第三話

 霊魂が体に戻ると同時に、意識が闇の中に沈んでいく。次に気が付いたとき、王叙鶴ワンシューフーは暗い室内に寝かされていた。起き上がってあたりを見回すと、埃まみれで朽ちかけた像が目に入った。謝玄幽シエシュエンヨウの姿は見当たらない。どうやら、王叙鶴を打ち捨てられた廟に置いてどこかに行ってしまったらしい。

 王叙鶴は鳩尾に手を当てた。皮膚と服の向こうからかすかに伝わる鼓動から察するに、謝玄幽は彼をもう一度生き返らせることに成功したらしい。王叙鶴は足のこわばりを解くように、廟の中をゆっくりと歩き回った。ぼろ屋も同然の廟だが壁や戸は意外としっかりしていて、一定の間隔で護符が貼ってある。ひとつひとつに異なる文言が書かれたそれを読んでいくうちに、王叙鶴は謝玄幽の腕の良さに舌を巻いた。軽薄で横柄な若造だと思っていたが、王叙鶴の蘇生を助けたり、廟をまるごと結界にしてしまうなど、法術を扱う者としてはなかなか良い腕をしているようだ。

「……しかし謝玄幽の奴、どこに行ったんだ?」

 王叙鶴は独りごちた。この結界は王叙鶴を外敵から守るだけでなく、彼を今いる場所に引き留める力を持っている。そして召命符の契約も相まって、王叙鶴はこの廟の外に出ることができない。今の彼は謝玄幽に使われる身、主が望むようにしか動けない傀儡に過ぎないのだ。ここから動けず、謝玄幽も帰ってこないのであればと、王叙鶴は床に腰を下ろしてあぐらをかいた。目を閉じて呼吸を整え、丹田を起点にゆっくりと全身に気を巡らせる。全身の経脈を通る気の流れに滞りがないこと、体に何も支障がないことを確かめながら、うねるような熱が体の隅々まで回っていくのを感じてその感覚に身を委ねる。肌がわずかに光を帯びてきたところで、王叙鶴は息を鋭く吐いて気を丹田に戻した。目を開け、入り口の方に視線を向けると、謝玄幽の偉そうな声が答えた。

「さすがの内功ですね。中原じゃ一番なんじゃないですか?」

「さあな。誰かと競うためのものではない」

 実力こそ認めたが、だからといって謝玄幽と馴れ馴れしく話す気にはなれない。謝玄幽の方も王叙鶴の素っ気なさに慣れたのか、ふうん、と一言答えただけでそれ以外の深掘りをしない。

「ところで謝玄幽シエシュエンヨウ、お前が連れているは何だ」

 王叙鶴は話題を変えた。謝玄幽と一緒にいる黒い気配が、先ほどからずっと、その小柄な体の後ろでやけに人の良い笑みを浮かべているのだ。

「ああ、彼女ですか。いい娘でしょう?自分の身代わりになってくれる人間を川辺で探していたんでね、どうせなら一仕事してもらおうと思って連れてきたんですよ」

 王叙鶴は、指を二本立てて意識を集中させた。黒い気配が人の形を取り、謝玄幽と同じくらいの背丈の若い娘の姿がよりはっきりと見えてくる。どこか力の抜けた顔でへらりと笑うその皮膚は白くふやけ、湿った着物からは水の匂いがぷんぷん漂っている。

「溺れたのか」

「まあ、そんなところですよ。酒に酔わされたところを橋から足を踏み外して真っ逆さま。だよね?バイ姑娘クーニャン

「そうか。災難だったな」

 王叙鶴ワンシューフーに話しかけられて、白姑娘のふにゃりとした笑顔が少し固まった。きっと死の直前の酩酊状態のまま、川辺にとどまって不用心な酔っ払いどもに笑いかけるばかりの怨霊なのだろう——そう思った王叙鶴がさらに慰めの言葉をかけようとすると、

「待って!」

 と謝玄幽に止められてしまった。

「白姑娘には黒怨煙を呼び出すためのエサなんです、万が一にも浄化されたらどうしてくれるんです?」

 王叙鶴は何も言わずに黙り込んだ。もっとも、今の彼は謝玄幽が許したときにしか反論できない身だ。同意の上でのことだからそれについては文句もないが、それでも彼女を黒怨煙に差し出すというのは彼のやり方には反する。謝玄幽に促されてそのことを伝えると、謝玄幽は哎呀アイヤとため息をついた。

