涙味の口付けと約束(縁side)

 母からの転校の話を聞かされて、縁は数日間母と口を聞かなくなったが、少しだけ冷静さを取り戻すと、母に無視したことを謝り、話を受け止めた。


 父が亡くなってからずっと自分の養う為に男の人にも負けないくらい働いてくれた母。


 意地悪をしたくて転校の話をした訳がないと言うのに、優しい母を無視をするなんてまだまだ子どもだと反省した。


 この生まれ育った家は春には空き家になるのかと思われたが、医学部に通う母方の従兄に貸すのだと母が教えてくれた。


「縁、本当にごめんね? 依人くんや鈴子ちゃんと離れ離れにさせるなんて酷だと思ってる」


 荷物をまとめていると、母は眉を下げて申し訳なさそうに縁に謝った。


「気にしないで。あたしはもう大丈夫だから。お母さんについていって支えるよ。それに、北海道は初めてだから今は新しい生活が楽しみなの」


 本当は今でもこの街に残りたいと切実に願っているが、縁はこれ以上母を困らせたくなくて本音を押し殺し、笑顔を貼り付けた。


「お仕事ない日は一緒に美味しいものを食べに行こうねっ」

「……そうね」


 母は縁の髪を撫でながら笑顔で頷いた。


(先輩、遠距離になるって知ったらなんて言うかな……)


 縁の心に植え付けられた不安の種は、芽吹いて日々大きく育っていった――――




 時は流れて、バレンタインデーの前日になった。


 今年のバレンタインデーは日曜日と重なり、縁はその日依人とデートをすることとなった。


 前日のこの日、学校が終わると、自宅のキッチンで鈴子とお菓子作りに勤しんでいた。


「縁、先輩には話をしたの?」


 オーブンでブラウニーを焼いている時、鈴子は神妙な顔で縁に尋ねた。


 鈴子には転校の話を聞かされた翌日に打ち明けた。

 正確には腫れぼったい瞼に目敏く気付き問い質されたのだが。


 依人にはまだ打ち明けられずにいた。

 不幸中の幸いか、依人は自動車の運転免許を取りに自動車学校に通い始めたので、顔を合わせることはなく、まだ縁の様子に気付いていない。


「明日話すよ。いつまでも隠せないから」


 縁はにこりと微笑んだが、鈴子はその笑顔が気に食わなかったのか頬を抓った。

 手加減なしの痛さに思わず眉を寄せてしまう。


「いひゃいっ」

「あたしの前で無理して笑わなくていいわよ。本当は泣きたいんでしょ?」

「鈴子……」


 縁から次第に笑顔は消え失せ、水道の蛇口を捻ったように大きな瞳かはボロボロと涙が溢れ出した。

「うっ、ひっく……怖いよ……っ」


 ここ数日、縁は不安しかなかった。


 スマートフォンで遠距離恋愛について検索をしたら、破局したケースばかりがごろごろと出てきた。


 どう足掻いても、距離が離れてしまうと寄り添っていた心も離れてしまうのか。

 依人の中から自分がいなくなってしまう日が来てしまうのか。


(先輩がほかの人を好きになるなんて、想像するだけで胸が痛い)


 胸が張り裂けそうになり、夜は中々眠れなかった。


 縁は鈴子に抱き着いて、ただただ静かに嗚咽を零し続けた。




 キッチンに甘い匂いが漂いだした頃、縁の涙腺は落ち着きを取り戻した。


「落ち着いた?」


 鈴子は優しく微笑みながら、ハンカチで目尻に溜まった涙を拭い取る。


「うん……ありがとう」


 縁は泣き腫らした目を恥ずかしげに伏せてお礼を言った。


「こんなに腫らして……今まで独りで泣いていたんでしょ」

「うん……最初お母さんを無視しちゃったから、これ以上泣いて困らせちゃいけないって無理して笑ってたの」

「あたしがいる時は無理しなくていいわよ。受け止めてあげるから」

「ふふっ、鈴子ったら男前」

「嬉しくない褒め言葉」


 鈴子は口ではそう返していたが、笑みが零れていた。


(鈴子、あたしの友達でいてくれてありがとう。本当に感謝してもし足りないよ)


