殺し屋と眠れない夜

レイラはモートン卿から、数えきれないほどある空き部屋のうち、最も裏口に近い部屋を貸し与えられていた。屋敷の西端に追いやられたその部屋は、手下一人に与えるにしては大きすぎる部屋で、身分の低いレイラが生活するには気が引けるほど高価な装飾が施されていた。

 しかしその部屋の扱いはといえば、物置さながらほったらかしだった。部屋の掃除はレイラが自分で行っていたし、レイラ以外の人間が部屋の中に足を踏み入れることはなかったので、冬にうっかり暖炉の薪をくべ忘れて外出して帰ったときには寒さのあまり歯ぎしりをすることになった。もちろん今夜のように寂しい夜だって、先回りして部屋の明かりを灯しておいてくれる人などいない。

──最後に「ただいま」を口にしたのはいつのことだろう。


 レイラはしばらく閉めた扉に背を預けていたが、やがてディーンが持って来てくれたクラッカーとミルクの乗っている盆をベッドサイドのテーブルに移動させ、ベッド横にあるガラス細工が美しいランプの明かりを灯した。オレンジ色の柔らかな明かりが仄かに灯り、枕元を照らした。レイラは眠れない夜はこうして枕元の明かりを灯し、夜通し本を読むことにしている。あるいは音楽を聴く。この屋敷には数えきれないほどの書物とレコードのコレクションがあり、レイラはモートン卿からそれらを自由に閲覧することを許されていた。レイラが文字を読めるのは、モートン卿が家庭教師をつけて教えさせていたからなのだが、もちろんそれは文学を嗜むためではなく、報告書を書いたり読んだりさせるためだった。卿の目論見がどうであれ、レイラは自分が文字を読めて、本を読む楽しみを失わずに済んで良かったと思っている。

 今夜も例のごとく、本でも読んで夜をやり過ごそうかと思ったのだが、どうしてもそういう気分になれず、かといって音楽を聴く気分でもなかった。いつものやり方が通じないほど、胸がざわついて収集がとれなくなっていたのだ。

どうしたものか。

 レイラは倒れこむようにベッドに飛び込み、うつぶせになって枕に顔を押し当てた。

 人を殺めたのは別に初めてのことじゃない。

物心がついたころからモートン郷に人を殺める技術を仕込まれていたし、前任の殺し屋の補佐役として現場に同行していこともある。そのときまるで虫でもつぶすように無慈悲に人が殺されるところを嫌というほど見てきたし、実際に自分が手を下したこともある。

しかし、何度場数を踏んだところで、人を殺すことに慣れてしまえるわけではないらしい。

 レイラは体を起こし、手の平を開いて眺めた。

「まだ、震えてる」

人を殺めた夜は決まってこうだ。

拳銃を撃つときは平気なのに、後になってから手が震えだす。

そして心臓がドクドクと大きく脈打ち、朝になるまで眠れない。

レイラは神様が怒っているのだと思っていた。

神様が私を罰している。

〝お前のしていることは間違っている〟のだと。

体の内から咎めている。

ごめんなさい、とレイラは呟いた。

頬から自然と涙が伝う。

 レイラはベッドから下りて、バルコニーの窓を開け、夜風に当たるために外に出た。頬を伝う涙を手でぐっとぬぐい、月を見上げれば、ふわりと懐かしい香りが鼻をくすぐった。それはレイラがバルコニーで育てているクチナシの香りだった。肌を撫でる冷たい夜風が、深い緑の葉に真っ白な花弁を美しく咲かせているクチナシからこぼれる香りを、あたりに心地よく漂わせていた。その香りに包まれていると、まるで母に抱きしめられているような錯覚がして、幸せで満たされていた幼い頃の記憶が蘇り、レイラは余計に泣きたくなった。

 クチナシは母の大好きな花だった。母が使っていた香水や化粧品からはどれもクチナシの香りがしたし、家の庭でも母が大切に育てていた。レイラにとってクチナシは母を象徴する花であり、「おかえり」と玄関で抱きしめられたとき、眠れない夜に腕枕をしてもらったとき、髪をブラシで梳いてもらったとき、いつも母からはやさしいクチナシの香りがした。

