殺し屋とターゲット
次の日の朝、モートン郷は酷く不機嫌だった。
どうやら妻のリアが不倫しているらしい。
昨日人を殺めたばかりだというのに、レイラはリアが興味をもちそうな男をかき集めた山のような資料と対峙する羽目になった。
モートン卿は待つのが嫌いだ。
感傷に浸っている暇などない。
レイラは朝食替わりのコーヒーを胃に流し込み、机の上に資料を広げながら、机の端に置かれていた新聞の見出しに目がいった。
【号外!!スペンサー卿〝不慮の事故〟死因は溺死か──】
レイラは新聞を手に取り、組んでいた足の上で広げた。
案の上、スペンサー伯爵が亡くなったことが大きな見出しで取り上げられていた。新聞は外交に向かった伯爵が事故で川に落ちて亡くなったことを紙面いっぱいを使って報道しており、警察は正しい死因を特定できていないようだった。川に流されたスペンサー卿の死体は未だ見つかっておらず、事故死を怪しむ声も出ていなかった。レイラの任務は完璧に遂行されたのだ。警察の手がレイラのもとに届くことはないだろう。
レイラは新聞を折りたたんで机に放ると、また一口コーヒーをすすった。窓の外を見れば曇った空が広がっていた。
(これから一雨降りそうだ)
街から離れたこの部屋に喧噪は届かないが、スペンサー伯爵の屋敷の周りは記者が集まり、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているだろう。
レイラは机の上に視線戻し、黙々と資料を読み漁った。
*
その日は夕方からリアの護衛としてコンサートホールで行われる演奏会に付き添うことになっていた。
リアはサラバン伯爵の娘であり、貴族社会の中でも上流階級に属する超お嬢様育ち。幼い頃からバイオリンを習っていて、その腕はかなりのものだった。演奏会を開けばあっという間にチケットが売り切れるほど、音楽家としても高い評価を得ていた。
そんな彼女は週末になると決まって何かしらの音楽会に参加する。これは飽きっぽい彼女にとって珍しく、習慣としてずっと続いていることだった。普段は明るくカラっとした人柄が魅力の彼女だが、音楽に取り組む姿勢は真剣そのものだ。
演奏会に行くとき、リアはドレスアップに熱意を注ぐ。バカンスに行くときのようにはしゃぎ、モートン卿にねだってこしらえさせたドレスをあれこれ脱いだり着たり、メイドたちがしどろもどろになる勢いで試着する。
その試着にはレイラも立ち会うことになるのだが、意見を求められるたびレイラは困ってしまう。というのも、リアは元から顔立ちが華やかで整っており、スタイルも抜群なので何を着ても似合うのだ。彼女の好みと気分で選んでもらう以外、何を基準にすればいいのか分からなかった。
「ねぇ、モルちゃん。この真っ赤なドレスとさっきの淡いピンクのドレス、どっちが良いと思う?」
鏡で全身を映しながら、リアがレイラに問いかける。
リアはレイラより五つ年上だが、レイラのことを〝モルちゃん〟と呼び、まるで友達のように扱った。それはレイラに限ったことではなく、他の召使いに対してもそうだった。貴族なのに召使いを卑下し扱わないのは珍しいことだった。だから彼女は天真爛漫だけれど、屋敷の従事者たちから愛され、慕われていた。
レイラも彼女のことが決して嫌いなわけではなかった。
「どちらも良くお似合いですよ、リア様。ですがコンサートは落ち着いた場ですので、真っ赤なドレスよりも、淡い色味の方が適切かもしれません」
レイラ無難な意見を提示する。
「うーん、そうよね。モルちゃんはいつも的確な意見をくれるわね」
振り向いてリアはニコリと微笑んだ。
「じゃあこっちの赤い方にする! 私はね、モルちゃんが薦めたのと逆を選ぶって決めているのよ」
それを聞いてレイラは微笑んだ。
「リア様のお好きなように」
いつもそうだった。
リアは人からやれと言われたことには目もくれず、やるなと言われたことをやりたがる。
ドレスについても、誰かが選んだものではなく選ばなかったものを着たいのだ。レイラはそれを分かっていて、あえてピンクの方が似合っていると言った。本当は赤色の方が似合っていると思ったから。
「モルちゃんも、たまには黒以外の服を着てみたらいいのに。赤とか紫のドレス、きっと似合うと思うんだけど…」
リアはレイラの全身を頭からつま先まで眺めた。
「お気遣い感謝いたします。私には勿体ないお言葉です。しかし私は護衛なので、ドレスを着るわけにはいきません。何かあったとき動けなくては困りますので」
レイラに断られてリアはがっかりした様子だった。