「最後には浄化を試みるなら同じことですよ。黒怨煙こくおんえんに取り込まれた他の怨霊と一緒に、最後にはあなたが天に上らせてあげるんでしょう?だったら心配することないじゃないですか」

「だが、どうやって黒怨煙を引き寄せるんだ?」

 王叙鶴が尋ねると、謝玄幽はニヤリと笑って答えた。

「まあ、見ててくださいよ。」

 謝玄幽は指をくい、と曲げて、壁に貼った護符を瞬時に回収した。続いて白姑娘を廟の中心に立たせ、今度は呪符を取り出して彼女の額に貼りつける。実体のあるようでない彼女の額に紙切れが貼りついているのは実に不思議な光景だったが、彼女はへらへらと笑うばかりでそんなことは全く気にしていないようだった。

「僕の読みが正しければ、これで黒怨煙を引き寄せられるはずです」

 謝玄幽が印を結び、腕を回して陣を敷く。地面に現れた模様から発せられる緑色の光がバイ姑娘を下から照らし出すと、彼女の体が少し透けて見えた。

「青海を渡らず、泰山に至らず。この地に留まりし魂魄よ、汝の全てを我に見せよ。」

 謝玄幽が呪文を唱え、指をぐるりと組み替える。すると突然、白姑娘の笑顔が苦悶の表情にとって代わられた。頭を抱え、悲痛な呻き声を上げる白姑娘を、謝玄幽はさらに呪文で焚きつける。その喉から耳をつんざく絶叫が飛び出したかと思うと、彼女の姿が闇に飲まれ始めた。それと同時に廟の壁がガタガタと音を立て、埃がバラバラと落ちてくる。

 ——この感覚、この気配。永遠に続くかと思えた人生の中で何度も体験してきた、腹の底でうごめく嫌な予感。王叙鶴は羅盤を見るまでもなく、背負った剣の柄に手をかけた。

黒怨煙こくおんえんだ」

 低い声で告げると、謝玄幽がしたり顔で言った。

「じゃあ、あとはそいつを叩き潰すだけですね」

「ああ。上手くいけばいいがな!」

 王叙鶴は剣を引き抜くと同時に剣気を放った。廟の壁が音を立てて崩れ、黒怨煙が姿を現す。

 それは、まさに黒い煙だった。この世のどんな黒よりも黒い、強烈な陰の気を帯びた本物の闇。怒号や泣き叫ぶ声の入り乱れた耳障りな音を伴うそれは、まるで意識を持っているかのように陣の中の白姑娘に襲いかかった。謝玄幽シエシュエンヨウが手を引くと同時に陣が破られ、バイ姑娘は一瞬で飲み込まれてしまう。黒怨煙から発せられた若い娘の慟哭が空気を震わせ、残った壁や屋根を吹き飛ばす。それと同時に、謝玄幽が再び陣を展開した。「行け!」という命令とともに王叙鶴が飛び出し、黒怨煙に斬りかかる。腕のように伸びてくる黒い筋をかいくぐり、時に斬り捨てながら、王叙鶴は黒怨煙を陣の中心に引き寄せていく。斬りつけたところが金色の光を発するのを見て、なるほどあの剣はいわゆる聖器なのかと謝玄幽はひとり納得した。ここまで強い怨霊が相手では焼け石に水もいいところだが、力の弱いものなら一太刀で強制的に浄化できるだろう。

 王叙鶴ワンシューフーは縦横無尽に黒怨煙を斬りつける一方で、自身で手を加えた浄化用の御符を黒怨煙に取り込ませる機会をうかがっていた。黒怨煙に物を仕込むのは何度か取ったことのある手段だが、自ら黒怨煙に取り込まれないといけないため、王叙鶴でなければ再び起き上がることは不可能という無謀極まりない戦法だ。

(黒怨煙の中に飛び込めば、無事では済まない)

 王叙鶴は漆黒の筋を避けながら、いつもの思考を展開させた。

(こればかりは俺にしかできない。あとはあの若造を信じろ、王叙鶴、あいつなら俺が死んでもどうにかしてくれる。)