 レイラの母は、レイラがほんの八歳ごろに病気で亡くなった。父親を知らないレイラは、頼れる兄妹や親戚もなく、しばらく家にある食料で食いつないでいたが、やがてそれも尽きるとゴミ箱を漁り物乞いをして歩くようになった。気に入っていた服もお金にするために売り払ってしまったので、ほつれた薄い麻の布を身にまとい、冬は寒さに震えて野良猫で暖を取った。

 そのように路頭に迷っていたレイラだったが、ある日路上に座り込んでいたころ、偶然通りかかったシスターに手を差し伸べられ、その出会いをきっかけに修道院で育てられることになる。

「お嬢ちゃん、ひとり?」

シスターはしゃがみ込んでレイラに問いかけた。

もう三ヵ月人と話していなかったので、レイラは上手く声を出すことができず、ただ頷いた。

物を恵んでもらおうと、手の平を差し出す。

しかしシスターはお金をあげるつもりで声をかけたわけではないらしく、代わりにレイラの小さな手をそっと包み込んだ。

ある日突然自分を守り育ててくれるはずの大人を失い、心細さと必死で戦っていたレイラにとって、シスターの手から伝わる温もりは不意に垂らされた蜘蛛の糸のようだった。

シスターはレイラを驚かさないように気を付けて、目線を合わせて問いかける。

「お母さんは?」

聞かれて大粒の涙がレイラの目に浮かんだ。首を横に振ることしかできなかった。

「お家はあるの?」

レイラは頷いた。

ここから近いのかと聞かれたのでまた頷いた。

シスターはレイラの頬をやさしく撫で、

「辛かったわね。私をあなたのお家に連れて行ってくれる?」と言った。

レイラは立ち上がり、言われるがままシスターを自分の家に案内した。そして家に着くと、家を見たシスターは目を丸くして、ニヤリと口角を上げた。彼女のその笑い方は、(今考えると)笑顔というにはいささか不気味な笑い方だった。

「あなた、こんなに立派な家を持っているのね」

 シスターはレイラの肩に手を置いて微笑みかけ、「お嬢ちゃん、修道院に来てみない?ちょうどあなたと同じ年頃の子がたくさんいるのよ。私ならあなたに食べ物と住むところを用意してあげられる。もちろん、家事のお手伝いや、畑仕事はしてもらうことになるけど、少なくとも今日みたいな寒い日に、あんな小汚い路地に座って惨めに物乞いなんかしなくて済むわ」

レイラはシスターの言葉を聞いて、その修道院というところに行けば、また母と暮らしていたときのように、人の手で作った温度のある食事を、誰かと「おいしいね」と言いながら食べることができるのだろうかと考えた。

レイラはもう独りぼっちの毎日に耐えられそうになかった。

これから先もずっと、膝を抱えてうずくまる日々が続くのかと思うと、夜の寒さを想像するだけで泣いてしまいそうだった。

どこでもいいから、温もりのあるところを見つけたかった。

シスターが用意してくれるというそこは、きっと自分の探している場所に違いない。

だからレイラはシスターの服の裾をきゅっと掴んで頷いた。

 しかし幼いレイラはまだ知らなかったのだ。

この世に存在する悪人すべてが分かりやすく悪魔のような顔をしているわけではないのだということを。


──事実、修道院での日々は、路上での日々より酷いものだった。


 レイラはシスターに声を掛けられたその日、何も持たずに、そのまま彼女と一緒に修道院へ帰った。

シスターの言っていた通り、そこにはレイラと同じように居場所のない少年少女たちが同じ屋根の下で暮らしていた。同年代の子もいたし、レイラよりもっと幼い四~五歳くらいの子や、十五歳前後の年上の少年少女もたくさんいた。しかし、学校に通っていいはずの年頃の子供たちは、みな畑仕事や針仕事に追われていて、学校に行く暇などないようだった。

 ところが、これだけ働いているというのに修道院は貧乏で、与えられる食事は毎日ほとんど水のようなお粥だけだった。栄養が足りていない子供たちはやせ細り、浜辺に打ち上げられた魚のように虚ろな目をしていた。頭の良いレイラは、子供たちの稼ぎと、食費や修道院の運営費が釣り合わないことを疑問に思い、一度それとなくシスターに尋ねてみたことがある。

