幸の結晶

@vrc_sour

幸の結晶

「では、説明は以上となります。わからないことがあればいつでもスタッフにお尋ねください。用法容量についてはくれぐれも誤ることのないように。」


ひとしきり医者から説明を受けたあと、さる病院の大部屋に移される。

入院患者... ではない。とある治験の噂を聞きつけここまではるばる来たのだ。


治験の対象とされる薬。世論の表現では、「幸の結晶」と呼ばれている。


感情も幸福も、それぞれで解釈の違う主観的な概念だ。

だというのに、進歩し続ける化学はその結晶化を可能にした。

とはいえどこからでも手に入れられるのはけしからんということになり、結局福祉の一環として追い込まれた人間にのみ支給しようという法整備に落ち着いた。


しかしながら薬は薬。やはり治験を経る必要はあり、こうして金と調子のいい幸せを目的に俺のような人間が集まってしまったというわけだ。

その薬の詳しい理屈について説明された気はするものの... 学がないために、正直よく理解できなかった。

ただ、とにかくこれを服薬すると、幸せの結晶というだけあって「定量化された幸運が舞い込む」らしい。そこだけはなんとか覚えていられた。


疲れ切った人生にそんなものをチラつかされて、何もしないでいられるはずがない。

「毎食後服用 1回3錠」 その注釈に従って夕飯と共に服用し、その日はベッドで早めに一日に幕を下ろした。



あれからしばらく服用を続けている。もう2週間ほど過ぎたところだ。

普段通りの生活と日に数度の検査を行っているが、体への目立った副作用も、舞い込むとされている幸運も 今のところ感じることはない。

特に外出等の縛りがないので時折街にも遊びに行くが、惰性で打つパチンコがかかることも、札束の詰まった財布を拾うことも、街中のかわいい娘に声をかけられるといったことも、何も起こったためしがなかった。

これでは普段と変わらない。食事もタバコもコーヒーすらもまずく感じてしまう。

舞い込む幸運とはこの程度なのか? 金になるからいいものの、眉唾物に時間を無駄にしてしまった悔いに、ベッドに座りながら顔をついゆがめ、貧乏ゆすりが止まらなくなってしまう。


「よぉ。考えてることわかるぜ。変なヤマつかまされたなって思ってるんだろ。」

急に隣人が話しかけてきた。少したじろいだが、つい口が開いて言葉が出てしまう。


「楽だからいいけどさ... 何かのドッキリ番組にでも巻き込まれたのかなぁ。俺らのわくわくしてる様がどこかで見世物にされているかと思うとたまらないな。」

「ははは。それもあるかもな。まぁ、まだ1か月も経ってないんだ。どうせ定職なんてないし、このままのんびりしてたっていいじゃないか。そのうち効果が出てくるかもしれないよ?」

言っていることはわかる。が、無為に時間を過ごしてると思うと誰だってそわそわしてしまうものだ。


「と言っても退屈じゃないか。期待してた分なお腹も立つというものだろう。隣の病室の班だって、きっと同じような感じじゃないのか。」

「そうだな。退屈だ。多分他の場所も同じさ。少なくとも今はな。」


彼の返した最後の言葉の意味が分からなかったが、深堀りするのも面倒に感じて適当に相槌をうち、会話を終わらせた。そわそわ喋っていたからかなんだかのどが渇いてきて、自販機のある一室へ行きたくなったからだ。

病室のドアを開けてしばらく歩くと、隣の病室にいる同じ治験者と鉢合わせた。


すれ違いざま感じた軽い違和感。近く、その答えを知らされることになる。



またしばらくの日がたってから... 日常に明らかな変化が起こり始めた。

と言っても、俺たちではないのだ。

『仲間』だと思っていた隣の病室が。連中が。一変してしまった。


外にまで聞こえるほどの笑い声。大声。奇声。時折読経のようなものまで耳に入ってしまう。

狂乱騒ぎに耐えかねて殴りこんでみたが、思わず目を覆ってしまった。


ある者は刺激的な政治家に入れ込んでイデオロギーにまみれた投書を奇声を放ちながら書きまくっていた。

ある者は評判のカルトの教祖に染められて、いつ脱いでるのかもわからない、強烈な臭いの一張羅で延々と大音量のテレビに礼拝をしている。

またある者は流行りの商売にそそのかされてベッドに商材の山を作っていた。現在も友人や家族関係を金に清算し続けている最中のようだ。


こいつらがここまで狂ってしまったというのに、俺らの病室にはまるで変化が起こらない。

一体全体どうなっているんだ? 何をさせられていたんだ? 俺たちもやがてこうなってしまうのか?