「そう…。残念。いつかモルちゃんと一緒に舞踏会にでも出かけてみたかったんだけどな」
リアは口をとがらせて、レイラに着せてみたくて手に持っていたドレスを元に戻した。
*
コンサートホールに着くなり、嬉しさをこらえきれないリアは、レイラを置いて駆けだした。ドレスを着ているとは思えない速さで階段を上る彼女を、レイラは慌てて追いかけた。子供のようにそそっかしい二人のことを、周囲の大人は何事かという顔をして振り返る。
「リア様!お待ち下さい!」
レイラは叫びながら、注目されるのを感じて恥ずかしかった。
「モルちゃん、こっち!ここの席よ」
レイラの心情や周囲の視線などお構いなしにリアは突っ走り、席を見つけるとレイラを手招きした。
レイラは走ったせいで乱れた呼吸を整えつつ歩み寄る。リアはチケットと席の番号を見比べて頷き、満足したように腰を下ろした。レイラがリアの上着を受け取り、後ろの壁際に下がろうとすると、「どこに行くの?モルちゃんも早く座りなさいよ」とリアに引き止められた。
「私の席もあるのですか?」
「あたりまえじゃない。ニ時間近くも立っていたら足が棒になってしまうでしょう?ほら、座って。始まっちゃう」
「お心遣いありがとうございます。失礼いたします」
レイラはリアの計らいに感謝して、隣の席に腰を下ろした。
リアの父親であるサラバン伯爵が、リアのめに用意した席は、オーケストラの真正面に位置する三階の特等席だった。ただでさえ名高いオーケストラの演奏会だ。チケットの値段は目が飛び出るほどの額だろうに、特等席となればさらに倍の値段がする。そのチケットを従者の分まで惜しみなく用意してくれるだなんて、サラバン伯爵は並みの貴族ではない。
それにサラバン伯爵は娘のためにお金をつぎ込むことをいとわない心優しい父親でもある。レイラの席まで用意してくれる懐の深さは、リアの屈託なさや裏表のない性格を作り上げた要素の一つになっているのかもしれない。
そんなことを考えていると、ホールの明かりが落とされ、舞台に照明が当てられた。おしゃべりをしていた貴族たちは話をやめ、ホールは静寂に包まれた。
心地よい緊張感の中、指揮者が舞台袖から現れる。後ろにいるオーケストラ団員たちは弓でバイオリンを叩いたり拍手をしたりして彼を迎え入れた。それを後押しするように会場からも拍手が湧いた。
指揮者は頭を下げて挨拶をしながら舞台の中央まで歩いてきて、まるで魔法使いが魔法をかけるときのように指揮棒を宙に掲げた。その動作を合図に拍手が止んだ。
静寂。
指揮者がオーケストラに目配せをして、掲げた指揮棒を振り下ろした瞬間、一瞬で会場の空気が破られた。
E. エルガー 作曲の 行進曲「威風堂々」作品39 より 第1番 ニ長調。
歯切れの良い音の粒が勢いよく空気中にはじけて踊る。
打楽器の音がメリハリ良く響き、バイオリンやフルートが雄大なメロディーを上品に奏でる。
行進曲らしい前半部から、中盤にかけてゆったりとした曲調に変化していく。そして落ち着いた曲調になったかと思えばまた前半の曲調に戻り、再度ゆったりとした曲調に戻る。メロディーはこれを繰り返し、しかし次第に壮大さを増しながらクライマックスまで一気に駆け抜ける。
観客たちはそれぞれ首を振ってリズムを取ったり体を小さく揺らしたりしながら音楽を楽しんでいた。隣を見ればリアも楽しそうに口角を上げて音楽に耳を傾けていた。
言葉で形容できないほど、素晴らしい演奏だった。
曲が終わると割れるような拍手が沸き起こった。まだ演奏会は終わりでなかったが、演奏のすばらしさに観客はいてもたってもいられなかったのだ。誰に促されるでもなく、レイラも自然と大きな拍手を送っていた。そんな中さらに大きな拍手が起こり、舞台中央に顔立ちの整った青年が現れた。
「あ!」
リアが短く声を上げ、前のめりになって目を輝かす。
その反応から、彼が彼女にとって今回の演奏会の目玉であることを悟った。
どうやら青年はピアノ弾きらしく、舞台中央に用意されたピアノの椅子に腰を下ろした。
どこかで見たことのある顔な気がした。
レイラは懸命に思い出そうとした。
すっと通った鼻筋にすらりとした
金色の透き通った髪が特徴的で…
(そうだ!今朝見た資料の中にいたんだ!確か貴族ではないけれど、最近よく演奏会に参加しているピアノ弾きで、ピアノの腕前もさることながらその美しい顔立ちで貴族の令嬢から注目を集めているのだとか──)
レイラは思い出していた。
ひょっとして、リアの浮気相手というのは彼のことなのだろうか?