鋭い質問だったがシスターは狼狽えず、いかにもな返答をした。

「みんなが稼いだお金はね、ここより貧しい修道院に寄付しているのよ。世の中には私たちより苦しい思いをしている子がたくさんいるの。助け合って生きなくちゃ」

シスターを母親のように慕っていたレイラは、彼女の言葉を安易に信じた。

 体力のいる畑仕事や冷たい水に触れなければならないお皿洗い、慣れない縫物。真面目で良い子のレイラは、シスターに教えられた仕事を一生懸命にこなした。早く慣れてみんなに追いつきたかった。「頑張っているね」とシスターに褒められれば嬉しかったし、ここにいていいのだと安心した。


 しかしある日、レイラの心を砕く事件が起こった。


 レイラは修道院で暮らす中で、同い年のミアと親しくなった。ミアも両親を幼い頃に病気で亡くし、路頭に迷っていたところをシスターに拾われたらしい。ミアは女の子らしい体つきをしており、色が白く、愛嬌のある顔立ちをしていた。孤児というには可愛すぎる容姿をしていたミアは、そのせいで惨事に巻き込まれることになった。

 子供たちが集まり食堂で夕食を食べていると、ミアがシスターの一人に呼び出され、二人で顔を寄せて話し込んでいた。ミアはシスターが耳打ちする言葉を神妙な面持ちで聞いていたが、一度頷くごとに頬が緩み、柔らかな笑顔に変わっていった。いつもなら空腹のあまり食べ物にがっついてしまうレイラだったが、この日はミアとシスターの会話の内容が気になり、食事が進まなかった。

 やがて席を外していたミアが嬉しそうに隣の席に戻ってきたので、すかさずレイラは「シスターと何の話をしていたの?」と尋ねた。

ミアはにこっと笑い、「このまえ教会で賛美歌を歌っていたとき、私を見染めてくださった貴族の方がいて、その方が私をお庭で育てているお花の売り子として雇ってくれるんですって」と言った。

ミアは両手を組み合わせ、うっとりとした様子で続けた。

「貴族の方の屋敷に住まわせてもらえれば、毎日おいしい食事をおなか一杯食べられる!それに花の売り子よ!きっとこの継ぎはぎだらけの麻のドレスより素敵なドレスが着られるわ。なんて贅沢!」

 ──翌日、本当に貴族がミアを迎えにきた。

 レイラはその貴族について良く知らなかったが、やって来たその男が身につけている服の光沢や、帽子、ステッキ、馬車、シスターたちが深々とお辞儀をしている様子などを見て、彼が貴族の中でもかなり上の位にいる人物あることを察した。レイラは修道院の暮らしから抜け出せるミアことを、羨ましいと思わないわけではなかったが、かといってその貴族の屋敷で暮らすことに強い憧れを抱いているわけでもなかった。

というのも、ミアの引き取り手である貴族の男は丸々と太っていて、額に脂汗を浮かべており、まるで豚のような男だったのだ。しかも年齢は自分たちの倍以上はありそうだったし、お金持ちで結婚適齢期を過ぎているのに独り身なのは、このとても美しいとはいえない男と結婚したがる物好きな女性がいないからに違いない。

 もし自分がミアだったなら、いくら豊かな生活ができるとしても、修道院で暮らす方を選んでしまう。

しかしミアは、貴族への暮らしへの憧れが強かった。食事のときや眠る前、ミアが夢物語のように語るのは、いつも貴族の女の子が身につけているドレスや髪飾り、おいしそうなスイーツの話。ミアは貴族に執着していないレイラと異なり、少しでも貴族の暮らしをさせてもらえるのであれば、引き取り手がどんな容姿の貴族でも構わないらしかった。

 レイラはミアがいない修道院の生活を思い描き、急に寂しくなったが、離れ離れになっても彼女が幸せに暮らせるのであれば、それは良いことなのだと無理やり納得した。

別れ際、ミアは月に一度、教会で開かれる賛美歌には変わらず出席すると約束してくれた。二度と会えないわけではないことが救いだった。


──しかし次の賛美歌のときだった。

すっかり様変わりしたミアがレイラに泣きついてきたのは。


 ミアはその日、賛美歌のピアノを弾く役を任されていた。

レイラが舞台袖でミアがやってくるのを待っていると、彼女は出番直前の時間に現れた。

従者に手を添えられ馬車から降りてきたミアは、かつて貴族の男に引き取られる前に夢見ていたような花飾りを頭に付け、レイラに何度も語って聞かせた、お嬢様が着るような薄ピンク色の生地に上品なレースがあしらわれたドレスに身を包んでいた。

