殺し屋の主と深夜の集会

人々の寝息すら吸い込んでしまいそうな夜闇の中、レイラはモートン卿邸宅の庭を横切り、草木で隠れている小さな裏口から玄関として使用されている大広間に入った。

 大理石でできた床は曇り一つなく磨き上げられ、二階に続く横幅の広い直階段には、上質な深紅の絨毯が敷かれている。

レイラの視界に入るのは、階段の横に置かれている石膏でできた花台、花台の上に置かれたガラス細工の花瓶、その中に飾られている紫の胡蝶蘭。

 レイラの記憶が正しければ、昨日の朝大広間を通ったとき、花瓶に生けられていた胡蝶蘭は白だった。まだ枯れるどころか入荷したばかりだったのに、もう入れ替えてしまったのだろうか。

 この屋敷には、馬鹿みたいに高級なものしかない。レイラは、この屋敷にあるそれらすべてが嫌いだった。視界に映り込むたび壊してやりたい衝動に駆られる。

 モートン卿にとって、絨毯や花瓶や花といった装飾品は、権力を誇示するための見世物にすぎない。そして彼の目には、それらの掃いて捨てるほどある装飾品よりも、私のような市民の命の方が価値のないものとして映る。どれだけ間違っていようが、金と権力を持ってさえいれば、その人物の考えがまかり通るなんてどうかしている。

 そして信じがたいことに、あれだけ人の命を軽んじていながら、モートン卿は直接人の命を奪ったことがないのだった。その実、今夜だって実際に手を汚したのはレイラだ。

 レイラはとある事情があり、モートン卿の従順な下僕いぬになることと引き換えに、この屋敷に住むことを許され、食事や服など生活に必要なものを提供してもらっている。こんなにも彼を嫌っているのに、彼が持つ金や権力のおかげで生きているなんて反吐が出そうだ。


──それでも今夜だけは、殺しなどせず、心穏やかに過ごしたかったのに。


 クチナシが満開を迎える優しい季節。

 今日はレイラの母の命日だった。


 不意に母の顔が脳裏に浮かべば、レイラは遣る瀬無くなって、階段を上がっていた足を止めると冷えた手をぎゅっと握り締めた。

指先にはまだ、先ほど撃った銃の衝撃が残っている。

後ろめたさを感じたところで、他に選択できる道などなかったのだし、今更何をしても伯爵の命が戻ることはない。

分かっている。

 レイラが横を向くと高窓から月明かりが差し込んでいた。高窓からひっそりと大広間に落ちる月明かりは、満月には程遠い、三日月にもなれないか細い月だった。

 レイラは自分の瞳が滲むのを感じた。

なんだかすべてが嫌になって、しゃがみ込んで泣いてしまいたくなったが、それを払いのけるように首を横に振り、何も考えまいとした。

きっと今頃、召使いたちはみな自室に下がり、それぞれ自由な夢を見ている。

レイラはその夢を一つ一つ潰すように、ゆっくりと階段を上っていった。

足音はしない。

それは日ごろの生活で染みついた悲しい習慣だった。いまやレイラにとって誰にも気づかれないように屋敷に潜入することはいともたやすいことだった。

 階段を上り切り、眠るために自室へ向かおうとすると、不意に背後から屋敷の執事であるディーンに呼び止められた。

「モルテ様。主様がお呼びです。至急会議室にお向かいください。」

思いがけない言葉にレイラは息を飲んだ。

こんな時間に呼び出し?

一体何のために?

「会議室?」

「はい。今夜は〝夜鷹〟の集会が開かれております。帰り次第、モルテ様をお呼びするようにとのことでした」

〝夜鷹〟という言葉でなんとなく目的が見えて、レイラは鼻で笑った。

「それはどうもご丁寧に。どうやら主様とお仲間の前で今夜の仕事の報告をしろという脅しのようね。もし失敗でもしていたら、いたぶって殺すつもりなのでしょう?見世物にするなんて悪趣味な。そんなことをされるくらいなら、このまま窓から飛び降りて死んでしまおうかしら」