 思い浮かぶのは、今までに別れてきた友たちの顔だ。黒怨煙の内部にものを仕込むと言うと、必ず反対してきた戦友たち。復活した途端に、文字通り命知らずな戦い方を責められることもあった——だが、謝玄幽はその誰とも違う。死霊術師ということもあってか、生死を度外視した彼の戦法に謝玄幽だけは反対しない。それどころか、万一の時には僕が何とかしますとまで言ってのけたのだ。術式も、数千年の時を経て変化はしているものの、根本的な部分は彼が使っていた術と変わらない。自ら離れ、敵として関わることを選んだはずの死霊術師が誰よりも信頼のおける相手とは、なんとも皮肉なことだったが、

(生死の理を無視する者同士、やはり波長が合うのか)

 王叙鶴は地面に着地すると、剣を構えなおして気を巡らせた。刃が金色の光を帯び、黒怨煙をひるませる。

「今だ!」

 謝玄幽シエシュエンヨウが叫んだ——それと同時に、王叙鶴も地を蹴って飛び上がった。黒怨煙に深々と剣を突き刺し、開いた隙間から中に入り込む。謝玄幽は印を結ぶと、息を吸い込んで呪文を唱え始めた。

「青海を渡らず、泰山に至らず——」

 最初の文言を口にした途端、黒怨煙が何かを吐き出した。地面に激突してぐったり伸びているそれは、間違いなく王叙鶴だ——だが、それに構っている場合ではない。

「——この世に留まりし魂魄よ、我が言葉に聞き従え。」

 呪文の合間にちらりと視線を向けると、王叙鶴が体を起こすのが見えた。ゲボ、ゴホッ、と派手に血を吐く音が聞こえてきたが、ひとまず命はあるらしい。謝玄幽は呪文を続けた。

「魂の落ち着きを取り戻せ。我がもとを去り、冥府に向かいて審判を仰げ。」

 黒怨煙から、悲鳴のような音が出た。身の毛もよだつその音に、謝玄幽は思わず顔をしかめる。彼の予想では、バイ姑娘クーニャンにかけた使役の術が解けると同時に黒怨煙も力を失うはずだ。そして実際、織物がほつれるように、黒怨煙はばらけ始めていた。だが、中核を為している最も古い怨霊は術に全力で抵抗してくる。何度も印を結び変え、功力を陣につぎ込むうちに、謝玄幽は全身汗だくになっていた。汗が目に流れ込んで視界がぼやける。ついに謝玄幽は、口の中に鉄の味を感じて顔をしかめた。王叙鶴の様子を伺おうにも、陣を保つので精一杯だ。

 その時、背中にドンと手のひらが押し当てられた。膨大な内力が体に流れ込み、謝玄幽は体の負担が軽くなるのを感じた。

「まったく、術の腕は良いかと思えば内力はこの程度か」

 すぐ後ろから聞こえてきたのは、他でもない王叙鶴の声だ。

「浄化の術をかける。そのまま……そのまま、持ちこたえろ」

 液体の絡んだ震える声で告げると、王叙鶴は謝玄幽の背中に当てた手を離し、両の手の指を交差させた。

「冥府を拒み、この地に留まりし魂魄よ。青海を渡り、泰山を下り、府君の懐にて永遠の安らぎを得んことを。行く道に難儀無き。今世の難は癒されし、今はただ休息のみを得ん。」

 朗々と響き渡る声をかき消すように、黒怨煙が一際鋭い叫びを上げる。だが王叙鶴は指を組み替えただけで抵抗を抑えこむと、より一層の内力を陣に注ぎ込んだ。謝玄幽もありったけの力をかき集めて王叙鶴の助太刀をする。緑色の陣に金色の光が絡みつき、漆黒の塊はボロボロと崩れて天に吸い込まれていく。最後に残った怨霊が嘆息とともに消え去ると、ぽっかり空いた空間から二枚の御符がひらひらと落ちてきた。

「消え……た……」

 静寂の中、王叙鶴がほとんど聞こえない声で呟いた。落ち葉のように舞い落ちる御符が、地面の模様に触れた途端にジュッと音を立てて燃え尽きる。それと同時に、王叙鶴も糸が切れたように崩れ落ちた。

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