俺のことだけ考えていて?

 週に二、三日の昼休みは、依人と過ごしていた。


 縁は毎回その昼休みを心待ちにしていたが、今日だけは依人の顔を見る度に罪悪感に駆られていた。


「どうしたの?」


 お昼を食べている時、不意に依人に声を掛けられて、縁の肩がビクッと大きく震えた。


「いえ、その玉子焼き、お口に合うかなって気になって……」

「心配しなくても、いつも通り美味しいよ」

「それならよかったですっ」


 縁は慌てて笑顔で取り繕ったが、心の中にある罪悪感は肥大する一方。


(先輩、ごめんなさい……)


 縁がそんな心境になった理由は、数時間前のホームルーム前まで遡る――――




 縁はいつもより三十分早く登校した。


 昨日の放課後、縁の靴箱に手紙がローファーの上に置かれており、


“明日の七時半、大事な話があるので中庭で待っています”


 とだけ真っ白な無地の便箋に書かれていたのだ。


(話って何だろう……)


 送り主の名は書かれていなかったので、縁は緊張しながら指定された中庭へ向かった。


 教室棟と部室棟の間にある中庭は樹齢数百年あると合われる桜の大樹が真ん中に鎮座している。

 入学したての頃、満開の桜を初めて見かけた時は圧倒された。


 中庭に到着すると、その桜の樹の下で一人の男子生徒が佇んでいた。


 背丈は鈴子と依人の中間、170半ばほどの長身。

 この進学校では珍しいミルクティー色の明る目のミディアムの髪は、ワックスで遊ばせており、お洒落な印象を受ける。


 この男子が手紙の送り主だろうか。

 縁は恐る恐る彼の元へ近付いた。


「あの……」

「佐藤さん、来てくれてありがとう」

「ひゃっ」


 彼はいきなり縁の両手を掴んだ。


(な、何……?)


 突然のことに縁はおろおろするしか出来なかった。


「オレのこと知らないみたいだねー。E組の井坂いさかって言うんだぁ。覚えといてね?」


(見た目が大人っぽいから上級生かと思ったよ)


「井坂……くん、話って何かな?」


 尋ねてみるが、井坂は何も答えようとはせず、ただ縁の顔を凝視するだけ。


 射抜くような視線にいたたまれなくなり、逃れるように目を伏せていると、今度は肩を掴まれた。


「ひゃっ」


(痛いよ……)


 逃れようと身をよじったが、耳元で囁かれた井坂の言葉を聞いた途端、金縛りに遭ったように動けなくなった。


「――オレね、佐藤さんのことが好きなんだ」

 思いも寄らぬ告白に縁は驚きを隠せず目を見張った。


(どうしてあたし? 言葉を交わしたのは今が初めてなのに……)


「佐藤さん、なんで? って顔してるね」

「えっ」

「結構分かりやすいよ。顔に出やすいみたいだね。ふふ」


 井坂は目を細め、声に出して笑った。

 それに対して縁は顔を俯かせ、小さく縮こまった。


「好きになった理由はね……佐藤さんがオレの好みだからだよ」

「へ……?」

「可愛くて真っ白な感じがいいんだよね。オレの色に染めたくなる」


(なんだろ……この嫌悪感……)


 縁は井坂の言っていることを理解出来なかったが、本能が、彼が危険だと訴えかけていることを自覚した。


「オレの彼女になってくれない?」

「ご、ゴメンなさいっ!」


 言わずもがなノーだ。


「あたし、お付き合いしている人がいて……」

「知ってるよ。桜宮先輩だよね」


 断りを入れたにも関わらず井坂は、落ち込んでいる様子を見せない。


(知ってて告白したの……?)


 縁には井坂の真意がよく分からなかった。


「あたし、先輩のことが好きなの。だから、井坂くんに応えられない」


 縁は頭を深く下げてごめんなさいと再度告げた。


「じゃあ、桜宮先輩と別れて?」

「わ、別れないよっ」


(先輩に振られるまでは別れないもん!)


