ぜったい、離れません

 一月下旬の週末。


 この日は大学の内部試験だった。


 内部進学と聞くと、楽そうだと言う印象を持つ者が多いが、この学校だけは例外的に難しいことで有名だ。


 三年生の依人にとって今日はまさに勝負の日だ。


 朝の七時半。縁は自室からスマートフォンで依人に電話をかけた。

 依人に試験前に縁の声が聞きたいと、電話をお願いされたのだ。


 縁が受験をする訳ではないのに、鼓動がうるさいくらい早鐘のように打ち続けている。

 下手をすれば当の本人より緊張しているかもしれない。


「もしもし?」


 数コール鳴らした後、依人の声が耳に入った。


「おはようございます」

「おはよう、縁」

「先輩、昨日は、よく眠れましたか?」


 そんなことを聞く本人が一睡も出来なかったのは、依人には秘密だ。


「うん。いつも通りの時間に寝たよ」


 そう答える依人の声はいつもと変わらないように聞こえた。


「あの、試験頑張ってくださいね。先輩ならきっと大丈夫です」

「ありがとう。縁の声聞いたらやる気出てきたよ」

「いえ……微力ですが応援してます」

「それなら尚更頑張らなきゃね。じゃあ、そろそろ学校に行くから切るね」

「はい」


 その通話は三分にも満たない短いものだった。

 これで依人の力になれるのだろうか。


 通話を切った後、縁はベッドの上に座って、窓を開けた。


 身震いするほどの冷たい風が容赦なく吹き付けてきた。

 それでも寒さに堪えながら、ぼんやりと窓から見える景色を眺めた。


(先輩、頑張ってください……)


 縁は胸の前で手を組み、祈るように心の中で依人を応援した――――





 試験から数日後、この日は三年生が登校する日なのだが、依人から音沙汰は無かった。


 授業が始まる前、縁は二回ラインで依人宛にメッセージを送ってみたのだが、午前の授業が終わっても返事はおろか既読すら付かなかった。


(先輩どうしたの? まさか……)


 縁はネガティブなケースを思い起こしかけ、かぶりを振って必死に打ち消していく。


 今日は試験の合否が分かるのだ。


(こんなことなかったから、心配だよ……)


 昼休み、縁は自分の席で悶々と考えていると、


「縁っ」

「ひぇっ!」


 突然、後ろから突進するようにぎゅっと抱き着かれた。


 振り向くと、そこには白のランチトートを手にする鈴子がいた。


「もう、びっくりしたよ」

「ごめんって……縁、朝から浮かない顔してどうかしたの?」

「あの、先輩から――」


 縁が鈴子に話そうとした矢先、手に持っていたスマートフォンが静かに震えた。


 通知にはラインのメッセージの受信の知らせがあった。


 画面に指を滑らせてアプリを起動させる。


 メッセージの送り主は依人だった。


“返事すぐに返せなくてごめんね。昨日から風邪を引いて今はだいぶ熱は下がったけど、移すといけないから休んでる。ちなみに試験は無事受かりました”


 メッセージを読むと、縁が思っているより依人は気を張っていたのかなと思った。


「先輩からなんて来たの?」

「風邪を引いたから休んだって。あと、試験受かっていたって……!」

「流石ねぇ……今日お見舞いに行くの?」

「うん。放課後になったら行こうかな…… 来てって頼まれてないけど、心配だもん」


 本当は学校をサボって行きたいくらいだが、この進学校で学校をサボるのは不真面目な生徒のする行いと言う認識が強い。


「その方がいいかもね。桜宮先輩って縁の話を聞く限り食に無頓着っぽいし。風邪の時食べなさそうなイメージがあるわ」

「それが心配なんだよね……一応、聞いてみる」


 縁はスマートフォンを操作し、依人宛にメッセージを作成した。


“合格おめでとうございます! 受験で疲れが溜まっていたんですよ。ゆっくり休んでください。放課後、迷惑じゃなかったらお見舞いに行ってもいいですか?”


(こういう時、彼女はどう行動したらいいんだろ? あんまりメールとか送らずにそっとした方がいいのかな?)


