかれた。不思議なことにコルヌを除いた弟妹達はついて来なかった。
王室に入るなり国王が立派な椅子に深く腰掛けているのが見えた。ロバ女とは異なり、ラウルム・M・イーオンはまさにイメージどおりの国王だった。
宿している妖霊のせいで顔立ちが少し狼っぽく、王冠の横から尖った狼の耳が生えていた。
王座の御前で、コルヌが慣れた様子でお辞儀した。見よう見まねで俺も従った。国王が顔を上げるように言う。コルヌに倣い、背筋を伸ばした。
「お前が国を去ってから既に一年以上の時が流れている。これまでどこで何をしていたのか説明しろ」
そんなことを訊かれても、覚えてないんだけど……。
黙っている俺をコルヌがチラリと盗み見た。
「お父様、一つ気になっていることがあるのですが」
「言ってみろ」
「イグニスは色んなことを忘れているみたいなんです。ここが自分の生まれ育った家だということも、〈
どういうことなのだと国王が俺を攻め立てる。迷った末、俺は正直に記憶喪失だと答えた。国王は表情を険しくした。
「一体何故記憶喪失などになってしまったのだ?」
「さあ。覚えてないよ。記憶喪失なんだから」
「そのちぐはぐな姿とも関係があるのか?」
「知らないよ。目が覚めたらこうなってた」
直感的にフロースの名前を出すのは控えた方がいいと思ったので言わなかった。
国王が表情を硬くして俺のことを食い入るように見つめてくる。青色の独特な目をじっと向けられると、どうにも落ち着かなくなった。さすが王様、威圧感が凄い。
青色の煙が漂う。現れたのは獰猛そうな狼の妖霊だった。
「記憶喪失っていうよりは、記憶を封印されたって方が近そうだぞ、国王陛下。イグニスからレグルス以外の妖霊の気配を感じる」
「なんだと? 全員一度姿を見せるのだ!」
国王が命じると、体から五色の煙が現れて妖霊の形に落ち着いた。
コルヌが驚き、自分の体から現れた鹿の妖霊の首根っこに抱きついた。
「うわあ、何ここ? ここが王城なの?」
「あそこにいるのが妖王様? 人相悪いなあ。誰かさんにそっくり」
ディーバとアグリコラは幼い子供のようにキャーキャーと部屋の中を飛んだり駆け回ったりした。それをマルガリータが優しくいさめ、粗相をした子供を謝らせるように無理矢理頭を下げさせた。アルスはやっぱりこうなるよねと呆れて肩をすくめている。
最後に現れたレグルスだけが礼儀正しくお辞儀をした。
「国王陛下」
「レグルスよ、これまでイグニスと行動を共にしてきたな?」
「はい」
「何が起きたのか説明してくれ」
「申し訳ない、陛下。我輩は魔族の呪いを受けているため、話すことは出来ない」
「呪い?」
「国王もよくご存じのフロース・L・アモル。今回の一件は彼女の手に寄るものだ。アーラの秘術を用いてイグニスから記憶を抜き取り、記憶による妖霊の排除バリアを弱めた上で他の妖霊を押しこめた。最初はあと二羽いた」
「あのフロースが。さすがはあの男の娘だ」
「イグニスは今、フロースの調査に協力させられている。そのためにより多くの妖霊を身に宿し、力を強くする必要があった。だがここにいるのは見ての通り妖獣上がりばかり。礼節もわきまえず下品で、我輩も辟易としている」
「まあまあ、そんなこと言うなよ」
アルスがレグルスの肩を叩く。
馴れ馴れしい態度に国王の青碧の狼が無礼だと一喝した。
「おお、こわっ。王族の妖霊ってのはこんな堅物だらけなのか」
「口を慎め。お前、普通の妖霊じゃないな。妖力のタイプが他の妖霊と違う」
「さすが、お見事。そう、俺はイグニスの体に押しこめられる前、風ウサギ様に仕えていた。神霊の影響を受けてるから妖力も少し強めなんだ。どう? 恐れ入った?」
ペンナとアルスにそんな関係が? 国王の妖霊が牽制するようにアルスの周りを歩き始めた。
「神殿で生涯をすごすはずのお前が何故人に宿る道を選んだ?」
「どうせすぐに追い出されるんだから俺の勝手だろう。相手が〈
「一体、何を企んでいる?」