「そう言うなら二番目でも構わないよ」

「それも無理です……!」


 縁は断固拒否と言わんばかりに大きくかぶりを振った。


「チッ」


 その時、井坂の舌打ちが耳に届いた。

 恐る恐る井坂の顔を見ると、人の良さそうな笑顔が目に映る。


 しかし、縁はその笑顔に恐怖を感じ、思わず後ずさりをした。


「佐藤さんって意外と手強いねー。たいていの女はオレがお願いすると彼氏を捨ててオレを選んでくれるのに」

「あたし、先輩がいなくてもあなたを選ばないよ……」


 縁は嫌悪を隠すのをやめて、睨みつけるように井坂の顔を見詰めた。


 視線が重なった瞬間、井坂の笑みニヤリと怪しいものに変わった。


「縁ちゃん、覚えといて」

「え……?」

「縁ちゃんみたいな子が睨んでも、男を煽らせるだけだから――」


 その時、縁は何が起きたのか理解することが出来なかった。


「んんっ!」


 気付いた時には、既に井坂に抱き締められて、縁は食べられるように唇を塞がれていた。


(嫌!)


 依人ではない人とする口付けは、気持ち悪くて吐き気を催してしまう。


 何度胸を押し返しても、縁のか弱い力は井坂にびくともしなかった。


 縁の両方の瞳からは涙が溢れ、頬を何度も濡らした。


 ようやく唇は解放されたが、井坂の腕の拘束は離れない。


「縁ちゃん、泣き顔も可愛いね」

「最低……」

「オレは欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れるタイプなの。これで桜宮先輩に顔向け出来ないでしょ。早く別れてオレのとこにおいで」


 井坂は縁から離れると、悪びれる様子もなく先ほどの人の良さそうな笑顔を浮かべながら縁に手を振って離れていった。

 この忌々しい朝の出来事は、依人は勿論、親友の鈴子にも相談することが出来なかった。


 望んではなくとも、依人ではない男と口付けした事実は変わらない。


 相談して軽蔑されるのが怖かった。


(言えない……でも、いつまでも隠し通せない……)


 無限ループにはまってしまい、延々と同じことを考えていると、突然、頬をむにゅと摘まれた。


「本当に大丈夫?」


 心配そうに窺う依人に、縁の良心はズキズキと痛みだした。


「大丈夫です。実は昨日の夜、推理小説に夢中になって夜更かししちゃったんです。今日はすぐに寝ますので」


 縁はにこっと安心させるような微笑むと、依人は「それならいいけど」と追及することなく納得してくれた。


 昼休みも後わずかとなり、二人はそれぞれのクラスに戻ろうと立ち上がった。


 二人が昼休みを過ごす空き教室は、教室棟ではない奥の旧校舎にあり、廊下は二人以外誰もいない。


「あ、忘れ物」


 依人は立ち止まり呟いた。


(先輩、手ぶらだったよね? 先輩用のランチトートはあたしが持っているし)


 何を忘れたのかと疑問に思っていると、突然、手を引かれて腕の中に閉じ込められた。


「せ、先輩、忘れ物は?」

「今日はまだ縁にキスしてないよね」

「っ!」


 いつもならドキドキするけれど、甘酸っぱいきゅんとしたものではなく、今は冷や汗が出てくるような違う意味のドキドキだ。


「先輩、時間がないです……」

「だめだって。最低一回はしないと、俺乾涸びちゃうよ」


 依人は更に密着するように縁を抱き締めると、口付けをしようとゆっくりと顔を近付けた。


(だ、だめ……!)


 唇が触れる寸前、縁は思い切り顔を背けた。


「縁……」


 依人は抱き締めた腕を解くと、呆然と縁を見つめていた。

 心なしか寂しげに見えて、また、縁の罪悪感を大きくさせる。


「ごめん、なさい……っ」


 視界が歪んだ瞬間、縁は目を伏せて依人から逃れるように駆け出した。


 これでは井坂の思う壷だ。

 頭では充分理解していたが、縁に依人と向き合う勇気はなかった。


「おかえり、縁」


 教室に入ると、鈴子が笑顔で縁を出迎えた。


「ただいま」


 縁はにこりと笑顔を返したつもりだったが、鈴子から笑顔がすうっと消え去った。


(怒ってる……?)