 送信した後、縁はそわそわした。


 送ってから数分後、依人から返事が来た。


“放課後、俺の家に来て? 縁の顔を見たら元気になりそうな気がする”


「っ!」


 びっくりしてスマートフォンを落としそうになった。


 風邪を引いても依人の甘さは通常運転であった。

 放課後、帰り道にある大型のスーパーで買い物をしてから、依人の自宅へ向かった。


 向かう途中、依人にもうすぐ着くことをラインで知らせると、待っていることと、念のためマスクを着けてと言う返事が来た。


 マンションのエントランスに足を踏み入ると、縁はマスクを着けてエレベーターホールへ向かった。


「来てくれてありがとう」


 縁を出迎えた依人は、スポーツブランドの黒のパーカーに同色のスウェットのズボン、縁と同じようにマスクを着けていた。


 マスクで顔が半分隠れても、整った顔立ちは隠し切れていなかった。


「先輩、歩いて大丈夫ですか?」


 縁は、病人なのに歩かせたことに申し訳なくなった。


「大丈夫だよ。今はほぼ平熱よりの微熱だからね。昨日の方が酷かったかな」

「……良くなりつつあるんですね。でも、身体を冷やすといけないからベッドに戻ってくださいっ」


 縁はぐいっと依人を押して、ベッドのある部屋に戻るよう促した。


 依人がベッドに入るのを見届けると、


「先輩、喉は渇いていますか? スポドリ買ってきたんです」


 縁は袋から一・五リットルのペットボトルを取り出した。

 袋の中には他に冷却シートやゼリー飲料、スムージー状の野菜ジュース、一人分のうどん麺が入っている。


「ありがとう。コップ好きなの使っていいから入れて貰えるかな?」

「分かりました」


 縁は袋を提げてキッチンへ向かった。


 スポーツドリンクを注ぐ前に、食料を冷蔵庫に入れようとしたのだが、中は見事に空っぽだった。

 あるとするなら二リットルのミネラルウォーターと、六個入りの卵のパック、箱を開けていない生姜のチューブくらい。


(先輩……ご飯食べたの? 後でうどん作ろうかな。その前にキッチンを借りていいか聞かなきゃね)


 縁は頭の中でそんなことを考えながら、食器棚から白のマグカップを取り出し、スポーツドリンクを注いだ。

「お待たせしましたっ」

「ありがとう」


 縁は依人にマグカップを渡すと、ベッドの傍で正座をした。


「ふふ、足崩してもいいよ」

「あ、はい」


 依人はマグカップを両手で持ったまま、小さな笑いを零したので、縁は言われるがままに足を崩してお姉さん座りをした。



「あの、改めて言いますけど、合格おめでとうございます!」

「ありがとう。縁の電話のお陰かな」

「いえっ、先輩がこれまで頑張ってきた成果ですよ」


 縁は照れ笑いをしながら、小さくかぶりを振った。


「でも、縁の声を聞いてから不思議と落ち着けたのは本当なんだよ」

「そ、そうなんですか……?」


(先輩、緊張していたの?)


 首を傾げる縁に、依人は優しく微笑みかけていた。

 マスクで隠れていても、依人の表情の変化が分かる。


「実感したよ。俺には縁が必要なんだって」

「えっ」


 前触れなく放たれた甘い発言に、縁は驚き目を見張った。

 白い頬が瞬く間に赤く染まり、マスクが無ければ縁の方が熱があるのではと見えるだろう。


(マスクしてて良かった……ほっぺたが赤いのバレずに済むから)


