第29話 雄の本能

「こっちの世界にも風呂があって安心したぜ」


 旅人の服(古着)の胸元を扇いで火照った身体を冷ます。


 常連客の視線がむず痒かったので、飯を食い終わると俺達はそそくさとゴロツキ亭を後にした――その時もエッチなからかいを受けた。三十五歳の俺が言う事じゃないが、そういうおじさんみたいなセクハラよくないと思うよ?


 で、そのまま帰宅して就寝かと思ったら、ドネートに風呂屋を案内された。言ってしまえばそこは異世界銭湯で、中は異世界トリップしたローマ人が考えそうな――だったらもうそれは普通にローマ風でよくね? ――内装だった。


 異世界人が考えたのか、元々この世界にあった文化なのか、その二つが混ざり合ったのか。答えは分からないが、男女別のシステムだった。残念だとは思わない。俺みたいなガチガチの童貞が混浴になんか入ったら――そしてドネートと一緒に風呂に入る事になったら――ガチガチの童貞の童貞がガチガチになって大恥をかいて気まずい事になる。


 そうして今日一日の疲れと汚れをさっぱり流し、ウキウキ気分でドネートの借家に帰ってきた所だ――ちなみにドネートは普段は井戸から汲んだ水で身体を洗っていて、今日は奮発したそうだ。


 他意はないが、ドネートの家はボロいというか貧相というかもう何もかもが最低限という感じだ。石造りの二階建てだが二階には別の誰かが住んでいる――入口は外にあって中は完全に独立している。


 部屋は二部屋というか、四角い部屋を無理やり半分に区切ったような感じだ。居間は玄関先と繋がって、その奥に寝室兼ドネートの私室がある。家具らしい家具はほとんどなく、床は地面と大差ない。そんな場所でも、壁と屋根があるだけで心が安らぐから不思議だ。


「ごめん。着替えの事考えてなくて。明日買うから、今日はそれで我慢して」


 申し訳なさそうにドネートが言う。彼女は一度戻った時に着替えを用意して、そのまま風呂屋で着替えていた。まぁ、大体似たような格好だが。


「全裸で放り出されたんだ。着る物があるだけありがたいって」


 と口では言っておくが、内心では臭くないかちょっと不安だ。今のイケメンボディは十代後半から二十代ぐらいだから、元の身体みたいに加齢臭がする事はないだろうが、今日はかなり動き回り、その分の汗を服は吸っている。


 俺一人なら気にしないが、年頃の異世界ギャルと一つ屋根の下となれば話は別だ。お父さん臭い……じゃないが、そんな風に思われたらガラスの三十代の心はひび割れて異世界ファブリーズを求めて夜の街を彷徨ってしまう。


「で、俺はどこで寝ればいいんだ?」

「……ぁ」


 勘の良い視聴者なら今の……ぁ、で大体察しただろう。俺は察した。


「……いや、まぁ、ないなら別に床でもいいけど」


 限りなく廃墟に近いと言うか廃墟を家だと言い張って住んでいるようなものだ。ベッドが二個あるはずもなく、ソファーなんて贅沢品があるわけもない。奥の部屋は見た事がないが、多分ぼろいベッドが一つとかそんな感じだろう。


「そういうわけにはいかないじゃん! リュージには明日も働いて貰わないとだし! あたしが床で寝るし!」

「いや、それはダメだろ」


 三十五歳の引きニートおじさんにだって少しくらいは男の見栄って奴がある。こんな若い女の子を――若くなくてもだけど――床に転がして自分だけベッドで寝るなんて事は許されない。


「いいよ別に。マットがないと眠れないような繊細な作りしてないし」


 ……マット?


 もしかして、ベッドすらない?


 ……いや、ないか。


 テーブルどころかまともな椅子もない家だもんな。


 多分床に直接マットを引いて寝てるんだろう。


「俺がよくないんだって! 俺の世界じゃ女を床に寝かせて自分だけマットで寝るような男はクズって事になってるんだ。気まずくて寝れないっての!」


「あたしだってなんにもしてないのにリュージばっかり戦わせて自分だけマットで寝るとか無理だし!」


「いや、なんにもしてなくはないだろ。てか、めちゃめちゃ世話焼いてくれてるじゃんか!」


 薄々気づいていたが、ドネートは繊細と言うか気にするタイプらしい。まぁ、加護なしは彼女の人格形成の根幹をなす要素だろうから、気にするなと言っても無理だろうが。


「でも……実際危ない目に遭うのはリュージだし……ほら! リュージが寝不足で魔物にやられちゃったらあたしも死んじゃうんだよ? だからやっぱりリュージがマットで寝た方がいいっしょ!」


「だーかーらー、マットで寝たってドネートが床で寝てたら寝られないんだって!」


「そんな事ないし。リュージ、ゴロツキ亭で飲んでる時も眠そうだったし。今日は色々大変だったし、疲れてるんでしょ? 横になったらなんだかんだ眠れるって」


 うぐ。変な所で洞察力を発揮しやがる。


 実際その通りだと思う。腹いっぱいで酒も飲んでその上風呂上がりだ。かなりいい感じに眠くなってる。横になったら五秒で寝れそうだ。


 それでも! 男には! 譲れない意地って奴がある!


「やだ! ドネートがマットで寝ないなら俺も寝ないからな!」


 うぅ、眠い。眠すぎて反論が雑になる。


 自分でも何を言ってるのかよくわからない。


 この際床でも構わないから早く横になりたい。


「わかったよ……じゃあ、二人で寝る?」


 俺のしつこさに業を煮やしたのか、威圧的な態度でドネートが言う。


 ……こいつ、俺を試してるだろ。今日一日べったりくっついてた俺だぞ! そのくらいの事は理解出来る。そう言えば俺がビビって言う事を聞くと思ってやがる!