 鈴子が怒る時はほぼ無表情になる。


「あたし、縁の一人で抱え込むところ、嫌いよ」


 鈴子の言葉を聞いた途端、拭い取った涙がまた溢れ出した。


 鈴子に嫌いと言われてショックを受けたからではない。

 思っていたより縁の心が限界に来ていたと気付いたからだ。


「ひっ、く……鈴子ぉ……」


 クラスメイトが奇異な目を向けている。


 それでも縁は涙を止められず、小さな手で鈴子の手をぎゅっと握り締めては、縋るように鈴子の肩に顔を埋めた。

 運良く午後一の古典の授業は、自習だった。


 屋上に向かって……と行きたいところだが、屋上の扉は常に閉鎖されているのでベランダに場所を移した。


「今朝から様子が変だとは思ってたの。縁から言い出すまで様子を見ていたけど……」

「ごめんね……本当は打ち明けたかった……でも、軽蔑されるのが怖かったの」


 膝を抱えて顔を埋めたまま呟くと、鈴子に後頭部を軽く叩かれた。


「ばか。軽蔑しないわよ。縁が間違っていることをしたら指摘はする。でも、あたしは縁が何をしても友達で居続けるわ」

「鈴子……」


 縁は顔を上げると、鈴子に抱き着いた。


「もう泣かないの」

「うぅっ、」


 鈴子は小さな嗚咽を零す縁を宥めるように、背中を優しくさすってくれた。


 しばらくして落ち着きを取り戻すと、縁は意を決して鈴子に打ち明けることにした。


 ただ、声にするとクラスメイトに聞かれる恐れがあるので、スマートフォンを取り出し、メモ帳アプリで文章をしたためて。


「井坂か……」


 鈴子にその文章を見せると、鈴子は盛大に嘆息した。


「鈴子は知ってるの?」

「うん。元弓道部仲間よ」


 正直、意外だと思った。

 ちゃらちゃらと軽そうな井坂が、硬派なイメージの弓道を嗜んでいたことに、縁は驚きを隠せなかった。


「井坂は大会に出れるくらい才能があったのだけど、女癖悪いでしょう? 見てくれもいいからたいていの女の子は井坂に靡いちゃうの。副主将の彼女を横取りしたこともあってね、本当に修羅場だったわ」


 部員の鈴子は、その修羅場を見かけたことがあり、当時を思い出していたのかゲンナリとしていた。


「やることなすこと姑息よ……縁を泣かせるなんて」


 鈴子は怒りを露わにして、拳を力強く握り締めた。


「でも、あたしの自業自得だよ。手紙なんて無視すればよかった……そうしたら、先輩を裏切らなくて済んだ」


 力なく自嘲気味に笑うと、鈴子は眉を下げて悲しげな表情をさせた。


「縁、あたし思ったんだけど、」

「……?」


 鈴子は一瞬躊躇いを見せたが、覚悟を決めたかのように真っ直ぐ縁の目を見つめると、口を開いた。


「縁には酷だと思うけど、今朝の出来事を先輩に打ち明けるべきだと思うの」


 縁の肩がビクッと揺れた。


(先輩に打ち明ける……)


 頭の中で反芻すると、心臓が握り潰されたように締め付けられた。

「怖いよ……」


 嫌われたら、拒絶されたら……と考えれば考えるほど雁字搦めにになって、動けなくなってしまう。


 そんな縁に鈴子は優しく頭を撫でながら諭した。


「だけど考えてみて? もし、井坂や最悪第三者から知らされるくらいなら、縁から話を聞いて知った方がいいと思うの。あたしの憶測だけど、先輩だって急に縁にキスを拒まれて不安になっていると思うから」

「そうだよね……逃げてばっかりはだめだよね。キスを拒んだ理由も話さなきゃ、ね」


(玉砕覚悟でぶつかるしかないんだ)