「ありがとう、鈴子」


 縁は鈴子に心から強く感謝した。




 オーブンから焼き上がりを知らせるアラームが鳴り出す。


 ミトンをはめて、オーブンを開けると、甘いチョコレートの香りが鼻をくすぐった。


「どう?」


 オーブンの中を覗き込む鈴子に、縁は親指をぐっと立てた。


 竹串で生焼けがないかを確認した後、二人は試食と称したティータイムを始めた。


「美味しい」

「これなら渡せるわね」


 口に入れると、程よい甘さと苦さと、中に入っているくるみの香ばしさが広がった。


 出来栄えは自画自賛してしまうほど成功した。


 試食を終えると、粗熱が取れたブラウニーをラッピングをし、チョコレート作りは終了した。


「頑張ってね」

「鈴子もねっ」


 二人はお互い健闘を祈りながら、バイバイと別れた。

 翌朝、二月十四日……デートの日がやって来た。


「眠れなかった……」


 昨夜、転校の話をしなければいけないと思うと、眠気がやって来ず、ベッドの上でグダグダとやり過ごしていた。

 あまり眠っていないせいで、洗面台の鏡に映る顔は紙のように白かった。


(病人ですか? 折角先輩に会えるのにこの顔は酷いです)


 縁は少しでも顔色をよくしようと、蒸しタオルを用意して顔に乗せた。


「これなら分からないよね?」


 その後にメイクを施して、何とか顔色の悪さは隠すことが出来た。

 パジャマから膝下の裾がふんわりしたスカートとクルーネックのグレーのニットに着替えると、リビングへ場所を移してソファーに座って依人が来るのを待った。


 九時に差し掛かろうとした頃、インターホンが鳴り出し、そわそわしていた縁は勢いよく立ち上がった。

 鞄を引っ掴んで玄関のドアを開けると、そこには柔和な笑みを浮かべる依人がいた。


「おはよう」


 ぎゅっと締め付けられる胸を押さえながら、縁も釣られるように満面の笑みを浮べた。


「おはようございますっ」


 五センチヒールの茶色のショートブーツを履いて、依人の元へ近寄ると、コートの裾を掴んだ。


「行こうか」


 依人は裾を掴んでいた縁の手を取り、指を絡ませた。


「はい」


(こうやって手を繋ぐことが、もうすぐ出来なくなるんだね……)


 縁は無性に寂しさを感じ、縋るようにしっかりと依人の手を握り返した。


 今日は映画を観に行くことになり、街中にある映画館へ向かうべく電車に乗り込んだ。

 休日なのか、電車内は座る場所がないほど混み合っている。縁達と同じようなカップルもちらほら見られる。


「先輩、吊革ありますよ」


 ドア付近に一つだけ誰も掴んでいない吊革があった。

 それは縁が真っ直ぐ腕を伸ばしてようやく掴めるほどの高い位置ある。


「じゃあ、縁は俺に掴まっててね」


 依人は左手で吊革を掴むと、空いた右手で縁を引き寄せた。


(わわっ……近いよっ。それに先輩いい匂いがする)


 沢山の人がいる中で密着するのは、縁には刺激が強過ぎた。


「先輩、大丈夫です……きゃっ」


 縁は少し距離を置いてコートの裾を掴んでみたが、また引き寄せられて依人との距離が再びゼロになった。


「転ぶからちゃんと掴まってなさい」

「は、はい……」


 縁は頷くと、上気した頬を隠すようにしがみついた。


(あたしって変態かな……先輩の命令口調にドキドキしてる)


