第17話 名医の偉業(後編)
「いやあああああ!!」
小屋の方からただならぬ悲鳴が聞こえてきた。
フロースの声? 一体、何があったんだ?
急いで小屋に駆けつけると泣いて暴れるフロースをサノーが押さえつけていた。
しきりに俺の名前を呼んでいる。盲目の闇の中、何かにしがみつこうと細い手が宙をかいていた。
俺はその手を取った。フロースがピタリと叫ぶのをやめる。涙に濡れた目が俺を求めて、宙をさまよった。
「俺だよ」
「イグニス?」
「そう。イグニス」
フロースは俺の手を口元に持っていき、感覚を確かめるように唇で触れた。そこで重なるはずのない視線がピタリと合わさった。
「抱きしめて。ここにいるって教えて」
握りしめたフロースの手が震えている。顔は青ざめ、目から涙が溢れている。
あれだけ強い呪いが使えても、魔族の王女でも、怯えるフロースはなんて弱々しくて無力なんだろうと思った。
守らなければ。フロースが求めているのなら。
グイと体を引き寄せ、背中を抱く。冷え切った腕が俺の肩に回された。
ああ、なんて細くて小さな体なんだろう。少し強く抱きしめれば折れてしまうんじゃないかと思うほど、脆くて不安になる。俺は無性にかき立てられて、額を俺の胸に押しつけた。
「どうしたんだ?」
「……悪い夢を見たの」
「どんな夢?」
「思い出したくない」
「あの小瓶と関係しているのか?」
肩に回した手に力が入り、フロースは額をこすりつけるようにして首を振った。
「お願い。何も言わないで。ずっとこうしていて」
「わかった」
目を閉じた。少しでもフロースの気持ちに近づきたかったんだ。
視界を遮断すると今まで気づかなかったことが鮮明に感じられてくる。
呼吸の音、肌の温もり、かすかに震える指先、髪の匂い。
全身に鳥肌が立ち、胸が掻きたてられる。
愛、思慕、欲、慈しみ。それらが混ぜこぜになった感情が胸の中で燃え上がり、涙がこみ上げる。
いや、どうして俺は泣いているんだろうか?
気持ちはフロースを求めてやまないのに、そばに抱き寄せればそれだけ罪悪感が生まれる。ここにいてはいけないと本能が訴えかけているような気がした。
何故そんなことを思う? 俺はフロースの恋人で、魔力を与えた相手で、幼い頃から当たり前のように隣にいたというのに。
「ホホホ、若さとはいいものよのう。わしまで恥ずかしくなってくるわい」
サノーが気楽に笑った。
そうだ、いたんだった……。すっかり二人きりの気分になってしまっていた。
ゆっくりと目を開ける。フロースも抱いている力を緩め、優しく俺を突き離した。
「先生、騒がせてごめんね。もう大丈夫だから」
「出来ることなら、何があったのかわしにも話してほしいんじゃが」
「悪い夢を見ただけ。目の前が真っ暗だと、起きてるのか寝てるのもわからないから混乱しちゃったの」
手探りでボロ毛布を掴み、枕に頭を投げ出す。フウと溜め息をつき、ルビーの目を静かに閉じた。
「やれやれ、ようやく寝静まってくれたわい」
「急に騒ぎ出したのか?」
「そうじゃ。やはりお前さんの言っていたあの小瓶が関係しているんじゃろうな。あんなに酷く取り乱すなんて、余程悪い記憶だったんじゃろう」
フロースをあんな風にさせる記憶。
俺、過去に何をやらかしたんだろう? 自分のことながら怖くなってくる。
「もしかして、フロースがアーラの秘術に手を出したのは、俺を救うため?」
「どういうことじゃ?」
「あの記憶は元々俺の中にあった物なんだろ? フロースがあんなになるんなら、俺だって相当傷ついていたはずだ。全てを忘れさせてあげたくて自らの身を犠牲にしたのかも」
「たとえばどんな内容じゃ?」
「それはわからないけど」
だとしたら、俺はなんて最低な人間なんだ。フロースにこんな思いをさせておいて俺だけ知らん顔をしてるなんてあんまりじゃないか。
俺も逃げている場合じゃない。もう心は決めた。
ポケットの小瓶を握りしめ、小屋を飛び出した。フロースがあんなんだったんだから、俺も暴れるかもしれない。折角寝ついたフロースを起こさないためにも、サノー達から充分離れる必要があった。
暫くするとアルスが現れた。しきりにやめろと説得してくる。レグルスならともかく、つい最近会ったばかりの妖霊にとやかく言われる筋合いはないと俺は無視した。
二百メートルは離れたか。ここなら大丈夫だろう。
「よせって言ってるんだ。おい! 聞けよ、おい!」
俺は蓋を取り、中身を一気に喉に押しこんだ。酸のようなピリピリした泡が舌の奥を鈍くつねった。
刺激が食道を通って、胃袋に広がった。
ぐらりと目眩がする。記憶が戻り始めたんだ。アルスの声が遠のいて、代わりにノイズみたいな騒音が聞こえてきた。
なんだこれ。いつもの記憶と様子がおかしい。
騒音の中で何かが切れ切れに聞こえる。
フロースの悲鳴だ。泣き叫んでいる。それも尋常じゃないほど激しく。
ただその声を聞いただけで俺は息が出来なくなった。身を切るような痛みが体を支配して、床に這いつくばるしかなくなっていた。
遅れて俺の声が聞こえてくる。俺も泣いている。夢中でフロースに謝っていた。
フロースはそんな俺に対して、泣いてグチャグチャのダミ声で言い放った。
誓って、誓って、と。
「あの、大丈夫ですか?」
俺は誓うと懸命に答えた。何度も何度も、思いつく限りの言葉を重ねた。
フロースが鼻をすすり、命を賭して誓うかと聞いてくる。俺は泣きながら頷いた。
誓うから、お願いだから、と言って。
「もしかして、イグニス? 生きていたの? ねえ、なんで泣いてるの?」
お願いだから何? フロースが責める。
俺は返答に困ったらしい、暫く沈黙が続く。
重苦しい空気をどうにかしたくて、俺は声を絞り出した。
お願いだから、もう泣かないで。
「聞こえてないみたい……。ねえレグルス、イグニスはどうしちゃったの?」
「少々面倒なことに巻き込まれていてな。気を失うかもしれないが問題はないだろう。見つかったからには逃げも隠れもしない。お父上にもお伝えしてくれ」
涙でかすんだ視界がまた一瞬ハッキリする。
俺はフロースの家、魔神城にいた。
大広間にフロースとたった二人。俺の足元には茶色い毛のついた泥人形が転がっていて、妖霊による変形を受けていない手が人形から落ちた一塊の土を握っていた。
まるで〈
今の誓いが本気なら、ついてきて。
フロースがそう言っていなくなる。記憶はそこで終わった。
強烈な記憶に堪えかねた俺は静かに意識を手放した。意識が無くなる直前、誰かが俺を抱き上げるのを感じた。そのまま誰かの背におぶられ、俺はどこかへ運ばれていった。
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