第4話 我が娘よ

「おとーさん! おーそーい!」


 収容所での仕事が終わり、ジーンが職員専用保育所に到着したのは、通常託児終了時刻の二十時をとうに回っていた。父の姿を認めるや、保育所の室内から、赤いワンピース姿のアイリーンが、たたたっ、と走り出てくる。そして、ジーンの広げた腕の中に勢いよく飛び込んだ。


 ジーンはアイリーンを、ひょい、と抱き上げると、そのくりくりとした菫色の瞳を覗き込みながら、詫びの言葉を口にした。


「悪かったな、アイリーン。今日は、特に診察の人数が多くてな」


 するとアイリーンは、ジーンの腕のなかで、にこり、と笑って、誇らしげに胸を張った。


「ううん、おとーさんのお仕事、いそがしいの、アイちゃん、わかってる! だから、きょうも、いい子にしていたんだからー」

「よしよし、お前は本当にいい子だな、アイリーン。さあ、おうちに帰ろうか」


 ジーンは、くしゃくしゃとアイリーンの茶色いくせ毛を、いかつい手でなで回した。アイリーンが笑い声を上げ、ちいさな両手をぎゅっ、とジーンの肩に回す。ジーンはそんなアイリーンの身体をやさしく抱きしめながら、保育所の職員に挨拶しながら部屋を出て、宿舎へと歩を向けた。


「アイリーン、お父さんがいない間、今日は何をしていた?」

「アイちゃん、お友だちと遊んでいたよ」

「もう友だちが出来たのか。偉いな、アイリーン」


 ジーンは思わず、同僚たちに未だ心許すことも出来ず、日々、身を縮めながら仕事に追われている自分を思い起こす。


 ――アイリーンは、俺とは大違いだな。


 そう、ジーンは心の中で苦笑した。しかし、アイリーンの次の台詞に、ジーンの心は黒く澱む。


「今日はね、お友だちと“けんきゅうじょごっこ”したの!」


 宿舎への廊下を歩んでいたジーンの足が、思わず止まる。心に、なんと言葉に表せば良いか分からぬくらい風が渦巻く。


「おとーさん、どうしたの?」


 急に立ち止まった父に、抱き上げられたままのアイリーンが、不思議そうに声をかける。


「いや、なんでもないよ」


 ジーンは、アイリーンにやや固い笑顔を向けると、何事もなかったかのように、また歩き始めた。


 無機質な白い廊下に、かつん、かつん、とジーンの足音が木霊する。ジーンはその音を耳に響かせながら、心に渦巻いた風をなんとか制御しようと試みる。そうこうしているうちに、あてがわれた宿舎にジーンとアイリーンは帰り着く。


 パス・コードを打ち込み部屋のドアを開け、室内に身を滑り込ますと、真っ暗だった部屋にオレンジ色の自動灯が点る。


 気が付けば、腕の中のアイリーンはすやすやと寝息を立てていた。ジーンは、床に敷いたままだったタオルケットのうえにアイリーンを起こさぬよう、そっと下ろす。そして、その幸せそうな寝顔を見ては、思う。


 ――もうすぐこの子も、四歳か。だんだん、母親に似てきたな。


 それから、ジーンは、自らもアイリーンの横に身を横たえると、目を瞑った。

 瞼の裏側に映ったアイリーンの寝顔が、その母親の顔に重なり、ジーンは思わず、大きな声で懐かしいその名を叫びたい衝動に駆られた。そうすることで、自分がここに来るに至った「罪」をも吹き飛ばしてしまうことが出来たら、と、どこか意識の片隅に思い浮かべながら。


 だが、ジーンが次にしたことは、ゆっくりと瞼を開き、そんな夢想を打ち消すべく、逃れようのない現実に意識を引き戻すことであった。それから彼はのろのろと立ち上がると、キッチンに向かい、自分ひとり分の夕食を用意しようと、湯を沸かしはじめた。


 ――アイリーンは、保育所でもう夕食を済ませただろうから、簡単にパスタでも作ろう。


 そう思いながら、ジーンは傍にあった乾燥パスタの袋を乱暴に破り、中身を沸いた湯の中に入れる。だが、その時、胸ポケットに入れていたテレフォンが鋭く振動した。ジーンは慌ててテレフォンのモニターを見る。


 そこには所長のデュマの浅黒い顔が映っていた。デュマの重々しい声に、パスタがふつふつと湯に躍る音が重なる。


「ジーン。緊急事態だ」

「何事ですか?」

「収容所で暴動が発生した。退勤間際のところ悪いが、すぐに来てくれ」

「すぐ行きます」

「念のため、装備はレベル三で」

「はい、了解です」


 デュマの顔が画面から消えた。


 ジーンはキッチンのスイッチを切ると、部屋の奥にあるクローゼットへと身を翻し、引き出しの奥に仕舞っていた防護服と銃を取り出し、素早く装着した。


 その身体にかかる重みに、わずかに懐かしさを感じはしたが、彼に、特別な感慨はなかった。

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