レイラがリアの浮足立った反応に注目していると、青年と指揮者は目配せをして次の演奏を始めた。
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第二番」
レイラも良く知る名曲だった。
演奏が始まる直前まで意識は完全に殺し屋としての頭になっていたのに、音が鳴った途端、一瞬にして音楽の世界に引き込まれた。ピアノの音色がオーケストラの音に違和感なくなじみ込み、それでいて確かな存在感を放っている。繊細でどこか懐かしさを感じさせる音の響きに包まれれば夢見心地だった。
オーケストラの豊かな音色を、ピアノの音が一つにまとめ上げる演奏はまさに圧巻。
演奏を終えると、青年はピアノの椅子から立ち上がり指揮者と拍手を交わした。
惜しみない拍手に見送られながら、彼は舞台を後にした。
その後の演奏もアンコールもどれも素晴らしく、あっという間に時間は過ぎ去った。
「今日のオーケストラはさすがに名門なだけあって、惚れ惚れするような演奏だったわね。特にあのラフマニノフ! あぁ、もう一度聴きたいわ」
リアは演奏が終わってからもしばらく席についたまま、音楽の余韻に浸っていた。
突き抜けて素晴らしい音楽というのは、聴いた者に〝ずっとここにいたい〟と思わせる力があるものだ。
「そうですね。素人の私でも分かるほど圧倒的な演奏でした」
本当に、言葉にして表現できないほど心を揺さぶる音楽だった。
まるですべてを包み込むような。
演奏を聴いている間、レイラはその音が持つ温もりから母のことを思い出していたが、不思議と昨日の夜のように辛くなかった。
「モルちゃん、悪いんだけど、私、もう少しここで音の余韻に浸っていたいの。辻馬車に乗って帰るから、少し一人にしてくれる?」
レイラの頭の中が一気に仕事モードに切り替わった。
それはピアノ弾きの青年と密かに会うための口実ではないのだろうか。
彼女の申し出を受け入れて偵察に徹したいころだが、護衛役として彼女を一人残して帰るのは不自然なので、とりあえず一度食い下がる。
「そうして差し上げたいところですが、護衛役としてリア様をお一人にするわけにはいきません」
リアの顔色が曇った。
「どうしても一人になりたいのよ、……ダメ?」
子猫のようにすがられ、こんなふうにお願いされれば大抵の男は彼女のわがままを許してしまうだろうなと思った。
「申し訳ありません」
リアは子供みたいに頬を膨らませて拗ねた。
「分かったわよ。モルちゃんには本当のことを言うわ。─実を言うと、この後会う約束をしている人がいるんだけど、二人きりで会いたいの。話の内容もあまり聞かれたくなくて…。だから席を外してほしいのよ」
リアは仕方なくといった様子で白状した。
しかしその告白を聞いて、レイラはますます彼女を一人にするわけにはいかなくなった。
「そういうことでしたか。では、私はお二人の邪魔をしないよう、遠くから護衛するというのはどうでしょう」
「だめよ。その人は用心深いの。相手が誰なのか、モルちゃんにも知られたくないわ」
レイラはどうしたものかと思案した。リアの許可を得て監視できれば最善だが、無理に同席を強要して警戒されたら尻尾を掴み損ねてしまうかもしれない。ここは大人しく従うふりをして泳がせ、尾行するのが賢明だろう。
「仕方ないですね。分かりました。今日だけですよ。私は辻馬車を引き止めて表の通りで待機しておりますので、できるだけその付近で落ち合っていください。場所は私に知らせなくて構いませんが、近くにいてくださらないと、何かあったときすぐに駆け付けられませんので…」
レイラはポケットから細い笛を取り出し、リアに手渡した。
「身の危険が迫った時はこれで私を呼んでください。広範囲に聞こえる笛です。もしものときは思いっきり吹いてくださいね」
リアはレイラの手から笛を受け取り、大切そうに握り締めた。
「ありがとう。さすがモルちゃん」
嬉しそうに満面の笑みを浮かべるリアに、レイラもぎこちなく微笑み返した。