レイラはほっとした。

ミアはあの見た目は悪いが金持ちの貴族のもとで、不自由ない生活を送っているようだ。

ミアはちゃんと、幸せに生きているのだ。

 しかし馬車から降りたミアは、レイラと視線が合うなり目に涙を溜めた。そして靴が脱げるのも構わず駆け出し、レイラに抱き着いた。信じられないほど強い力で抱き着いてくるので、レイラは転ばないようにするので精一杯だった。

「ミア様!」

脱げた靴を拾った従者がこちらに駆けて来る。

「来ないで!向こうへ行って!」

ミアはレイラにしがみついたまま叫んだ。

「しかし、お靴が…」

「いらない!早く帰って!」

怒鳴られた従者は困り、しばらく立ち尽くしていたが、結局その靴を置いて立ち去った。

レイラは修道院に来てからミアが誰かに口調を荒げて怒鳴りつけるところを見たことがなかったので、彼女の従者に対する冷たい態度に困惑した。

「ミア、どうしたの? 従者の人にあんな言い方して…。足、冷たいでしょう? 靴履こう? 」

ミアは裸足で冷たい石畳の上に立っていた。レイラが顔を覗き込んで優しく声を掛ければ、ミアはこらえきれなくなったように目から大粒の涙を零し、大人しく頷いた。

レイラはミアを教会の裏口の階段に座らせ、従者が置いていった靴を拾って持ってきた。

そして靴を履かせようとドレスの裾を持ち上げれば、彼女の陶器のように白くてやわらかな足が露わになる。

──が、レイラは短く息を飲んだ。

彼女の脚にはまばらに薄紫の跡があり、足首には足かせでもされていたかのような跡が残っていた。

なんとか靴を履かせたが、レイラは無言で、痛々しい跡の理由を訊くことができなかった。ミアにとって話したくないことかもしれない、と思えば、どう切り出せばいいのか分からなかったのだ。

(──あの貴族の男の家で、ミアの身に何が起こったのだろう?)

 レイラはミアの前で跪いたまま、しかし彼女にこんな仕打ちをした人物に対して、沸々と怒りが沸き上がってくるのを感じていた。

ミアはしばらく顔を手で覆って泣いていたが、やがて話せる状態になると、レイラに横に座るよう促し、貴族の男、シュバイン伯爵に引き取られてからのことについて語り始めた。

「……はじめはキレイな服や豪華な食事に胸を躍らせていたの。花を売るのも頑張ったわ。でも、だんだん伯爵が部屋を訪れる回数が多くなって、そのうち身体に触れてくるようになったの。嫌だったけど、あからさまに拒絶することができなくて、我慢していたらエスカレートしていった。服を脱がされた時には暴れて抵抗したわ。だけど怒った伯爵に頬を打たれて、ベッドに手錠で固定された。それでも必死に足で蹴飛ばしたんだけど、動けないように足枷をされたら、もう、それ以上はどうしようもなくて…」

 ミアが言葉に詰まるたび、レイラは怒りでこぶしを握りしめ、手のひらに爪が食い込んだ。ミアの口から語られたシュバイン伯爵の仕打ちはとても許しがたいことだった。

 話し終わる頃にはミアはだいぶ落ち着きを取り戻していて、まだ少ししゃくりあげてはいたが目元から涙は引いていた。

「急にごめん。こんな話……、困るよね」

大丈夫だよ、と言葉にする代わりに肩をさすれば、ミアは何度か小さく頷き、ありがとう、とつぶやいた。

「レイラ、気を付けて。シスターたちを信用してはダメ。私があの伯爵の家から逃げだせないのは修道院へ帰ることができないからなの」

「帰ることができない?」

「─ええ。体のいい話が売り飛ばされたみたい。私は伯爵あいつ奴隷おもちゃになったも同然よ。そしてそうなることで生じたお金はすべてシスターたちが吸い取っている。私のもとには一銭も入ってこない。だからレイラ、どんな時も目立ってはダメよ。みすぼらしい格好をして、貴族が参拝している前で賛美歌を歌うときは顔が見えないように俯くの。いい?約束して。レイラは美人だから心配なの。私、このことをどうしてもレイラに伝えなきゃと思って、手紙を書こうとしたんだけれど、そんな自由は与えられなかった。だから今日しかチャンスはないと思って…」

