第19話 密航、そして決意

 ウィルスン貨物商会の船が月面を離陸し、地球に向かって旅立ったのは、ジーンたちがコンテナの中に隠れて数時間後のことだった。


 荷物の積まったコンテナの闇のなかで、ジーンとカナデは身を寄せ合うようにしながら、ヴァンスが離陸前に持ってきてくれた固形食物とゼリー飲料を手探りで口に運んでいた。

 アイリーンだけは早くも寝息を立て、ジーンの膝の上で深い眠りのなかに落ちている。その、ちいさな呼吸音は、この先行きの分からぬ逃避行においても、ジーンに取っては得がたい癒やしであった。

 ジーンは、アイリーンの身体をそっと抱きしめては、自分が生きながらえていることの意味を考えこむ。


「いい夢、見ているのかしら? アイちゃん。なんだか、すごく幸せそうな顔で寝ているわね。かわいい」


 不意にカナデが咀嚼を止め、そうジーンに話しかけた。


「カナデ、この暗さでも見えるのですね、アイリーンの表情が」

「ええ。なんだか、こんなに深い闇のなかにいるのに、周りの様子がはっきり見て取れるの」

「じゃあ、私の顔も丸見えですか」

「ええ、それはそれは、愛おしそうな、優しい顔をして、アイちゃんを見つめているのが、よく分かるわ」

「……まあ、そりゃ、たったひとりの娘ですから……」

「ジーン、あなたは本当にアイちゃんを愛しているのね」


 ジーンはやさしげなそのカナデの言葉に、思わず、戸惑うような表情を閃かせた。それに気付いたカナデが、不思議そうに自分の顔に視線を投げる気配を感じ、ジーンは一瞬、しまったな、と思った。


 しかし、幸いなことに、カナデはそのことを追求しようとはせず、その唇から漏らしたのはまた別のことだった。


「私は……やっぱり、嫌なの。この身体が、この不自然に若返った身体が……」


 暗闇にカナデの声が静かに響く。

 ジーンはアイリーンを撫でる手を止め、カナデのいる方向を見やった。


「あの日、目覚めて以来、動くのにも恐ろしいほどに身が軽いわ。視力も聴力も、いったい、どうしたのか、というくらい若返って……というより……すべての身体機能が高まってしまったのを、ひしひしと、感じるの。でも、そのたびに私は自分が恐ろしくなる。これは、本当に、私なのかと」


 ジーンにはそう語るカナデの表情は見えない。だが、おそらく沈痛な面持ちであるのだろうと思うほどに、彼自身の心も黒く澱んでいく。

 なぜなら、カナデを今の境遇に追い込んでしまったのは、他でもない自分の手によって、なのだから。


 そして、またしても、彼は聞きたくなかった言葉を、再び耳にすることになる。


「こんなことになったなら、死んでしまいたいという、気持ちはどうしても変わらないのよ」

「カナデ」

「ジーン。生きて欲しい、と言ってくれたあなたには、悪いけれども」

「そうですか……」


 カナデが涙を流している気配を暗闇の中から感じ取り、ジーンの息は詰まる。コンテナの壁に、微かにだが、カナデが涙を啜る音が木霊する。


 何刻かの沈黙の後、ジーンは、意を決したように声を上げた。


「では、カナデ、あなたの今の望みはなんですか? どうすれば、あなたに、また、生きたいと思ってもらえますか?」


 すると、しばらくの間を置いて、泣き笑うような響きのカナデの声が返ってくる。


「元の身体に戻ること……かしらね」

「分かりました。では、それをもって、私の償いとさせてください」


 カナデが驚いたように、ジーンの顔を見る気配がする。しかし、ジーンは変わらぬ声音で、淡々と決意を述べ続けた。


「カナデ、私はあなたを、必ず、この命に替えても、元の身体に戻してみせます」

「ジーン」

「地球には、月面難民収容所のような研究を行っている研究施設が、他にもいくつか存在すると、私は前赴任地に居た頃、噂ではありますが耳にしています。そのうち、地球上で一番大規模な施設は、サハリン島、ユジノサハリンスクにある施設だとも。確約はできませんが、そこに行けば、あなたを若返り……いわゆるターンから解く方法を得ることができるかも知れません」


 暗闇の中、カナデは、はっ、とするような表情でジーンを見返した。


「だから、私は、この船が目的地であるウラジオストク宇宙港に到着したら、ユジノサハリンスクに向かおうと思います。ウラジオストクからユジノサハリンスクは、目と鼻の先ですし」


 ジーンは一気に思いの丈を吐き出した。

 一旦言ってしまえば胸の内は軽くなる。だから、次のカナデの言葉にも、彼は動かぬ決意を持って答えることができた。


「それは相当な、賭けね。確約もない、危険な……」

「はい、そうです。でもあなたへの償いは、それしか、方法が見いだせませんから」


 そう言うと、ジーンは笑いながら言葉を継いだ。

 いや、笑ったつもりだったが、果たして上手く笑えていたかどうか。それを、彼自身には確かめようもないのだが。


「そのかわりといっては、なんですが。カナデ、あなたにお願いがあります」

「私に?」

「はい、私がユジノサハリンスクから戻るまで、アイリーンを預かって欲しいんです。そして万が一、私が戻ってこなかったら……」

「あなたの代わりにアイちゃんを育てて欲しい、というの? ジーン」


 ジーンはカナデの言葉に、思わず苦笑いした。

 自分の思考はなんと、分かりやすく、安直なのだろうか。だが、今のジーンにはカナデの勘の鋭さがありがたくもあった。


「死ぬ気ね、ジーン。アイちゃんを私に託して」


 カナデが、ぼそり、と鋭く呟いた。ジーンは床を見つめて黙りこくった。コンテナ内の空気が、ゆらり、と僅かに揺らぐ。


 しばらくの後、暗闇にカナデの厳しい声が響いた。


「だめよ、ジーン。人に生きろと言っておいて、自分は死んでも良いなんて」


 カナデは諭すように、視線を下に落としたままのジーンに語りかける。


「それに、あなたが戻ってこなかったら、私は一生、この身体のままじゃない。なのに、自分だけ愛娘を他人に預けて、死んでいくなんて、どこまで都合が良いの」

「カナデ。私は、それでも」

「いいえ。ジーン、あなたひとりでは行かせないわ。私も行くわよ、ユジノサハリンスクに」


 ジーンは顔を上げてカナデを見た。濃い暗闇のなか、相変わらずその表情は見えない。だが、そのきっぱりとした口調からは、カナデの揺るぎのない意志を感じ取らずにいられなかった。


 その時のふたりには、まったく予想がつかなかった。

ふたつの決意が絡み合ったその末にあるのが、果たしてひかりなのか。それとも絶望なのか。


 ただ、この時、ふたりは共に、感じてもいた。

「少なくとも、今、自分は死ぬわけにはいかなくなった」と。


 その理由は、おのおの違うところに根を張っているとしても。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る