そんな不安に包まれて震えていると、『彼』がどこからか現れて話しかけてきた。


「"プラセボ群"。俺たちは運よくそれを引き当てたんだ。」


...聞いたことがある。あれだ。"偽薬効果"ってやつだ。

治験で新薬を試すとき、あえてグループを分ける。あるグループには意図通りその新薬を処方し体に起こる諸症状の推移を観測していくのだが、もう片方のグループにはあえて何の効力もない「偽薬」を投与するのだ。

こうすることで、「薬を飲んだからよくなった」という反射的な思い込みについても2グループが同条件となり、純粋に薬の効果で対象実験ができるというものだ。


「あんたは... あんたは知っていたのか? こんなことが起こるということも、俺たちがプラセボに割り当てられていたことも...」

「...正解の部分もあるね。 薬効を得るまで時間がかかるとされる抗うつ剤だって、最初に話した頃にはもう薬効が現れてるもんだ。これが延々待っても現れない。プラセボだろうというのはここで推測がついた。が...さ。 幸せの部分についてはまるで知らなかった。本当さ。」


「こんなことになっちまって、気持ち悪くはならないのか? なんでそんなに平気でいられるんだ...? まさかあんたも少なからずあの症状になってるんじゃ...」

「そんなわけねぇだろ。 たださ、ただこう思うだけだ。」


「幸せというのは、案外何もわからなくなることなんじゃないのかなって。」


「だからさ、『不満』や『退屈』ってのは 案外『不幸』ではないのかもなって思うだけさ! 自分の人生を生きるには地獄を見なきゃいけないが、そこから目をそらした先も地獄だったってだけだ! 幸せの正体とは地獄の沙汰の差だったってわけだ! はっはっは!」


ひとしきり演説した彼は満足げに、いつも通りに床につき出した。

俺は...


『彼ら』の狂態が。『彼』の最後の笑顔が忘れられず、人目を盗んで何も持たずに病室から逃げだした。



「『幸せの結晶』... 治験希望者が後をたちませんが、みんなそこまでして幸せになりたいものなのでしょうか。」


「おや、この仕事に携わってずいぶん経つというのに。珍しく弱音を吐いているね。」

「...あの騒ぎを何度も見ていると、さすがに考えの一つも変わります。わたしはあなたほど冷徹にはなれませんから。」


先生は少し顔をしかめる。しまった。言い過ぎたか。と思ったが、彼はまぁいいと言うようにしばらく椅子をギシギシさせながら、落ち着くとまた語り始めた。


「人生、全てがよい運気と共に未来が約束されている状態だとは限らない。だから人はいつの時代だって、明かりを求めて、安息を求めて...道に迷ってしまうし、その道を示してくれるかのようなカリスマに惹かれてしまうんだ。しかし、そんな答えなど得られるはずがない。だから、それに"準する"形で定量化した幸せについて、研究が重ねられることとなる。」

「結果得られた、良い運気や未来の約束に"準する"状態とは... 『人に生かされること』だった。」

「この薬は、躁病の人間が日の光や吹く風の一つ一つを輝かしく感じて無為に高揚するあの感情を引き起こし、人の言葉に染み入りやすくして、自分で考える能力を希薄化し... 結果として人生の苦悩を考えずに済むことで"幸せ"にするものだ。幸せの薬をむさぼる彼らにとって、それで得られる幸せに比べれば、"副作用"なんて些細な問題に感じることだろう。何の疑問もなく自分が生きていることができるのだから。」

「この薬は高度社会で身を削る現代人の... そんな原始の欲求を満たしてくれるものなのだよ。」


「...考えさせられます。 結局、生きることと苦痛は切り離せないものなのでしょうか。真の幸せなどどこにもないのでしょうか。」

「いいや。そんなことはないさ。現に君と私はこうして、『苦痛』や『人生』について。孤独について。わかちあえているじゃないか。」



「本当は、これぐらいで十分なはずなんだよ。」



"幸せ"は、今日も変わらず処方されていく。

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