殺し屋と思い出のメロディー

 ルイが居候している屋敷の主はウィル子爵といって、温厚な人柄と無類の音楽好きで知られていた。

報告書によると、ルイは子爵にピアノの腕を見込まれ、彼の厚意により屋敷の離れを食事付きの練習場所として提供してもらっているらしかった。

今日のコンサートもウィル子爵が主催しており、無名のピアノ弾きであるルイが舞台に立てたのも、ウィル子爵がルイの出演を後押ししたからだった。

レイラは納得していた。

ウィル子爵はこの国におけるあらゆる音楽の祭典を任されている。

彼のような後ろ盾でもなければ、ルイのような流れ者がこの国一番のオーケストラであるフィリップ交響楽団と共演できるはずがないのだ。


 レイラが街灯の灯された大通りを抜けて、湖の近くにあるウィル子爵の屋敷に着いたころには、時刻は夜中の九時を回っていた。そろそろ召使いたちも仕事を切り上げ、眠りの準備を始めるころだ。洗い場や調理場など、ぽつぽつと灯っていた明かりが落ちていく。それによりただでさえ暗かった夜闇が深まった。

ウィル子爵の屋敷に忍び込むのは造作もないことだった。家の装飾よりも、楽器やコンサートホールの手入れ、レコードのコレクションなど、音楽に関する事柄に資金を割いている彼の邸宅において、警備は二の次になっていた。昨日殺害したスペンサー伯爵の屋敷と比べてもその差は歴然だった。

 そしてこれはウィル子爵の屋敷に限ったことではないのだが、どのような屋敷でも必ず裏口というものが存在する。恐ろしいことにモートン卿は屋敷を作る設計士と裏でつながっており、どの屋敷のどこに裏口があるのかだいたい把握していた。もちろんその情報はレイラにも提供されていたので、裏口を見つけるのは簡単なことだった。

レイラはウィル子爵の敷地に裏口から潜り込み、召使いたちが使用する細い専用通路を通って屋敷を端から端へ通り抜けた。

 抜けた先には雑木林が広がっていて、離れまで一本の砂利道が続いていた。素直にその流れに沿って歩いていくと、やがて赤茶の杉の木でできたログハウスが出現した。レイラは周囲を警戒したが、離れは屋敷から離れた場所にあるので人の気配がなく、警備も見当たらなかった。離れの周りには、建物をぐるりと取り囲むように低木が植えられており、他に身を隠せる場所もなかったのでその木陰に身を潜めることにした。そして葉の形を間近に見ながら、この葉の形は確か「ヒイラギ」だと思った。ヒイラギの葉はチクチクとしていたため、頬に当たると痛かったが、良く見るとそのトゲトゲした葉の隙間には白く小さな花が咲いていた。

それらの隙間から懸命に目を凝らせば、かすかにカーテンが開いていて、そこから部屋の中を見ることができた。

部屋の中にはアップライトピアノが置いてあり、青年はピアノの前にある椅子に腰を下ろしていた。

彼は精神統一でもしているのか、目を閉じたままなかなかピアノを弾こうとしなかった。良く見れば譜面台に楽譜すら載せられていない。

(何をしているんだろう)

レイラが興味深く見守っていると、意を決したように彼は瞼を開き、鍵盤の上に指を置いた。

次の瞬間、鼓膜を震わせたメロディーに、レイラは心臓を掴まれた。

(この曲…!)

──呼吸が止まる、かと思った

どこから溢れてきたのか、涙が頬を伝って落ちる。

「お母さん」

ヒイラギの葉先が頬に突き刺さるのもいとわずに、レイラは身を乗り出した。

耳から入ってくるメロディーは、生前、母がよくピアノで弾いていた曲だった。

家にあったのは親戚から譲り受けた古いピアノだったので、中のフェルトがすり減り、籠った音しか出なかったけれど、それでも母は「この曲が好きなの」と言い、繰り返し楽しそうに弾いていた。レイラは教会で聴くパイプオルガンの壮大な音楽や、貴族の令嬢が弾くような譜面に忠実な音楽より、母の弾く拙いピアノが一番好きだった。

 そしてルイのピアノは、離れが防音室になっているからか、それとも外の湿度の影響か、母のピアノと似た響きがした。


──あぁ、きっと、私はこの人を殺せない。


レイラは瞬きをするのも忘れて音楽に聴き入りながらそう思った。

熱くなる胸を押さえ、レイラは俯く。

ふと足元を見ると、どこからやってきたのか真っ黒な子猫がいた。

子猫はレイラを見上げて首を傾げると、撫でてとでもいうように足元にすり寄ってきた。

普段なら相手にしたりしないのに、今夜はあたたかな生き物の温もりに抗うことができなかった。レイラはそっと、そのふわふわした毛の猫を抱き上げ、膝の上に乗せた。

優しく撫でてやれば気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。

そのあまりに防備な様子に、レイラから力が抜けていく。

結局その晩、ルイはその一曲だけ弾くと早々に練習を切り上げ、電気を消して眠りについてしまった。レイラは電気が消えるのを見届けると、猫を地面にそっと下ろし、胸元に入れて持ち歩いていたビスケットを置いて、屋敷に帰った。