*
大人しく引き下がるふりをしてから、リアを探し出すのに時間はかからなかった。
というのも、彼女がレイラの言いつけを忠実に守り、レイラが辻場馬車を引き止めた近くの場所を、待ち合わせ場所に選んでいたからだった。
レイラは引き止めた馬車の運転手にチップを渡し、急いで周辺を探した。そして探し始めてすぐに、コンサートホールの脇にある雑木林の入り口あたりで、誰かを待っているリアの姿を見つけた。木々が鬱蒼と生い茂っている、人気のない場所だった。
レイラは足音を立てないよう気をつけて、木陰に身を隠しながら彼女の顔が見えるところまで近づいた。
ほどなくして、奥のコンサートホールの方から人目を気にしながら駆けてくる人物がいた。
「リア様、お会いしたかったです。待たせてしまってすみません」
声の主はやはり彼だった。
ピアノ弾きの青年はリアの前で立ち止まると、顔を隠すためにかぶっていた帽子を取った。
「いいのよ。私も今来たところだから」
リアは頬をほころばせ、嬉しそうに言った。
「今日の演奏素晴らしかったわ!あなたの演奏したラフマニノフが、耳に残って離れないの」
「そう言っていただけて光栄です」
リアは甘えるように青年の胸元に手を置いた。彼女は彼の耳元に口を寄せて何かを言っていたが、内容を聞き取ることはできなかった。
その後二人は二言三言会話を交わし、リアは離れがたい様子だったが、青年に諭されて仕方なく頷き、辻馬車が止めてある大通りの方へと歩いて行った。青年も踵を返しコンサートホールへ戻って行った。
*
屋敷に戻ったレイラは、ディーンが用意してくれた夜食のサンドイッチを頬張りつつ、資料の山をかき分けてピアノ弾きの青年の資料を引っ張り出し、再度目を通していた。
資料を持ったままベッドの上に座り、壁際に並べたクッションにもたれかかりながら、ベッドサイドのテーブルの上に置いてあったサンドイッチをもう一切れ取り、齧った。ライ麦のパンにトマトとチーズ、生ハム、それからレタスが挟まっている。
修道院では毎日ほとんど汁のようなお粥しか与えられなかったので、レイラには召使いたちの残りものである、具の少ないパサパサのサンドイッチでもごちそうに映った。屋敷で暮らしていると目を見張るようなごちそうの数々を目にするが、それでもその感覚はあまり変わっていない。
さて、ピアノ弾きの青年に関する情報は驚くほど希薄だった。
『出身:不明 名前:ルイ』
まるで意図して情報が消されているかのような、そんな不自然さがあった。
『両親を幼いころに亡くし、いまは亡き叔母にピアノを習った。その後、ピアノの腕を磨くためにいろんな国を放浪している』とのことだったが、そもそもピアノというのは高尚な人種が身につける教養だ。低俗な身分の人間には触れる機会すらないだろう。それに楽器はどれも高額で、そう簡単に手に入るものではない。彼は間違いなく身分の高い人間であるはずなのだが、〝出身不明〟で〝貴族〟と記載されていないことがレイラには謎だった。
なにか身分を隠さなくてはならない理由があるのだろうか?
大抵の人間は貧しいピアノ弾きが悲しい身の上を背負っていると聞けば同情するのかもしれないが、レイラにはどうも裏があるように思えてならなかった。
彼は現在、知り合いの貴族の屋敷の離れに居候しているらしいので、さっそく今夜にでもそこに出向き、様子を観察してみようと思う。
レイラは偵察だろうが何だろうが、自分の気が紛れるなら忙しさに逃げたかった。
どうせ眠れやしないのだ。
だったらできるだけ考えたり感じたりする時間を持ちたくない。
レイラは残りのサンドイッチを口に放りこむと、数回噛み、水をグラスに注いで一息に飲み干した。
てきぱきと服を着替え、護身用のナイフと銃を装備する。そしていつものように颯爽と、屋敷の裏口から〝ルイ〟というターゲットのいる屋敷へ出発した。
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