 電車が発車してから目的の駅まで人口密度は変わらず、二人はゼロの密着した距離のままだった。

 映画館は目的の駅直通のファッションビルにあり、エレベーターに乗って映画館のフロアへ向かった。


 この日バレンタインデーと言うこともあり、上映するものは、少女漫画の実写化が占められている。しかし、目当ての映画は有名な推理小説を原作としたシリーズものだった。


 縁は映画はあまり見ないのだが、依人が「縁が好きそうな映画が上映されるよ」と教えてくれたのだ。


 原作にあったおぞましい殺人現場がどう描かれるのか、気になっていたりする。


(これが恋愛小説の世界なら、デートでロマンチックな恋愛映画を選ぶべきだけど、一緒に楽しめれば結果オーライだよね)


 花の女子高生が血みどろの殺人事件を描いた小説を好んで読むのは、ドン引きされても仕方ない気がするが、依人は縁の本の好みも受け入れてくれた。

 本当に勿体ないくらいの出来た彼氏だな……と縁はしみじみ思った。


 上映まで時間があったので飲み物を買いに列に並んだのだが、周囲にいる数多の女子の熱い視線が依人に注がれていることに気付くと、縁は居心地悪そうに顔を俯かせた。


「ねえねえ、あの人見て」

「わぁ、かっこいい……!」

「大人っぽくて素敵」


(どこに行っても、先輩は沢山の女の子を惹き付ける。大学生になったら高校の頃以上にモテちゃうよ)


 色めき立つ周囲に、縁は誰にも気付かれないようにため息をついた。




 お目当ての映画は原作を知っていても楽しめた。

 配役は小説からぬけだして来たかのようにぴったりで、映画という形で視覚化することで新鮮な気持ちで観ることが出来た。


「面白かったですね」

「まさか、犯人が主人公とは思わなかったよ。俺、従兄弟が犯人かと思ったよ」

「やっぱり思いますよね。あたしも初めて読んだ時思いました」

「主人公が犯人って他にあるの?」

「割とありますよ。作品名を挙げるとネタバレになるので敢えて教えません」

「そっか、色々読んで探してみるよ」


 二人はファッションビルを後にして、映画の感想を語り合いながら大通りを歩いていた。


「縁に楽しんで貰えてよかったよ。また、映画観に行こうね」


 依人はそう言って甘く破顔させた。


 縁は息苦しさを覚え、表情を隠すように俯くと悲しげに目を伏せた。


(その“また”はもう来ないんです……)


「……はい。行きましょうね」


 縁はまだ依人に打ち明けることが出来ず、俯いた顔を上げると曖昧に微笑みながら頷いた。


「お昼ここにする?」

「そうですね」


 途中、お昼時にも関わらず行列が短いカフェを見つけ、そこでお昼を摂ろうと最後尾に並ぶことにした。

 十五分後。ようやく店員に席を案内されて、腰を降ろすことが出来た。


「寒かったね」

「はい、やっと生き返りました」


 外の凍える寒さで感覚を失いかけた指先は、店内で焚かれているレトロな石油ストーブの暖かさのお陰でで血が通い出したような気がした。


 二人はメニューを広げて、何を食べようかと眺める。


「あたしはきのこドリアにします」

「俺も決まったから、店員さん呼ぶね」


 依人は店員を呼んで、縁のきのこドリアと自分が食べるガレットを頼んだ。


「自動車学校どうですか?」


 食事をしながら縁は依人に問いかけた。


「まだ仮免許が取れていないから、今は校内のコースしか走れないんだけど、最初よりはだいぶ慣れたよ」


 縁達の通う高校は、進路が決まって初めて自動車学校に通うことが許される。十六歳から取得出来る原付や自動二輪も進路が決まらないと通うことが出来ない。

 依人も大学進学が決まってすぐに通い出したのだ。


(先輩が大人になっていく。大学生って未成年でもお酒を飲む機会が出てくるんでしょ? なんだか、置いてきぼり食らったみたい……なんて自己中なんだろ、あたし)


 表は笑顔で話に耳を傾けていたが、心の中で自分勝手な考えをした自身に突っ込みをいれた。


「あれ……桜宮くん?」


 お喋りに花を咲かせていた二人の元に、一人の女の子が近付いてきた。


 二人はその声のする方へ顔を向けたが、縁は彼女の顔を目にした途端、驚きのあまり見張った。


(え、すっごい美人さん!)