屋敷に戻り、ベッドに横たわったはいいものの眠りにつくことができなかった。

思考を切るように目をつぶっていても、ピアノ弾きの青年の横顔と母の優しい笑顔ばかりが頭に浮かび、レイラは二人を切り離して考えることができなくなっていた。


 これまで暗殺を命じられた人物たちはみな悪人だった。

資料に目を通していると、吐き気がするような悪事の数々を働いてきた輩だった。

悪人だからといって命を奪って良い理由にならないかもしれないが、それでも気休めにはなっていた。

しかし今回は…。


善人を殺めたことなんてないよ、お母さん──。


ずっと喉に引っかかっていた魚の小骨に急に気付いてしまったみたいだった。

「やめて。私を乱さないで」

レイラは寝返りを打ち、枕に顔を押し当てた。

これまでレイラは感情を殺して生きてきた。

しかし殺したつもりでいた感情は、成仏できないまま残っていて、ある日前触れもなく「こんにちは」と首をもたげる。そのとき彼らは「こんにちは」ではなく「ただいま」と言っているのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。問題は彼らの存在に気づいてしまったことにあるのだから。

レイラは泣きながら、温もりのない毛布をかき抱いた。

そうやって人に抱き着く真似事のように毛布を抱いたところで、自分で自分を抱きしめているみたいで虚しかった。


 さらに夜が更けたころ、控え目にノックの音が鳴った。レイラは頬に残る涙の跡を手でぬぐい身体を起こした。

ベッドサイドにある時計を見れば、時刻は深夜零時を過ぎていた。

 こんな時間に誰だろう。

警戒しながら扉に近づくと、聞き馴染みのある声が響いた。

「──レイラ、いる?」

ミアだった。

レイラは警戒を解き扉を開けた。

扉の先にはメイド服からネグリジェに着替えたミアの姿があった。彼女は昼間きっちりと結い上げている髪を無造作に下ろしていた。そうやって髪を下ろしていると、まだ幼さが残っていて、修道院で毎晩一緒に眠っていた頃のミアの姿が重なった。

レイラは誰かに見られているかもしれないと考えるより先に、衝動的に抱き着いていた。

驚いてミアは身を固くしたが、すぐに力を抜き、優しくレイラの背中に手をまわした。そしてすばやく周囲に視線を走らせると、誰もいないことを確認し、ゆっくりと部屋に入るよう促した。

二人はベッドに並んで腰を下ろし、ミアが心配そうにレイラの顔を覗き込んだ。

「レイラ、大丈夫? ──ごはん、ちゃんと食べれてる?」

ミアはポケットから小さな紙袋を取り出すと、ベッドサイドの机に置いた。

「これ、ビスケット。レイラの好きなメープル味とチョコレート味。少しでもいいから、食べられそうなときに食べて?」

レイラは頷いた。

声を出したら泣いてしまいそうだったので、ありがとうと言うことができなかった。

ミアはレイラの背中をさすりながら、薄い背中に背骨が浮き出ているのを感じ取ったらしく、「こんなに痩せちゃって…」と顔を歪めた。視線を逸らして涙をこぼす。

「ごめんね、レイラ。私、こんなことしかできなくて。今だって泣きたいのはレイラの方なのに…」

レイラはミアの頬に手を伸ばし、涙をぬぐった。

泣かないで、と言っているつもりだった。

ミアはその手を掴んで包み込み、まっすぐに目を見て語りかけた。

「いいんだよ、レイラ。いつでもやめて…。辛いこと無理して続けなくていい。私なら大丈夫だから、レイラは自分が幸せになれる道を探して」

レイラは「無理してないよ」、と声を絞り出し、首を振った。ミアの手に力がこもる。

「だってレイラばっかり辛いじゃない。私はこんなメイドなんてもったいない役職をもらって、普通の人みたいに働いて。影でレイラが身をすり減らして戦っているというのに、私は……」

ミアはそこで言葉を区切り、ぎゅっと唇を噛んだ。

「──十五歳のとき、私が貴族やシスターに歯向かったせいでレイラをこんな目に遭わせてしまっている…。全部私のせいよ。ごめんなさい、レイラ。本当にごめんなさい」

ミアは顔をぐしゃぐしゃにして泣き始めた。

レイラは彼女の肩を抱き寄せた。

「泣かないで、ミア。何もミアのせいじゃないよ、私なら大丈夫」

「やめてレイラ!私に強がり言わないで!」

ミアは叫ぶように言った。

「ねぇ、レイラ。私だってレイラを守りたいの」

レイラは歯を食いしばった。

ミアの前でだけは泣くわけにいかない。

レイラはミアの頬を両手で包み込んだ。

「ミアが私の分も泣いてくれるから、私は強くいられるの。いつも守ってもらってるよ?」

こらえきれなくなったようにミアがレイラに抱きついた。

「ねぇレイラ、これだけは忘れないでいて。私はどんな時でもレイラの味方だし、レイラのためならなんだってできるってこと」

ありがとう、とレイラは頷いた。

そしてミアの温もりに包まれながら、レイラはこの温もりを守れるのは自分しかいないと覚悟を決めていた。

(──いくらあの離れに人がいないとはいっても銃で殺せば銃声が響き渡る。確実に逃げ切るためには死体が発見されるまで時間を稼がなくてはならない。──となると銃殺より刺殺の方が得策か。刺殺は人を殺めた感覚が直に伝わるから好きではないけど仕方ない)

 ミアの涙で服を濡れるのを感じつつ、レイラは頭の中で淡々と計画を練っていた。

あの青年を確実に殺さなくては。

大切なものを守るためには、もはや綺麗ごとを言っている場合でも、思い出に浸っている場合でもないのだから。

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