 手のひらで頬を覆い隠し、大きな瞳を伏せた。


「……春なんて、来なければいいのに」

「な、何言っているんですか? 会ってない間に何かあったんですか?」


 突然、依人の口からネガティブな言葉が出るとは思わず、縁は動揺を露わにしてしまった。


 そんな縁を安心させるように、依人はごめん、と呟いた。


「何もないよ? ただ、俺が大学生になったら、俺がいない隙に縁を狙う奴が増えちゃうなぁって思ったんだ」

「そんな、あたしを狙う物好きなんていませんよ」


 十六年間生きてきて、告白を受けたのは依人と井坂の二人だけ。

 縁は“モテる”とは無縁だと思っている。


「本当に無自覚だね」


 依人はベッドのふちまで身を寄せると、縁の肩に腕を回した。


「先輩っ……」


 近くなった距離に、縁は慌てふためく。


「縁はとても可愛い女の子なんだよ? だから少しは警戒心を持って欲しい」


 依人の額が縁の額と触れ合った。


 キスが出来そうな至近距離は、縁の鼓動を暴れさせた。


「その顔、反則だって……キスしたいけど、我慢しなきゃね?」

「……っ」


 縁に囁いた声は、風邪のせいで少し掠れていたが、色気があって縁はクラクラと目眩がした。


「先輩こそ、自分の格好よさを自覚してくださいっ。大学に行ったら、綺麗なお姉さんがたくさんいるから、今以上にモテるのが想像出来ます!」


 縁は必死に抗議するが、依人はそんな縁を微笑ましげに見つめながら髪を撫でた。


「ヤキモチ?」

「……っ」

 その時、縁の鼓動がトクンと跳ね上がった。


 同学年の女子ですら大人っぽい子が多いと言うのに、大学は年上の魅力的な女性が大勢いる。

 依人が計らずとも、蝶が花の蜜を求めるように、沢山の女の子が群がっていくのが容易に想像出来てしまう。


(自覚がない、なんてそっくりそのまま返してやりたいです。先輩はとても格好いいから)


「っ、そうですよ」


 縁は半ばヤケ気味になって頷いた。


「縁――――」


 依人が耳元に顔を近付けると、内緒話をするようなボリュームで囁いた。


「〜っ!」


 縁は勢いよくベッドに突っ伏して顔を埋めた。


“――――もっと妬いて、頭の中俺でいっぱいになって”


 囁かれた言葉が縁の中で何度も反芻した。




「先輩、食欲はありますか?」


 しばらくして平静を取り戻した頃、縁は依人に尋ねた。


「昨日よりはあるよ。少しお腹空いたかな」


(よかった……!)


 縁は依人の返事に安堵の息をついた。


「キッチンを借りてもいいなら、温かいうどんを作ります」

「いいよ。縁の手料理は久し振りだから楽しみだな」

「卵も使ってもいいですか?」

「いいよ、使って」

「じゃあ、早速作ってきますねっ。すぐにできるので待っててください」


 縁は依人の部屋を後にして、キッチンへ向かった。



「お待たせしました」


 十数分後、縁は、作ったうどんの入った器と温かいほうじ茶が注がれた湯呑をお盆に乗せて部屋に戻ってきた。


「美味しそうだね」


 依人がベッドから降りると同時に、うどんをガラスのテーブルの上に置いた。


 優しい出汁の香りが漂う。

 とじた玉子はふわふわとしており、素朴な出来映えだ。


「火傷に気を付けてくださいね」


 何度か弁当を作ったことがあるが、依人に料理を振る舞う時は、口に合うか毎回緊張してしまう。


「了解。いただきます」


 依人は腰を下ろし、両手を合わせると、うどんを食べ始めた。


「美味しいよ」

「よかったです」


 依人の箸は止まることなく、あっという間に器は空っぽになった。


「ごちそうさまでした」

「お粗末さまです」


 縁は器をキッチンへ運び、洗うと、薬を飲む為にグラスにミネラルウォーターを注いだ。


「先輩、お水です。お薬飲んでくださいね」


 グラスを依人の前に置いたものの、依人は一向に薬を飲もうとはしなかった。


「……後で飲むよ」


 目を泳がせてそんなことを言う依人の様子を見て、流石に鈍い縁でも勘づいた。


「ひょっとして、お薬が苦手なんですか?」


 縁の指摘に依人はぐうの音も出ないのか、観念したかのように無言で小さく頷いた。


「錠剤は平気だけど、処方されたのが粉で……粉は苦いから」

「無糖のコーヒーも苦いですよ」

「うん、苦さの種類が違うんだよ」


 しどろもどろになる依人は、学校では絶対見かけないほど貴重だ。

 小さな子どもみたいで、縁の中の母性本能がくすぐられた。


(本人に言えないけど、今の先輩が可愛く見えちゃうな)


 縁は堪え切れなくなって、くすくすと小さな声で笑った。

「笑わないの」


 依人は手を伸ばして縁の頬を摘むが、かなり手加減しているのか全く痛みはない。


「ごめん、なさい。ふふっ」


 縁はそんな少しムキになる依人が可愛くて、愛おしくて、また目を細めて笑い続けた。


(どんな一面を見ても好きだな……でもあたしは鬼になるよ!)