 打ち明けることでどうなるか全く分からなくて、不安しかない。

 それでもありのままを伝えるしかないのだ。


 これ以上依人に嘘をついて隠し通しても、罪悪感で押し潰されるだけだ。


「あたし、先輩にちゃんと話すよ」


 勇気を出して、一歩を踏み出さなければいけない。


 縁はそう強く思った。


「縁なら出来る。あたしも縁にちょっかい出すなって井坂にきつく言っておくから」

「鈴子、ありがと……もし、失恋したら骨を拾ってね」

「やだ、縁起でもないこと言わないの。あたしはそんな展開が来ないことを祈っているわよ」


 鈴子には頭が上がらない。


 もし、鈴子がいなければきっといつまでも隠し続けてウジウジしているだけだから。


 何回感謝しても足りない。


「頑張りなさい」

「うんっ」


 縁は泣き腫らした目を細めて微笑んだ。


 それは無理矢理作ったものではない心からの笑顔だった。




 放課後になり、縁は依人が来るのを待っていた。


 待っている間、緊張で顔が強ばってしまったが、鈴子は何度も大丈夫だと声をかけてくれた。


「縁」


 しばらくして依人の声が縁と鈴子の耳に届いた。


「先輩」


 縁は恐る恐る依人に視線を向けると、依人はいつも通り柔和な笑みを浮かべていた。


「帰ろうか」


 依人は縁の手を取ると指を絡ませていく。


(あたしが話をしたらもう繋いでくれなくなるのかな)


 その甘い仕草にいつも胸をときめかせていたが、今日は無性に寂しくて仕方なかった。


「あの、」

「ん?」

「帰る前に、先輩にお話があります……」


 緊張のあまり上手く声が出なかったが、どうにか絞り出す。


 依人の顔は一瞬強張りだしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「分かった。場所を変えよう。図書室でいい?」

「はい」


 縁が頷くと、依人はそのまま縁の手を引いた。


 繋がれた手はいつもより力が入っていた。


 教室を出る寸前、振り向くと、鈴子が口パクで「頑張れ」と手を振った。

 この高校の図書室は入口から向かって右半分が蔵書が収められている書架が並んでおり、左半分が長い机が配置されている。


 図書室に足を踏み入れて辺りを見渡すと、人はカウンターに座る図書委員の女子生徒が一人と、数人の生徒しかいなかった。


 二人は一番奥へ向かい、窓際の椅子に横に並んで腰を下ろした。


「縁の話って何?」


 机に肘を付いて手のひらに顎を乗せて尋ねる依人に、縁は一瞬たじろいだ。


 しかし、逃げられないと思い、深呼吸を一度すると、真っ直ぐ依人の目を見つめた。


(ここまで来たら、言わなきゃ……!)


「あの、あたし、今朝――――」


 意を決して縁は切り出そうとしたが、思わぬ邪魔者が入った。


「あれ、縁ちゃんじゃんー」


 間延びした緩い話し方。


 姿を見なくても声を聞いただけで縁は硬直してしまった。


 縁に声を掛けたのは他でもない井坂だったのだから。


(怖い……!)


 縁は無意識に依人に寄り添い、長袖のシャツの袖を握り締めた。


「彼氏さんも一緒なんだ。桜宮先輩、こんちはー。オレ、井坂って言います」


 井坂は友好的に挨拶をすると、依人はきょとんとした顔になった。


「縁のクラスメイト?」

「あ、あの……」


 説明しなきゃ、と思っても頭が回らず言葉が出てこない。


 そんな縁の代わって井坂はこう切り出した。


「クラスは違います……でも、他の男子よりは親密ですね」


 井坂は口角を挙げて、あからさまに企みを含む笑みを浮かべた。


(何言ってるの!?)