ミアはレイラの目を見つめて懸命に訴えた。

レイラは分ったよ、と何度も頷いた。

「私、もうあいつの屋敷には帰らない」

強い意志を目に宿してミアが言った。

「でも、だからといって修道院に行けばあいつの屋敷に連れ戻されてしまう。だから修道院にも帰らない。路上で物乞いをして生きるわ。あの屋敷に戻るくらいなら、臭くても汚くても、ゴミ箱を漁って暮らした方がマシだもの」

ミアはおそらく、レイラに心配させまいと淡々とした声で話していたが、きっと本心では心細いと思っているに違いなかった。たとえ瞳に憎しみの色を宿し、強くならなくてはと狼煙のろしを上げたところで、根は女の子らしくて優しくて、自分より人を思いやる泣き虫なミアだ。

「だったらミア。私の家に行くといいわ。私が昔住んでいたお家。水道とかはもう使えないかもしれないけれど、雨風をしのぐくらいならできるはず」

 レイラの提案にミアは驚いた顔をした。

「レイラ、お家を持っていたの? すごじゃない!」

ミアの瞳から憎しみの色が一瞬消えた。そこにいるのは修道院でともに時を過ごしてきた無邪気に笑うミアだった。

「うん、でも本当に、寝泊まりすることしかできないけど」

「十分よ!」

ミアは目を輝かせた。

「レイラが許してくれるなら、私、レイラと一緒にそこで暮らしたい!」

ミアは伺うようにレイラの顔を見る。

「そうね、一緒にこんなところ逃げだして、二人で生きる方法を探そうか。…決めた!私も修道院には帰らない。ミアと一緒にいられるほうがいい」

レイラの言葉にミアは喜んで飛び上がったが、すぐに心配そうな顔をして、レイラを気遣った。

「でも本当にいいの? レイラ。良く考えて。レイラは無理に私に付き合うことないんだよ?…どんなことになるか分からないし。レイラは修道院で暮らした方が…」

「いいの。私はミアといたいの」

ミアの言葉を打ち切って、レイラはぴしゃりと答えた。

レイラが少しの迷いも見せず微笑んだので、ミアもほっとしたようだった。


 そして二人は賛美歌を放棄して、レイラが昔住んでいた家へと向かった。

修道院で義務として課せられている行事を投げ出すのは二人にとって初めてのことだった。

それくらいの強い覚悟と意思を持って修道院から逃げ出したのだ。

帰る場所などもうどこにもない。


*


(家に帰ろう。)

呪文のように心の中で唱えながら道を歩いて、ようやく目的の場所に着いたとき、レイラは声も出なかった。


──家が無くなっていたのだ。


より正確に言うと、家自体はあったのだが、知らない人たちが暮らしていた。かつてクチナシが植えられていた庭は畑に変えられ、見慣れない作物が育てられていた。そしてその側には以前は無かった鶏小屋が作られ、小さな女の子が卵を取るのに奮闘していた。

 家の前で立ち止まったレイラを、心配そうにミアが見つめていたが、いてもたってもいられなくてレイラは駆けだした。

 家の扉を叩く。

「あの!すみません!ここ!私の家なんですけど!」

ドンドン!と力を込めて扉を叩くレイラのもとに、慌ててミアが駆けてくる。

「待ってレイラ!」

「どちら様?」

 何度目かのノックで扉が開けられ、中から品の良い身なりをした貴婦人が顔を出した。

「ここ、私の家なんです」

貴婦人は二人の服装を見て顔を歪めた。

「やだ。あなたたち物乞い?ごめんなさいね。うちはそういう子たちには何も恵まないことにしているのよ。勘違いしないでね。貧しいわけじゃないのよ。ただ、一人にあげると他の子も来てキリがないから…」