「先輩、我慢してお薬飲んでください」

「どうしても、だめ?」


 そう言って縁を窺うように見る依人は、まるで母親からお叱りを受けた子どものようだ。

 そんな姿も可愛くてなんでも言うことを聞きたくなるが、そこはぐっと堪える。


「あたしは早く先輩が元気になって欲しいんです。だから、お薬飲んでください。それでも嫌って言うなら……き、キスお預けしちゃいますよ?」


 咄嗟に思い付いたことを言うと、依人はメデューサに石にされたように固まった。


「先輩?」


 縁は手のひらをひらひらさせて、遠くに行った意識を呼び戻すと、依人はようやく我に返った。


「今から飲むから、お預けは取り消してくれないかな?」

「先輩がちゃんと飲むところを見届けたら、取り消しますよ!」


 依人は立ち上がると勉強用の机に無造作に置かれてある、処方された薬を取りに行った。


(やったぁっ)


 縁は右の拳をぐっと握り締め、心の中でガッツポーズを取った。


 依人はむせないように細心の注意を払い、粉薬を一気に口に入れると、水を流し込むように飲んだ。


「苦い……」


 余程苦手なのか、依人は眉を寄せきつく瞼を閉じては苦さを堪えていた。


「よく頑張りました」


 縁は手を伸ばして、依人の頭を何度も撫でた。

 サラサラとした感触が心地よくて、思わず目を細めた。


「縁、完全に俺のこと子ども扱いしてるでしょ」

「まさかっ、先輩のこと可愛いなんて思ってません……あっ」


 咄嗟に手でマスク越しに口元を抑えたが、もう手遅れで、可愛い発言は本人の耳に届いてしまった。


「縁、今俺のこと……」

「なんでもないです……ひゃっ」


 縁は少しずつ依人から逃れるように距離を置こうとしたが、すらりと伸びた腕に捕えられてしまった。


「先輩、」


 体格差のせいで呆気なく引き寄せられ、胡座をかいた足の上に乗せられる。お腹辺りに腕を回してぎゅっと抱き締められた。


「あまり、男に“可愛い”なんて言っちゃだめだよ」

「うぅ、すみません」


(……調子に乗り過ぎました)


 依人の声音は怒っている感じはなく、小さな子どもを諭すような優しい感じだったが、縁は内心反省しながらしゅんと項垂れた。


 動物の耳が付いていたら、垂れ下がっているだろう。


 膝を抱えていると、頭上からくすりと小さな笑い声が聞こえた。


「別に怒ってないから落ち込まないで」


 依人は穏やかで優しい笑みを縁に向けてくれた。


「先輩……」


(先輩は器が大きいです)


 縁は心の中でじーんと感動していたのだが、


「ただし、風邪が治ったら、縁にすごいキスするから覚悟してて?」

「〜っ」


 耳元でいたずらっ子みたいな口調で囁かれる依人の言葉は、縁を瞬時に茹でダコにさせた。


(もう先輩に可愛いなんて言わない!)

 あれから依人は、薬の副作用のせいで寝ぼけ眼になり、ベッドに戻るや否やすぐに眠りについた。


 縁は傍で静かに見守っていた。


(熱は先輩の言う通りあまりないね。よかった)


 そっと手のひらを額に乗せると、あまり熱くなかった。


(先輩の寝顔を見るの、クリスマスの朝以来かも……本当に羨ましいくらい綺麗な顔だ)


 睫毛の長さといい、滑らかな肌といい、依人は女子が羨む要素を持っている。


 縁はスマートフォンのカメラに収めたい衝動を抑え、心のアルバムに依人の寝顔を焼き付けたのだった。



「そろそろ帰ろうかな」


 スマートフォンの電源をつけると、画面の時刻は夕方の六時過ぎに差し掛かっていた。

 そろそろ帰って、夕飯の支度をしなければいけないのだ。


「早く元気になってくださいね」


 帰る支度を済ませると、縁は小さな声で依人にそう呟いてから後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。