 レイラは皮肉で言ったつもりだったが、ディーンはにこりともしなかった。

張り合いがなくて、レイラは白けた気分になった。

「早くお向かいくださいませ、モルテ様。モルテ様が遅れると私にもお叱りの矢が向きます。心中お察しいたしますが、どうかお気持ちをお静めください」

レイラは軽く頭を下げてお辞儀をするディーンの手元に目を留めた。日ごろあれだけ神経質に完全な身のこなしをしているディーンが、どういうわけか手袋をしていなかった。良く見れば彼の重ねられた手の甲には痛々しく薄赤い跡がついていて、それを見たレイラはすぐに察しがついた。

 おそらく彼は寝ているところをモートン卿にたたき起こされ、仕事を言い渡されたのだ。手袋をつけている余裕がないほど急かされたに違いない。モートン卿は、機嫌が悪いときや感情が昂っているとき、意味もなく召使いの手を鞭打つ癖がある。今夜はスペンサー伯爵の暗殺日であり、いうなればモートン卿のこれからが左右される運命の夜だ。神経の高ぶりを抑えきれず、ディーンにぶつけて解消しようとしたのだろう。成す術もなく、痛みに耐えているディーンの姿が思い浮かべば、レイラは同情した。

「分かっているわ。冗談よ」

 どうせ主に逆らうことなどできないのだ。レイラは彼に言われた通り、進行方向を変え、会議室へ向かった。


 先ほどはディーンの前で軽口をたたいて見せたレイラだったが、本当はモートン卿が率いる秘密結社〝夜鷹〟の集会に呼ばれて、緊張のあまりミイラになるのではないかというほど冷や汗をかいていた。これまでも何度か集会に呼ばれたことはあったのだが、そのときも蛇に睨まれた蛙さながらに硬直した。何せレイラを睨む蛇は一匹ではない。タチの悪いのが四匹もいるのだ。普通に蛇に睨まれるより四倍怖い。

 レイラは会議室の扉の前に立ち、両開きの開き戸に取り付けられた真鍮のドアハンドルに手を伸ばした。ふぅ、と息を吐き、ポールを握る手に力を込める。

そのまま力いっぱい、前に押して中に入れば、真正面にモートン卿の姿があった。卿は派閥の長らしく堂々といつもの席に着き、机の上に両肘をついて指を組み合わせ、値踏みするように鋭い視線でレイラを見ていた。視線を向けられるやいなや、レイラは瞬時に片膝を床に着き、頭を伏せ、家臣がよくする忠誠を示すポーズをとった。

「ただいま戻りました。我が主マイ・ロード

顔を床に向けたまま、レイラはモートン卿の言葉を待った。

「待っていたぞモルテ。表を上げよ」

 ゆっくりと、一音一音、心臓に響くような低い声。

 言われた通り顔を上げれば、モートン卿の威圧的な視線とかち合い、レイラはゴクリと生唾を飲んだ。

「──それで?」

 モートン卿は多くを語らない。

 彼にとって、従者たちが卿の言葉の語気にある含みで、何を問われているのか察するのは当然のことなのだ。的外れな返答は卿を苛立たせる。だから卿と会話をする際は、数言のやりとりをするだけで、一日に摂取する食事のエネルギーをすべてを消費してしまうのではないかというほど、頭を使うことになった。

 モートン卿の問いかけは質問のようでいて質問ではなく、ただの事実確認でしかない。レイラは持ち前の頭の良さで瞬時に卿の言葉の意味を理解し、切り抜けていく。

「はい、ご指示の通り、事故死に見せかけて馬車ごと川に落としました」

スペンサー伯爵の死は待ちわびた吉報のはずだったが、モートン卿は顔色一つ変えなかった。しかしそれは喜んでいないからではなく、それくらい卿にとって下した命令が通るのが当たり前ということだった。卿の描いた未来が訪れない──すなわち従者がミスを犯す可能性など端から想定されていないのだ。