 綺麗に染められた長い茶髪をハーフアップにし、メイクも上品に施されているが、素顔も美人だと思わせるほど整った造形をしている。

 肩出しのニットを着ているのだが、彼女が着ると下品には見えず雑誌から抜け出したモデルのように色っぽかった。


「あの」


 依人は「誰ですか?」と言いたげに、躊躇いがちに首を傾げると、彼女は目を細めて破顔した。


「ふふ。やだ、ちょっと変わったくらいで元カノの顔、忘れちゃったの? 高梨弥生(たかなし やよい)だよ」


(先輩の元カノ……)


 元カノと判明した瞬間、縁は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。


「久しぶり。高梨さん。中学の卒業式以来だね。あの頃と見た目が違うからすぐに気付かなかったよ」

「思い出してくれてよかったぁ。あ、この子もしかして桜宮くんの彼女?」


 弥生はちらりと縁に視線を向けた。


「そうだよ。佐藤縁さん。同じ学校の後輩で、七月から付き合っている」

「はじめまして。佐藤……縁です」


(うざいと思われるのが怖くて聞けなかったけど、やっぱり先輩は過去に付き合っていた人がいたのね)


 胸の中にもやもやが出てくるのを自覚しながらも、縁は弥生に挨拶をした。

 おずおずと弥生の顔を見つめると、弥生は「縁ちゃんね」と呟き、ふわりと微笑みかけた。


「すっごく可愛い……! 白雪姫みたい」

「と、とんでもないです」


(あたしには、勿体なさすぎる言葉だ……!)


 過去に読んだ漫画や恋愛小説では、元カノは主人公に敵意を剥き出しにしていたが、にこやかに対応されるとどう反応すればいいのか分からずにいた。


 戸惑ってしまい、縁はそれきりだんまりを決めてしまった。


「そっかぁ。桜宮くんも見つけたんだね」

「何を?」


 依人が聞き返すと、弥生は少し座っている依人の目線に合わせて屈むと、耳元に口を寄せて、何か囁いた。


「っ」


 すると、依人の頬が次第に赤らんでいき、それを目の当たりにした縁は息が詰まるほどの胸の締め付けを感じた。


(なんで、元カノ、弥生さんに頬を染めるの!?)


 嫉妬と言う真っ黒な感情が湧き水のように溢れ出していく。


 望まない結末が頭を過ぎり、縁は泣きたくなったが、唇を噛み締めて堪えた。

 それでも一度緩んだ涙腺は、落ち着く様子を見せず、縁はガタリと音を立てて立ち上がった。


「先輩、母から連絡があったので外で電話してきます」


 息継ぎなしで言い捨てると、縁は依人顔を見ずスマートフォンを手にそそくさと店を出ていった。


 店を出て通行人の邪魔にならぬように壁際にもたれ掛かる。


 縁の瞳からじわりと涙が浮かび上がり、零れ落ちぬように顔を上げて限界まで目を見張った。


(やだ、やだよ……あたしがいなくなったら、先輩はいつか弥生さんとよりを戻しちゃうのかな)


「はぁ……」


 嗚咽の代わりに溜息をつくと、白く染まって瞬く間に消えた。


 縁は曇って灰色になった空を眺めながら、心の中で整理を始めた。


(もし、いつか先輩の気持ちが弥生さんに傾いたら、 嫌だけど、受け止めるしかないよね……)


 本当はずっと自分だけを見ていて欲しいけれど、大好きな人には幸せになって欲しいのだ。


 しかし、今すぐに別れを告げて手放せるほど割り切れていないのも事実。

 その時が来るまでは、独り占めをして、愛し愛されていたい。


 そんな自分が狡くて、縁は情けないなと思った。


「決めた……」


 縁の中で一つの決意が固まった。


(本当はまだ怖い。でも、先輩ならいいの)


 浮かび上がった涙を拭うと、店の中に入り、笑顔で依人の元へ向かったのだった。



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