 縁は目を見張ったまま井坂を見つめた。


「それは、どういう意味かな?」


 依人の声が低くなった。


 初めて聞く冷淡な声音に、指先から体温が奪われていくような錯覚がした。


(何も言わないで……)


 縁は震えながら切実に祈ったが、恐れていたことが現実に起きてしまった。


「キスするくらいは仲良いですよ。縁ちゃんの唇、柔らかいですよね」


 縁が打ち明けるよりも先に、状況は最悪な展開になってしまった。


(もう、終わりだ――――)


 井坂の発言を聞いた瞬間、縁は目の前が真っ暗になる。


 それと同時に初恋の終焉を悟った。

 依人はこの話を聞いてどんな表情をしているのか。

 縁は怖くて依人を見ることがとても出来なかった。


(鈴子、だめだった……振られるのも時間の問題だよ……)


 ぎゅっときつく瞼を閉じても涙は溢れ出し、頬を伝っていく。


 いくら悔やんでも時間は取り戻せない。

 それでも縁は涙を止めることが出来なかった。


 シャツの袖を掴んでいた手をそっと離す。


 しかし、離した手はまた掴まれて思い切り引き寄せられた。


(今のは先輩が……?)


 縁は何が起きたのか理解出来ず、涙で濡れた瞳のまま顔を見上げると、すぐ近くに依人の顔があった。


 一瞬、視線がぶつかると、依人は逃がさないと言わんばかりに肩を力強く抱き締められた。


(なんで、あたしを抱き締めるの!?)


 縁の頭は混乱に陥っており、最早パンク寸前だ。


 パソコンがフリーズしたみたいに固まっていると、思いも寄らぬ言葉が頭上から聞こえた。


「俺はお前の手のひらの上で転がされるほど、馬鹿じゃないよ」


 依人の口から出たのは、縁へ向けた軽蔑の言葉ではなく、井坂を挑発させるものだった。


「はっ、キスしたのは事実ですよ?」


 井坂は嘲笑を浮かべ、依人を小馬鹿にするように言った。

 依人は井坂を一瞥すると、取り乱すことなく言い聞かせるように返した。


「それで俺が縁を手放すと思ったら大間違いだよ」


(どうして……? あたしは先輩を裏切ったのに……)


 縁の瞳から途切れることなく涙が零れ落ちていく。


 依人は縁を離すと、立ち上がり、井坂の胸倉を掴んだ。


「ぐっ」

「だ、だめです……!」


 縁は制止しようとするが、依人の手は緩むことはなかった。

 井坂は息苦しそうに眉を寄せている。


 今にも殴り掛かりそうな緊迫した空気は、まさに一触即発と言う言葉が適切だろう。


 しかし、依人の空いた手は一ミリも上がることはなかった。


「――次はないよ。また縁を泣かせたら俺も報復させて貰う」


 依人は据わった目をさせて、地を這うような低い声で淡々と井坂に囁いた。


 乱暴に突き放すと、井坂は俯いたまま軽くむせていた。


「縁、行こう」

「っ、」


 依人は井坂が見えていないかのように手を繋ぐと、そのまま引き連れた。


 どうして拒絶しないんですか?

 どうして今まで通り手を繋いでくれるんですか?

 あたしは、まだ先輩の彼女でいてもいいんですか?


 縁は色々聞きたくて仕方なかったが、唇から洩れたのは小さな嗚咽だけだった。

 そのまま連れられて辿り着いたのは、依人の住まうマンションだった。


「上がって?」


 玄関でおどおどしながら立ち尽くす縁を見かねて、依人は上がるように促した。


「お邪魔、します……」


 縁は靴を揃えて遠慮がちに上がると、再び依人に手を引かれる形で自室へ向かった。


 一学期の試験勉強以来に見る依人の自室は、相変わらず物が少なくてシンプルだ。


「せんぱい……」


 縁は窺うように依人の顔を見つめると、突然、抱き上げられた。


「きゃっ」


 急に来た浮遊感に思わず小さな悲鳴を上げてしまい、依人の肩にしがみつく。


「降ろしてくださいっ」


 二度目でも慣れないお姫様抱っこに、恥ずかしくなり訴えかけるが、依人は耳を貸さない。


 ベッドの淵に座った時、ようやく降ろしてくれたかと思えば、膝の上に向かい合うように乗せられた。


「もっと、寄って」

「っ」


 肩を抱かれて二人の距離がゼロになった。


(もう抱き締められる資格なんてないのに)