「違います!物乞いなんかじゃありません!」

悔しさでレイラの声は裏返った。

「この家は私が住んでいた家なんです! わけあって修道院で暮らすことになったけど、ここはお母さんとの思い出が詰まった大切な場所なんです」

貴婦人は不思議そうな顔をした。

「あら、じゃああなたが前の家主の娘さんなのかしら?だとしても私、ちゃんとシスターに話を通してあるわ。あなた、修道院で衣食住を提供してもらう代わりにこの家を売ることにしたんでしょう?夫は示された金額をきっちり支払ったはず。だからもう、正真正銘、この家は私たち家族のものよ。返してほしいなら、…そうね、私たちが支払ったお金を全部返してちょうだい。話はそこからね」

 子ども相手に勝ち誇ったように貴婦人は言った。修道院で暮らす子供たちにそんなお金がないことを分かっていながら、自分で買い戻せと言うあたり意地が悪い。レイラが睨みをきかせれば、それが気に入らなかったのか、彼女は

「あなたたち、今回は見逃してあげるけど、あまりしつこいと修道院に連絡させてもらいますからね」

と捨て台詞を吐いてガシャンと扉を閉めた。

「レイラ…」

閉じられた扉の前でミアがどうしたら良いのか分からずにレイラの名前を呼んだ。

しかしいまのレイラには、いつものように大丈夫だよ、と強がれるだけの余裕がなかった。

 レイラは走って家の周りを一周してみたが、庭に咲いていたクチナシは一本残らず無くなっていた。

どうやら本当にシスターが勝手に他の家族に売り払ってしまったらしい。

「お母さん…」

レイラは呆然と立ち尽くし、数秒後泣き崩れた。


──その後だった。

モートン卿に出会ったのは。


 ミアとレイラが修道院に戻ると、シスターが二人を待ち構えていた。そしてお仕置き部屋へ連れて行かれ、頬を打たれた。衝撃で口の中が切れる。これまでシスターに手を上げられたことがなかったので、レイラは驚いた。

「あなたたちには失望しました」

 シスターは冷たい声で言い放つと、ミアを引きっとていた貴族に謝り、ミアを再度引き渡した。レイラは罰として一週間牢屋に入れられ、牢屋から出た後は下働きの仕事ばかりさせられた。

 度重なる重労働と栄養失調で朦朧とする意識の中、レイラは絶えずミアが伯爵からひどい仕打ちを受けているのではないかと心配した。

 早くミアを助けなくては。

 きっと今頃泣いている。

 レイラは牢屋でシスターたちに見つからないよう石を研いだ。

そして刃物のように鋭くなったその石を腰に隠し持ち、レイラは水汲みの帰り道、他の子どもたちの目をかいくぐり、路地裏から街に出た。

目的地はただ一つ。

レイラはその研いだ石ひとつを武器に、捨て身でミアを苦しめている貴族と戦おうと思っていた。

とにかくミアを連れ出さなくてはならない。

生きる方法など後から考えればいい。


 レイラは人通りが減る夜になってから、屋敷の中に忍び込んだ。

正面の門には鍵がかかっていたので裏口を探した。

大人にとって庭の草木の隙間を潜り抜けるのは難しいことかもしれないが、華奢で体の小さいレイラには、小さな隙間から侵入するのは簡単なことだった。庭を進み、家主が飼っている犬が出入りするために取り付けられた小さな扉から屋敷の中に入った。深夜だからか警備が薄く、誰にも遭遇しなかった。


ミアはどこの部屋にいるだろう。


 レイラは二階に上がり、廊下を歩きながら、もしかしたらミアはあの貴族の寝室にいるかもしれないと思いついた。

寝室の見分け方が分からなかったので、とりあえず片っ端から目に入った扉を開けてみることにした。

しかしレイラが目の前にある部屋の扉を開けようとしたその瞬間、ガタガタ!という大きな物音が部屋の中から聞こえてきた。

レイラは扉に耳を当てて中の様子をうかがった。

おかしい。

確かに物音がしたはずなのに、誰も起きている気配がしない。


 レイラは全神経を耳に集中させ、どんなに小さな音も聞き漏らすまいとした。

「助けて、…殺さないで…」

レイラは目を見開いた。

そのか細い小さな声は間違いなくミアのものだった。

レイラはゆっくりと、小指の爪ほどだけ扉を開き、その隙間から右目で部屋の中を覗き込んだ。

するとそこには黒い服に身を包んだ男がいて、ミアに銃口を向けていた。ミアははだけた格好のまま涙を流して座り込み、その横には血まみれになって倒れている大男がいた。薄目にしか見えないので判断しづらいが、その大男はおそらくシュバイン伯爵だろう。