「別に。俗世を知りたいと思っただけさ」
「他にも何かあるだろう」
アルスは肩をすくめ、首を振った。狼が牙を剥き出しにし、ウオンと吠えた。
しかし、国王が下がるように言うと渋々諦め、泡が弾けるように姿を消した。
「なあ、国王、様でいいのか? あんたに訊きたいことがあるんだけど。なんでリアロバイトを襲ったんだ?」
国王が何故知っているのかと顔を強張らせる。レグルスがあの場に俺がいたことを説明した。国王は口ごもり、心から申し訳なさそうに眉をひそめた。
「イグニスがいることを知らなかったのだ。許してくれ」
「そうじゃなくて、なんで襲ったのか訊いてるんだ。前から〈
国王は狼狽えたように視線を泳がせた。一応悪いことをしてる自覚はあるんだな。許せないが、とりあえず話が通じそうな相手でホッとした。
暫く悩んでから、国王は咳払いをしてレグルスを指差した。
「一年前、俺はレグルスからある報告を受けた。イグニスが魔神カエルムの手にかかり、死んだという内容だった」
「死んでないんだけど」
「わかっている。しかし今日、コルヌからの報告を受けるまでは死んだと思い込んでいた」
「それで〈
国王は口を噤んだ。俺だけが理由じゃあなさそうだな。
「ねえレグルス、どうしてイグニスが死んだなんて嘘ついたの?」
コルヌが真っ直ぐな瞳で訊いた。レグルスは顔を背けて答えなかった。
助け船を呼ぶようにアルスがコルヌとレグルスの間に割って入った。
「俺から説明するよ。まずイグニス、まだ思い出せてないようだから言うけど、この戦争を最初に吹っかけてきたのは魔族だ。魔族の手によって妖族が殺されていくことに、王子のお前は心を痛めたんだろうな。んで、ある日お前は単独で魔神城に乗り込み、魔神カエルムに〈
「サノーに?」
「そ。お前、サノーに二度助けられてるんだよ。んでだ、ちょうど治療が終わる頃、国王様への報告を済ませたレグルスが〈
そんなことがあったのか。一年前にも瀕死の傷を負ってただなんて、誰も教えてくれなかったな。
不思議そうにコルヌがアルスに尋ねた。
「ねえ、アルスってイグニスとずっと一緒にいたわけじゃないんでしょ? なんでそんなに詳しいの?」
「フロースに捕縛されてたんでその場にいたんだ。アーラの秘術を使うための準備が進んでいたんだよ。な、レグルス」
アルスが再びレグルスの肩を叩く。馴れ馴れしいとレグルスはその手を振り払った。
気のせいか? レグルスは今のアルスの話、あんまり納得していないような……。
「レグルスよ、言いたいことがあるのなら遠慮なく言ってみるがいい。咎めはしない」
国王も俺と同じ違和感を覚えたようで、レグルスに発言するように促した。やけにかしこまった様子でレグルスが何かを言いかけたが、アルスがやめておけと遮った。
「それ以上続けるとフロースの呪いが発動する。下手をすれば一週間かそこら眠ることになるぞ」
「アルス、余計な口を挟むな。レグルス、続けよ」
レグルスは黙って考えを巡らせた後、深々と頭を下げた。
「告白を拒否する」
「何故だ?」
「フロースの呪いを撥ね退けることが出来ないからだ」
「そんな言い訳が通用すると思っているのか! 現に今そこのアルスは事実を打ち明けたではないか。呪いというのも嘘なのではないか?」
「我輩の言うことに嘘はない」
国王の妖霊が牙を剥き出しにしてレグルスと対峙した。百獣の王とはいえ、国王の妖霊相手ともなれば態度をデカくしているわけにもいかないらしい。
レグルスは主従関係を主張するように頭を低くした。二羽の睨み合いが続く。空気が張り詰め、息をつくのでさえ億劫なほどだった。
二羽の無言の駆け引きを破るように、俺の体から色鮮やかな鳥の妖霊が現れた。
「ああ、もう。わかった。私が説明する」
ディーバは国王の足元に降り、一礼した。国王は驚いたように青い目を見開いた。
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