「良くやった。明日は宴を開こう。特別にお前にも席を用意してやる」

最悪だ。

「はい。身に余る光栄です」

 レイラは無表情で定型文を読み上げた。

と、顎にひげを蓄え、額に脂汗を浮かべたフォーブス伯爵が下品な目でレイラを見て言った。

「大公、前任の男の殺し屋とは違ってこれは綺麗な娘ですな。こんな華奢な娘が殺しをするなど、半ば信じられませぬ。踊り子にでもしたら人気がでるでしょうに」

レイラは気持ち悪さで身震いがしたがその様子はおくびにも出さなかった。

モートン卿が乾いた笑い声を上げた。

「腑抜けたことを言ってくれるな、フォーブス。モルテはわしが育てたのだ。身寄りのないこやつを引き取り、拳銃の握り方から情報収集の仕方、潜入の仕方まですべて仕込んでやったのはこのわしだ。そこらの殺し屋よりずっと腕が立つに決まっておろう。──下らぬ下層階級の踊り子になどするものか」

それを聞いてフォーブス伯爵は顔をこわばらせた。レイラにはその反応が、卿が幼い子供に殺しの仕方を教えていたという事実に向けられているのか、それとも卿の駒を色目で見たという失態からくるものなのか分からなかったが、おそらく両方だろう。

 ピリピリと張りつめた空気を見かねたサラバン伯爵がフォーブス伯爵に助け舟を出した。

「しかしまぁ、これで政権は我ら夜鷹のものと言っても過言ではありませんな」

顔の割に小さい眼鏡をかけているリヴォーグ伯爵が、満足そうに頷いた。

「いやはや、これほど順調に計画が進むとは。少し怖いくらいですよ」

ここぞとばかりにフォーブス伯爵が同調して、モートン卿を持ち上げる。

「それもこれも卿の作戦あってのことですね!」

安い社交辞令が卿の癇に障ることを知らない愚かな彼は、のんきにヘラヘラと笑っている。案の上、卿にギロリと睨まれ、また顔をこわばらせることになる。

 その様子を眺めながら、レイラは奥歯をかみしめた。

侃々諤々、政治の会議でもしているのかと思えば所詮夜鷹などこのざまだ。

ただ家臣の伯爵家の人間が、徐に卿が持っている権力という名のグラスに「正当化」という酒を注いでいるだけではないか。くだらない。この人たちはこれだけの地位にまで上り詰めておいて、これ以上何を望むというのだろう? 今の生活のどこに不満があるというのか。明日食べるものや寝るところに困っているわけでもあるまいし。

 レイラの心はどうしようもなくささくれ立ち、普段なら考えず素通りできるところで引っかかっていた。

早く部屋に戻って眠りについてしまいたい。

「モルテ。もういい。下がれ。」

モートン卿が満足したようにレイラに言った。

「承知しました」

レイラは言われるがまま会議室を後にして、とりあえず何事もなく集会を終えられたことに胸をなで下ろした。



 レイラは自室に続く長い廊下を歩きながら、頭の中で現段階におけるこの国の勢力について整理していた。

 この国の勢力は、王族の血が流れる由緒正しい大公、グレゴリー卿が率いる〝鶏旦けいたん〟と、王家の血を引いていない大公、モートン卿が率いる〝夜鷹よだか〟の二つに分かれていた。(ちなみに鶏旦は夜明けを告げる朝の鳥という意味であり、夜鷹は夜中に狩りを行う鳥類という意味だ。──派閥が持つ意味からして二つの勢力が反発関係にあるのが分かるだろう)

 そして各派閥には大公の他に 伯爵家が三家ずつ属していた。

 王家の血筋を濃く継いでいるグレゴリー卿の派閥〝鶏旦けいたん〟には、自然と王家の血筋を引く伯爵家が集まった。名前を挙げるとケンブリッジ伯爵、スペンサー伯爵、ローズベリー伯爵だ。対するモートン卿率いる派閥〝夜鷹よだか〟には、リヴォーグ伯爵、フォーブス伯爵、サラバン伯爵が属していた。この三家は王家の血を引いていない伯爵家だが、モートン卿が仕込んだ裏工作により、今の地位を獲得することができた。要するに彼らはただの成り上がりに過ぎず、言ってしまえば、後ろのサドルを大人に支えてもらって自転車に乗れた気になっている子供のようなものだった。

 両派閥に三家ずつ伯爵家が属していることから、両者の勢力は拮抗していたが、国民の暮らしを良くするための政治を目指している鶏旦と、勢力を広げるために隣国に戦争をしかけたい夜鷹とでは、提案する政治方針が、全くといっていいほど逆だった。意見が二つに割れた際、国王は王家の血筋を引くグレゴリー卿を贔屓目に見た。それがモートン卿には癪だった。

