Ⅲ 極東

第20話 オホーツクの風 

 クオは、久々に降り立った地球の地表を踏みしめて、眼下に広がるオホーツク海を見つめていた。


 きらりきらり、とひかりが波間を跳ね、砂丘に立つクオの顔をも照らす。長髪を揺らす潮風が、くすぐったく彼の首筋を撫でていく。


「懐かしい風景でしょう。お元気でしたか? クオ・ケセネス准佐」


 不意に名前を呼ばれ、クオはゆっくりと後ろを振り向いた。そこには、旧知の研究員が、手錠に繋がれたひとりの女を従えてクオを見つめている。


「……まあな、あんたも元気か?」

「はい、おかげさまで」

「そうか」


 クオはしばし、遠い日の感傷に浸るような眼差しで、水平線へと視線を再び投げた。だが、十数秒の間を持って、頭を振ると、身体の向きを研究員の方に戻し、そしてその横に立つ女を見た。


「そいつか、例の、もうひとりの被験体は」

「はい、そうです」

「ふうん。こいつがなぁ、……」


 クオは女に近づき、そのボサボサの肩までのくせ毛に隠れた顔を興味深げに凝視した。彼女の瞳の焦点は虚ろで、口は半分、だらしなく開いたままだ。クオは女の髪をいきなり、くっ、と掴み、その顔を持ち上げると、彼女にいくつかの問いを投げかける。


「女、名前は?」

「……レ……レベ、レベッカ」


 レベッカと名乗った女は、喘ぐように答えた。

 それに対しクオは、つまらなそうに応じる。


「ふん、肝心の姓は覚えていないか。まあいい、レベッカ、お前の歳はいくつだ?」

「に、に、にじゅう、さん……?」

「まあ、当たらずとも遠からず、といったところだな。ところでレベッカ、お前に子どもはいるか?」

「こ、こ、子ども……い、いる、いや、いな……い?」

「分からないか。それもつまらんが、まあ、贅沢は言うまい」


 そうして質問を終えると、突如、クオはレベッカの首元に手を伸ばした。

 彼女の首には、銀色のロケットペンダントがかけられている。クオはその鎖をつかむと、力任せに引っ張った。ぷちり、と鎖が切れて、ペンダントはレベッカの首を離れ、彼女の足元の砂に、ぽろり、と、転がる。


「あっ……」


 レベッカが砂の中に落ちたペンダントの、鈍いひかりを見つめて、何か言いたげに呻く。


 だが、クオはレベッカに構わず、地面に落ちたペンダントを荒々しく掴んで拾い上げた。そして、ロケット部分の蓋を開けて、中身を確かめる。そして、そのなかに一枚の写真が入っているのを見、クオは思わず、くっ、くっ、と嗤い声を上げた。

 そんな彼に向かって、レベッカは、手錠に繋がれた手をおずおずと伸ばせる限り、伸ばす。


「か、かえし……て……」

「レベッカ。この写真が誰か、覚えているか?」


 すると、レベッカは一瞬、懐かしいものを思い出すような素振りを見せた。


「わ、わた、しの……」

「お前の?」

「わた、私の……」

「お前の、なんだ?」

「いえ、いえ……分からな、い……」

「そうか。それも、惜しいっちゃ、惜しいが、まあいい」


 そう言うと、クオは乱暴にズボンのポケットに、そのロケットペンダントを押し込んだ。


「レベッカ、ちょっとこいつは借りておくぞ」


 その言葉を耳にして、レベッカが呆けたような表情でクオをぼんやり見守る。浜を渡る風が、クオとレベッカの髪を巻き上げ、さあっ、とざわめいた。

 するとクオは彼女に向かって、その風に負けぬよう、大きな声を張り上げた。レベッカがびくり、と肩を震わせる。


「レベッカ。今日から、お前の指揮官は、俺だ。俺に忠誠を誓え」

「……は、はい」

「分かりました、ケセネス准佐。と言ってみろ。そう、砂に跪いて、だ」


 すると、言われた通りにレベッカは、砂の上へと、手錠のまま跪く。そして、感情というものを、どこからも見いだせない声で呟いた。


「……分かりました、ケセネス准佐……」

「いいぞ、レベッカ。その調子だ」


 クオは薄い笑いを顔に閃かせると、再びポケットから、彼女のロケットペンダントを取り出し、ゆらゆらと、振り子のようにレベッカの顔の前で振ってみせる。そして、笑みを浮かべたまま、また、そのなかの写真を確かめては、くっ、くっ、と嗤った。


 すると、それまでふたりのやりとりを見守っていた研究員が、クオに尋ねる。


「それを使って、ジーン・カナハラとカナデ・ハーンをおびき寄せるおつもりですか、准佐」

「ああ、もう奴らの居場所は、ようやく情報部の連中が見つけ出している。奴らが、ここ、サハリンに向かっているのは間違いないとの報告だ」

「だったら、そんな婉曲なお手を使わず、港で拿捕してしまえばいいことでは?」

「いいや、ターンを起こしたカナデ・ハーンの身体能力は侮れん。万が一のことがあって逃げられては、今度こそ俺の沽券に関わる。念には念を入れた方が良い、それに」


 そう一気に言葉を吐くと、クオはレベッカを指さした。


「ここには、丁度良く、こいつがいる」

「なるほど」

「ならば、せいぜい、使ってやろうじゃないか。狩りは、楽しみが多い方が良い」


 オホーツク海から吹く夏の風が、砂丘に立つ彼らを包み込むように、ざわっ、と吹き荒れた。


「これは、堂々とカナデ・ハーンを連れて逃げおおせ、俺に恥をかかせたお前への罰だ。覚悟しろ、ジーン・カナハラ」

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