第10話 扉
「ところで、君たちの大学に佐々木里美、という人物がいるかどうか知っているかな?」
僕たちの前を歩く賀茂という男は足は止めずに首だけを後ろに向けて尋ねてきた。僕たちはお互いに目を合わせる。目で「知ってるか?知ってるわけないだろ」という会話をしている気分だった。佐々木美里、名前からして女性だろう。同じ大学と言えど高校までとは違ってクラスもなければ決まった座席もない。そもそも学部が違えば存在すら知らず、一度も話すことなく卒業していくことだろう。きっと小吉も同じようなことを思っていたに違いない。答えはお互いに位置していたが、どちらが答えようかという探り合いをしていると賀茂が再び口を開いた。
「いや、すまない。知らないならいいんだ。同じ大学と言えど知っているわけないよな。あれだけ多くの学生がいるんだから。ダメ元で聞いただけだから気にしないでくれ」
この時もしも佐々木という人物を知っていて、何か有力な情報を提供することができていたらこの男からの評価が上がっていたのだろうか。なぜその学生を探しているのかは甚だ疑問を抱かずにはいられないが、詳しく言ってこなかったということは現段階で僕たちに話すべきことはないということなのだろう。ならばこちらも不要な詮索は今はやめておこう。それにしても小吉が先ほどから大人しい、何を考えているのだろうか。
それからは特に会話もなくただ賀茂について歩くだけだった。歩くことおよそ15分。EKビル、と書かれた雑居ビルに到着した。EKとは何のことなのだろうか。略すのなら省略する前の言葉もどこかに記しておいて欲しい。乗り換え案内が不十分な駅を歩いている時を思い出す。
「着いたよ、このビル内に私たちの事務所がある。準備はいいかい?と言っても特になにも構える必要もないんだけどね」
賀茂はいつも通りの淡々とした口調で軽口を叩きながら僕たちを事務所へ誘導しようとしている。小吉はなにも言わないため仕方なく僕が口を開かざるを得なかった。
「は、はい。大丈夫です。」
ビルの扉を開き、エレベーターに乗り込む。見たところビルには他のテナントやアトリエなんかも入っているようだ。賀茂は4階を押し、腕を組んで壁にもたれかかっている。1階で一人暮らしをしている僕からするとエレベーターに乗るのは久しく、体に感じる不思議な重力に少しだけ高揚感を覚えた。適度な緊張と高揚感はパフォーマンスをこう向上させると聞いたことがある。
4階に到着してエレベーターから降りると、目の前に一本道の廊下が続いていた。その廊下の先にガラス扉が設けられており、センター上部に「縁の下探偵事務所」と書かれていた。名刺をもらった時は何とも思わなかったが「縁の下」というのは人の名前なのかそれとも縁の下の力持ち的なニュアンスの意味合いを含んでいるのだろうか。まあそれもすぐにわかることだろう。
「さ、入って、ようこそ、わが事務所へ」
ガチャという音と共にガラス扉を開く。いつだって新しい扉を開くときはドキドキする。変わってしまうことに人は恐怖を感じるからだろう。できるだけ慣れた環境に居続けたいしリスクはなるべく取りたくない。だが、僕は今、新しい扉の向こう側へ行こうとしている。だからと言って不安も大きくはない。今の僕は1人ではない。小吉がいる。小吉が僕を扉の前に連れてきてくれた。小吉と一緒なら、何とかなる気がした。
「大治」
「ん?」
「俺、なんかワクワクしてるよ。悔しいけど」
「そっか、それはよかった」
「悔しい」という小吉の発言を耳にして僕は鳥肌が立ったような気がした。これは寒さからくるものではない。きっと僕も何かを期待していたのだろう。
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