 大体の事はその通りだ! 俺はヘタレだからな! けど、こういう場合は頑固だぞ! 


 異世界ギャルを、床で寝かすのは、絶対に、嫌だ!


「いいぜ。ドネートがそれでいいならな」


 ふん、と挑むように鼻を鳴らして俺は言う。


 そっちこそ覚悟は出来てるのか?


 出来てるわけないよな!


 こんなキモい中年ニートと同じベッドとか絶対無理だろ!


 ほらほらほら! 大人しくマットで寝ろ! そして俺を床に寝かせてくれ!


「……あたしは別に平気だし!」


 む~~~~きぃ~~~! と頬を膨らませると、ドネートは言った。


 言いやがった!


 ま、マジかよこいつ、正気か? 変な意地張るなよ! こっちは服も着替えてないんだぞ! 絶対汗臭いから! 大体、俺はお前より力も強いんだぞ! 変な事されるかもとか考えろよ!? 絶対よくないって!


 そう思うが、意地を張ってしまった手前今更引くに引けない俺がいる。


 そして、それは向こうも同じだろう。


 お互いにまったく同じ事を考えていると知りながら、お互いに望まない結末へと突き進んでいく。


「こっち来て」


 お願いだから諦めて! そんな目をしてドネートが俺を奥の部屋に案内する。居間と大差ない部屋だ。綿の飛び出したベッドロールが一つと、脚やら取っ手やら扉やらが壊れたジャンクな家具が並んでいる。


 ドネートはベッドロールを不安そうに眺めると、覚悟を決めて端の方に横になった。小汚いぼろぼろのマットだ。サイズだって一人用の布団より小さい。こんなのに二人で寝るとか無理を通り越して犯罪だろうが!?


「……ほら。無理なんじゃん。あたしの勝ちって事でリュージは大人しくマットで――」


 あ、こいつ勢いで俺をマットに寝かせる気だ!


 そうはいくかよ!


 起き上がろうとするドネートの隣に身体を横たえる。


「……これでいいんだろ」


 ふんす! と、止せばいいのに俺も意地になって鼻を鳴らしてしまう。


 内心はガクガクだ。


 可能な限り端に寄るが、そもそも二人で寝るのは無理のあるサイズだ。俺の腕とドネートの腕は完全に触れ合っている。俺の身体は馬鹿みたい火照って熱く、ドネートの二の腕は柔らかくて少し冷たい。


 ふぇぇぇぇ……こんなの犯罪だよぉ……頭の中が沸騰しちゃぅうううう!?


 ってマジでそんな感じ。


 早くも下はギンギンだし心臓は全力疾走した後みたいにバクバクだ。これ、絶対聞こえてるだろ!? もうやだ、恥ずかしいよぅ……でも、今更引けないしやっぱりドネートを床で寝かせるのは嫌だ。じゃあもうこうする他ない。


「……ぉ、おやすみ」


 一オクターブ上の声でドネートが言う。


「……おやすみなさい」


 俺も同じだ。


 特に照明とかない部屋だ。窓もない。月明かりがやけに明るく感じる。


 バクバクバク。心臓が五月蠅い。というか全身が心臓になったみたいだ。その中でも俺の俺は特にうるさく、むず痒いもどかしさを放ちながら身体の主導権を寄こせと吠え立てる。良い雰囲気じゃん。向こうだって満更でもないぜ。力関係を考えろよ、ドネートは絶対に拒めないぜ。


 そうだろう。


 もし俺が今狼になってもドネートは拒めない。俺は大事な金蔓だ。借金だって残ってる。機嫌を取る為だったら……。


 俺はそこで思考を停止させる。


 くたばれチンポ。お呼びじゃないぜ。


 ドネートが俺のご機嫌を取る為に身体を許すと考える事自体が彼女に対する侮辱だ。思い上がるなクソニート。お前にそんな価値はない。一兆歩譲ってあったとしても、そんな選択を彼女に迫るな。お前は大人だろうが! ニートでもワナビでもヘタレの童貞でも、お前は大人なんだ! だったら大人らしく振る舞えよ。獣の本能に負けて大事な相棒の尊厳を穢すような真似をするな。彼女は恩人だろうが。それをやっちまったらお前はネイルと同じだぞ!


 俺は必死に自分の邪さを糾弾する。そうしなければ負けてしまいそうな程チンポの誘惑は強い。誰かが言った。男なんて歩くチンポだ。俺もそう思う。ここには男の本能が詰まっている。本能は本能であるが故に抗いがたい。それでも俺は負けたくないし負けるわけにはいかない。もし負けたら俺は自分を許せないだろう。この関係は終わりを迎え、俺もドネートもチンポのせいで不幸になる。こんな馬鹿げた話はない。


 俺は硬く目を閉じ、太ももに爪を食い込ませる。


 滑稽だが、俺は大まじめだ。


 これは戦いだ。


 ドネートを俺の中の獣性から守る気高き聖戦。


 主よ、俺に力を与えてくれ!


 などと訳の分からない事をあれこれ考えていると、不意に耳元をドネートの寝息がくすぐった。


 そうだろうとも。ドネートだって今日一日頑張ったんだ。なんの加護もないのに、あんな危険な森に入って。死にそうな目にもあった。疲れていないはずがない。


「……リュージ」


 安らかな寝顔が俺の中の邪気を祓った。


 俺は安堵の溜息をつくと、ドネートを起こさないようにそっと起き上がり、外の共有便所で賢者になってからドネートの隣で寝直した。

 

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