 身を捩って離れようとしても、依人の腕の力は比例するように強くなっていく。


「縁……俺に話そうとしたこと教えてくれる? ちゃんと縁の言葉で聞きたい」


 耳元で囁かれて縁はピタリと抵抗を辞めた。


 そして、依人の腕の中に収まったまま今朝の出来事を打ち明けることにした。




 井坂に呼び出されるまでの経緯と、告白をされたこと、そして……。


「――先輩と別れてオレを選べって言われて、あたしは拒否したんですが……いきなり抱き締められて、無理矢理……キスされてしまいました……」


 全てを打ち明けると、縁の涙腺はまた崩壊した。


「ごめんなさい……っ、あたし、本当に最低ですっ……」


 それきり縁の口からは嗚咽しか出てこなくなった。


「ひっ、く、ふぇ……っ」


 子どものように泣きじゃくる縁。


「辛いのに話してくれてありがとう。もう自分を責めたりしないで?」


 依人は一度も縁を非難することなく、抱き締めては宥めるように優しく背中をぽん、ぽんと叩いた。


「俺こそごめんね? 今日一日不安だったのに気付いてやれなくて」


(先輩は悪くないよ。全部あたしが悪いの)


 そんな心の声を伝えたかったが、嗚咽しか出てこなくて代わりにかぶりを振った。


「俺は何があっても縁の傍にいる。初めて会った時から変わらず好きだよ? それだけは分かって」


 依人は指で縁の涙を拭うと、腫れぼったくなった瞼の上に優しく口付けを落とした。


(あたしは果報者だね……)


 依人の温かくも真っ直ぐな愛情は、縁の心をそっと癒してくれた。




「今日はごめんなさい……」


 ようやく涙腺が落ち着き、縁は頬を染めて恥ずかしげに依人に謝った。


「いいよ。これからも俺の傍にいてくれるなら」


(先輩は優し過ぎます……あたしには勿体ない人だよ)


「先輩がいいなら傍にいたいです。いさせてください」


 縁は自ら依人に抱き着いた。


 依人の体温に包まれると毎回鼓動が暴れてしまう。

 しかし、それと同時に幸せな気持ちが満たされていくのを実感した。


「あたし、キスやぎゅってされるの、先輩じゃないと嫌です」


 井坂の件で改めて思い知らされた。

 心はもう依人しか受け入れられなくなっているのだと、日に日に依人への想いが大きくなっていたのだと。


 依人がいなくなったら、自分は兎みたいに寂しさに押し潰されて死んでしまうのではないかと思ったりもした。


「あんまり可愛いこと言うと、抑えられなくなる」

「へ?」


 何を抑えているんだろう……と縁は不思議そうに首を傾げると、依人は小さな笑いを零した。


「今から俺の気が済むまで……キスしてもいい?」


 耳元で囁かれた声はひたすら甘くて、縁の頬は湯気が出てもおかしくないほど赤らんできた。


「ま、待ってください……」


 キスは依人としかしたくないのは紛れもない事実だ。


 しかし、今からしようと言われて、分かりましたと頷けるほど心の準備は出来ていなかった。


「だめ。もう待てない」

「え、そんなっ……」


 依人は、そんな慌てふためく縁の有無を言わさぬように顎を上げると、ゆっくりと唇を重ね合わせた。


 依人の宣言通り、キスはいつもより長く回数が多かった。


「せんぱい……もう、むりっ」


 縁の心の余裕はもうほとんど残っておらず、心臓は高鳴りすぎて壊れそうだ。


 それなのに、限界を訴えても依人はやめる気配すら見せずまた縁の小さな唇を塞いでいく。


「あの男のことなんか全部忘れて、俺でいっぱいになって、俺のことだけ考えていて?」


(もうとっくに先輩でいっぱいです!)


 縁はそう返したかったが、縁の唇から洩れたのはくぐもった甘い声だけだった。




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