なんだ、あいつは死んだのか。

レイラは自分が手を下すまでもなく、何者かによって伯爵が殺されたことに安堵しつつ、しかしそれどころではないと頭を働かせた。


どうしたらミアを助けられる?


「何をしている、お前は誰だ」

突然背後から声がして、レイラはとっさに石のナイフを振り上げた。

相手の目を狙ったつもりだったが、レイラが振り上げたナイフはかわされ、その人のマントを割いただけだった。

振り返りぎわにその人物と目が合えば、それだけで身がすくんだ。

金縛りにあったみたいに体が動かない。

それがモートン卿を初めて目にした瞬間だった。

どうにか恐怖を振り切り、今度は腰を落として足を狙いナイフを突き刺した。

しかしまたしてもかわされた。

真上から剣が振り下ろされる。

すぐに受け身を取って体制を整えたが、力の差がありすぎて腰が折れそうだ。

「ほう。悪くない。筋がいいな」

剣を受けきれないと判断したレイラは、ナイフごと横に捨てて右足を蹴り上げた。

しかし所詮しょせん十五の娘の体術だ。

簡単に片手で受け止められてしまう。

「どうした、もう終わりか?」

右足を持つ手に力を込められ苦痛で顔が歪む。

「レイラ!」

ミアが叫んで割り込んで来ようとする。

「来ないで!!」

ミアがびくっと止まる。

我が主マイ・ロード。あなた様が手を汚さずとも、ここは私が」ミアに銃口を向けていた男が口を挟む。

「構わん。この小娘は使えるかもしれん」

足を掴んでいた手を離すとモートン卿は問いかけた。

「娘よ、わしの屋敷に来るか? 最も人間としてではなく儂の命に従う下僕いぬとしてだが。お前の命を儂によこすというなら、代わりにお前の生活と、ついでにそこにいる小娘の生活も保証してやろう。どうだ、娘。生きるために人を殺める覚悟はあるか? 」

レイラは迷わなかった。

瞬時にモートン卿の足元に膝を着き、頭を垂れた。

我が主マイ・ロード

それは絶対的な服従を意味していた。

「良いぞ。気に入った。お前の名は今日からモルテだ。それまでの名は捨てろ」

「承知しました。我が主マイ・ロード

このときつけられた「モルテ」という名前は、この先もモートン卿にしか外せない鎖としてレイラを縛ることになる。



 あぁ、胸が焼けるようだ。

こんなに鮮明に過去を思い出したのは久々のことだった。

───モルテ。

それは彼の所有物である証。

イタリア語で死に神を意味するこの名前は、レイラに架せられた役割をよく表していた。

モートン卿に指定された人物の命を奪いに行くなんて、まるで死神そのものだ。

レイラはモートン卿にモルテと呼ばれるたび、見えない鎖で〝服従の契りを忘れるな〟と首を絞められているようで気が滅入った。

それでもレイラがモートン郷のもとに甘んじているのは、あの夜に交わした約束があるからだ。

その実モートン卿は約束を守り、レイラを屋敷に住まわせ、ミアを屋敷の召使として雇ってくれている。


 ふと母が今の自分を見たら何と言うだろうと考えた。

きっと悲しむに決まっている。

どのような理由であれ、人を殺めるなんて間違っているのだから。

「でもお母さん、だったら私、どうすればよかったの?」

月を見上げて問いかけたところで母の声は聞こえない。

 レイラは許しを請うようにかがみこんでクチナシの香りを嗅いだ。

 そして窓をしめて部屋に戻ると、ベッドに潜り込み、質の良すぎる毛布にくるまり、身体を丸めて目を閉じた。


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