序章 春愁
陽葵が急いでくれたこともあって何とか新太は一命をとりとめた。
いやもう、他の客がナイフを持ち始めたときは終わったと思いましたよ。
時刻は17時30分。
予想外の事態もあって、だいぶ時間が押してしまっている。
けれども新太には最後にもう一つだけ行きたい所があった。
「陽葵、もう少しだけ時間良いか?」
「うん、大丈夫だよ」
新太が向かったのはここら一体を一望できる高台である。
辺りは暗くなり始め、真昼の暑さは一体どこへか消えてしまった。
「うぅ、さすがにちょっと冷えるねー」
「そうだな‥‥‥」
確かに、陽葵の服装では少し肌寒そうだ。そう思った新太は自分が着ていた上着を陽葵にかけた。
「これでいくらかマシだろ」
「……うん。でも、新太君は大丈夫?」
「ん?俺はあついくらいだったから」
「……ありがと」
歩くこと十分弱で目的地に到着した。
新太たちが着いた頃には既に夕日は沈んでしまっていた。
しかし、その代わりに万代の夜景を一望することができた。
「うわあ、すっごい綺麗‥‥‥」
「ホントだな」
予定していた景色ではなかったがこれはこれできたかいがあったな。
「ここさ、実は今月で解体されるんだよ」
「え、そうなの?来れてよかったね」
「陽葵」
「うん?」
新太は鞄の中から包装された小さな箱を取り出した。
「その、これ‥‥‥」
そして、それを陽葵に差し出す。
「え、結婚ですか?それは、ちょっと待ってもらえませんか‥‥‥?」
「ち、違うわ!」
確かに一見したらそう見えなくもない。だが、違う。これは、陽葵へのプレゼントとして前々から新太が用意していたものである。
新太はこのタイミングで渡そうと前々から考えていた。
「……陽葵の誕生日プレゼントだよ」
「え、陽葵の誕生日はもう過ぎてるよ?」
「俺たちの付き合った日だろ?」
「知ってたの?」
「ああ、だからずっと渡そうと思ってて」
「もしかして前から‥‥‥」
「陽葵、こんな俺と付き合ってくれてありがとう。その‥‥‥これからもよろしくお願いします」
「――ありがとう。陽葵こそよろしくお願いします」
良かった。とりあえずサプライズとしては成功かな。
「でも、ちょっと狙いすぎかな?」
ギクッ。痛いところを突く。
「やっぱり、そう思います?」
「まあでも、新太君らしいというか。ねえ、開けてもいい?」
「良いよ」
新太が誕生日プレゼントに選んだのはブレスレットであった。
陽葵はデートに行くときは、いつもブレスレットや腕時計などを身に着けていた。
だから、陽葵が好きであろうと思い至った。
「わあ!可愛いブレスレットだ。ありがとう、陽葵の宝物にするね」
まあ、陽葵が喜んでいればそれで良いか。
時刻は18時を迎えた。そろそろこの時間も終わりを告げようとしている。
「そろそろ時間も終わるし、帰ろうか?」
新太はそう陽葵に告げ、陽葵が立ち上がったその時だった。
陽葵が立ち眩み、立ち上がることができないままうずくまってしまった。
「陽葵!?大丈夫か?」
「だ、大丈夫。ちょっと、立ち眩みがしただけだから……」
そう言う陽葵の顔は、どう見ても青ざめていた様子であった。
『やっぱり、長期間外にいるのはまずかったか?』
新太は違和感を抱く。
――何だこの感覚‥‥‥。
「本当に大丈夫か?悪い、無理させちゃったか?」
「ううん、新太君は悪くないよ。陽葵が悪いだけだから……」
『いや、陽葵は全然悪くないだろう。悪いのはこの暑さの中で外を歩かせた新太の方だ。』
――あれ?やっぱりおかしい……。
新太は再び違和感を覚えた。
――違和感というよりも既視感?前にも、おんなじことがあったような、気のせいか?
新太は続けて思った言葉を話す。
「陽葵は、悪くないよ・・・ごめんな・・・無理させ、て・・・?」
――いや、気のせいなんかじゃ、ない。
間違いなく新太がこのセリフを言うのは初めてではない。
その証拠に新太はこの次に陽葵が返す言葉を知っている。
陽葵は笑顔できっとこう返す
「『無理なんかしてないよ。新太君といられて陽葵は嬉しいから』」
その後、新太は陽葵の様子が落ち着くまで待ってから駅へ向かった。
陽葵は何事もなかったかのように終始笑顔のまま別れを告げた。
陽葵を見送った後新太はまっすぐに家へと帰宅した。
帰って、お風呂に入って、ご飯を食べて――。そんな日常の習慣をいつも通りに行った。
だが、新太はその間に一言も発することはなかった。
喋ってしまうと考えてしまいそうになるから。
女子グループと遭遇したこと。
陽葵が体調を崩したこと。
以前のデートで経験したことが今回のデートでも起こったこと。これらが指し示す意味を。
けれども。けれど、どれだけ考えないようにしていても、心の中ではそこに行きつく。
もしかしたら、運命は変えられないんじゃないかと。
どれだけ違う道を選んだとしても、根本たる事象そのものを変えることはできないのではないだろうかと。
新太は苦しくなってたまらずに水を飲む。
――そんなはずないだろ?運命が決まってるなんて。だって、それなら‥‥‥それなら陽葵は……?
いつの間にか手にした500mlのペットボトルは空になっていたが、それでも胸の締め付けるような痛みが取れることはなかった。
「そんなはず、ないんだ‥‥‥」
まだ少し冷える五月の夜の冷気が、新太にじんわりとまとわりついて離れることはなかった。
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