 そこで、モートン卿は、自分が政界を牛耳るためには、今ある勢力図を崩すしかないと考えた。そのような経緯があり、伯爵暗殺を企てるに至ったわけだが、まずローズベリー伯爵はターゲットから除外された。彼は鶏朝に属してはいるものの、娘のリアがモートン卿の妻であるため、実質モートン卿の手の中にあるようなものだったのだ。そうしようと思えばいつでも動かせる駒であるため、暗殺の対象から一番に外された。

となると、残るはケンブリッジ伯爵かスペンサー伯爵のどちらかだ。

 はじめはケンブリッジ伯爵の殺害も視野に入れられていたのだが、彼の屋敷はグレゴリー卿の屋敷のすぐ隣にあり、警備が厚く、大通りにあるので誰にも見られず忍び込むのは至難の業だった。

 そこでやむを得ず、スペンサー伯爵が暗殺の標的として定められた。鶏旦の中でも隣国との外交業務を一身に任されているスペンサー伯爵は、隣国を滅ぼしたいと考えているモートン卿にとって消してしまいたい目障りな存在だった。注意深いスペンサー伯爵から内情を引き出すのには苦労させられたが、ついに情報をつかみ取り、今夜、またとないチャンスをものにした。

 スペンサー伯爵が消えたことで、今後、政界の勢力は大きくモートン卿側に傾いていくだろう。早ければ明日の朝にでも事件の詳細が新聞で取り上げられ、国は蜂の巣をつついたような騒ぎになるはずだ。モートン卿が本当に戦争をするつもりなのかは知らないが、レイラはただ、今夜を最後に殺しなどしないで済むようになればいいと願った。

政界を牛耳ることができれば、モートン卿は実質この国の国王にも劣らない権力を握ることになるのだ。それで満足してくれればいい。



 レイラが自分の部屋の前に着くと、そこには執事のディーンの姿があり、どうやら彼は会議の間、扉の前でレイラの帰りを待っていたらしかった。ディーンはレイラの姿を捉えるなり深々とお辞儀をした。

「お疲れさまでした、モルテさま。こちらホットミルクとクラッカーでございます。お夕食に手を付けられていませんでしたのでお持ちしました。よろしければお召し上がりくださいませ」

ディーンはクラッカーとホットミルクの乗った盆をレイラに差し出すと、「では、ごゆっくりとお休みください」と頭を下げた。

「ありがとう」

レイラは彼の後ろ姿に声をかけた。

ディーンはわざわざ振り返り、とんでもございません、とお辞儀をした。

良く見れば、彼の手には今度はきちんと手袋がされていた。

おそらく集会が開かれている間に部屋に取りに戻ったのだろう。

そしてレイラのために夜食を用意して、眠いだろうに戻ってくるまで待っていてくれたのだ。

 レイラはこの屋敷の人間を毛嫌いしていたが、ディーンだけは幼いころから面倒を見てくれていることもあり、心を許しているところがあった。

屋敷にいる召使いたちは、レイラのことを陰で何をしているか分からないモートン卿の側近として怖れ、陰口を叩き、腫れものにでも触れるように扱った。しかしディーンだけは、レイラに対して偏見を持たず、他の貴族やモートン卿に対して接するのと同じようにいち執事として接してくれた。

たったそれだけのことが、レイラには有難かった。

 レイラはディーンが渡してくれたお盆を、部屋に入ってすぐ横にある台の上に置き、身を翻して、既に後ろを向いて歩き出しているディーンを走って追いかけた。そして追いつくといつも胸ポケットに忍ばせて持ち歩いている傷薬を差し出した。

「…あげる。おやすみなさい」

 半ば一方的にディーンに傷薬を押し付けて、お礼を言われる前にくるりと踵を返し、そのまま部屋に戻った。わざわざ振り向かなくても、ディーンが感謝の意を表すために律儀にまた頭を下げていることは分かっていた。身分のせいで勤め先を選べないでいるが、彼はモートン卿に仕えるには勿体ない執事なのだ。

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