 玄関でローファーを履き替えて、ドアを開けようと取っ手を握る。


 その時、後ろから足音が聞こえた。


 振り向かなくても足音の主は、依人だと分かった。


「先輩、起こし――――」


 起こしました? という声は出なくなった。


 前触れもなく手首を引かれ、腕の中に閉じ込められたから。


 息苦しくなるほどきつく抱き締められて、縁は驚きのあまり目を丸くさせたまま固まっていた。


「急にごめん。ちょっと嫌な夢を見ちゃって」

「大丈夫ですよ。どんな夢を見てしまったんですか? 嫌な夢は人に話すといいらしいですよ」


 縁は背中に腕を回すと、片方の手で背中をぽんと優しく撫でてやった。


 不思議と冷静に対処出来た。

 おそらく、依人を安心させなきゃ、という気持ちが強かったのだと思う。


 しばらく背中を撫でて宥めていると、依人は歯切れ悪そうだが、夢の内容を打ち明けてくれた。


「……縁が他に好きな人が出来たって俺を振る夢、見てしまったんだ」


 声が少し震えていた。


 縁はぎゅっと抱き締め返しては、依人の胸に顔を埋めた。


「それは絶対正夢になりません。だって、あたしは先輩のことが大好きで、あたしが先輩から離れるなんて有り得ませんから」

「縁……」

「絶対、離れません。先輩に振られるまでは傍にいます」

「それならずっと一緒だね。俺も縁を離す気はさらさらないよ」


 二人は無言のまま見つめ合っていた。そして、口付け代わりにお互いの額を重ね合わせた。


「好き、です」

「俺も縁が好きだよ」




「ただいま」


 六時半過ぎ。縁は自宅に着くと、玄関に母のパンプスが並んでいることに気付く。


(この時間に帰ってくるなんて珍しいなぁ)


 縁はそう思いながら、靴を揃えて、リビングへ向かった。


 リビングに入ると、ソファーに座っている母がいて、縁に気付くと「おかえり」と微笑みかけた。


「依人くんとデートしてきたの?」

「ううん、風邪ひいていたからお見舞いに行ってたの」

「そうなの?」

「でも、今は熱はほとんどなかったから大丈夫だよ」

「よかったわね」

「遅くなってごめんんね。今からご飯作るから待っててね」


 縁は慌ててキッチンへ駆け込もうとしたが、母に呼び止められた。


「縁、その前にこっちに座って?」


 母はソファーの自分の隣のスペースをぽんと叩いて座るように促した。


「なぁに?」


(お母さん凄く真剣な顔だ……職場で何かあったのかな)


 どうしたんだろう、と疑問に思いつつ、母に従って隣に座る。


 母は縁が話を聞く姿勢になるのを見ると、話を始めた。


「お母さんね、来年度から支店長に昇進することになったの」

「そうなんだ。おめでとうっ」


(いい話でよかったぁ……)


 思いがけない朗報に、縁の表情は綻んでいった。


「お祝いしなきゃね。明日お母さんの好きなもの沢山作るからね」


 明日買い物に行かなきゃ、と縁はお祝いモードに入っていたが、母の顔は縁とは逆に暗くなっていく。


「話はまだ、あるの……」

「話って?」


 歯切れが悪そうな母に、縁は呑気そうに首を傾げた。


(もしかして、お付き合いしている人がいるとか? 別にあたしに変な気遣わなくてもいいのに)


 しかし、母の話は縁が予想していたものとは違った。


「あのね――――」


 母が話を進める毎に、縁の表情に翳りが色濃く現れる。


(うそ、でしょ……)


 どうか単なる夢であって欲しい。

 縁は心の中で切実に願ったが、非情にもそれは現実だった。


「縁!」


 気付けば、逃げるようにリビングから抜け出し、階段を駆け上がっていた。


 自室に入るとすぐにドアの鍵を掛けて、電気を点けずにベッドに潜り込む。


「縁、開けて!」


 ドアのノック音と、母の声が聞こえたが、拒絶するように芋虫みたいに布団にくるまった。


「うっ、えっ、っく……やだぁぁ」


 嗚咽が抑えられず、子どもみたいに泣きじゃくってしまう。


「ごめんね? 本当にごめんね」


 ドアの向こうにいる母は何度も縁に謝っていたが、縁の耳に入ってくることはなかった。


(やだ……先輩と、離れたくないよぉ……)


“昇進と同時に札幌の転勤も決まったの。縁には転校してもらわないといけないの――――”


 何度も脳内にで繰り返されるのは、死刑宣告にも似た母からの残酷な言葉。




 依人と離れ離れになる日が刻一刻と迫っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る