第54話

 闇の中で声が聞こえる。

 何だろう……よく聞こえない。

 ながれは、体を動かそうとする。けれど、上手く動かない。ふわりと鼻をくすぐる香りが、いい匂いのはずなのに不快だ。

 寒い……

 冷たい水をかぶったように、体中が冷えている。流は、ギュッと目を閉じ、ブルブルと震える体を抱えるようにして、身を小さく縮める。けれど、それくらいでは冷え切った体を温めることはできなくて、奥歯がガチガチと鳴る音だけが響く。

 ……誰だ?

 遠くから聞こえる声。耳慣れた声音で、一瞬翼たすくの声かと聞き間違う。でも、翼の声じゃない。

 何て言ってるんだ?

 声が少しずつ近づいてきているような気がして、流は体を縮めたまま耳を澄ます。

『絶対、見つけるから。……頼むから、大人しくしてろ』

 助けに……来る?

 誰が?誰を?どこに?

 尋ねようと、声を出そうとするけれどなぜだかそれは叶わない。

『絶対、助けに行くから……!!』

 姿の見えない、けれど必死に流に訴えるその声を、流はやはりどこかで聞いたことがあるような気がした。

 ……あれ?

 どれくらい時間が経ったのだろう。流が目を開くと、目の前には知らない室内の風景が広がっていた。手を伸ばすと、サラサラとした手触りのシーツに触れる。頭の下には、おそらく上質であろう枕がある。

 っ!!

 掛けられていた布団を跳ね飛ばす勢いで慌てて体を起こすと、ガツンと殴られたように頭が痛む。グニャリと目の前の視界が歪む。気を失う前に嗅がされた香りの影響だろうか。頭がガンガンして、目に入る光が眩しい。胸がムカムカして気持ち悪い。

「う〜っ……」

 流は呻き声を漏らしながら、そのまま再び顔から枕に突っ伏す。頬に触れる枕カバーはさらりと清潔で気持ちが良い。ほんのりと洗剤の香りがする。けれど……

 ……気持ち悪い……

 胃が迫り上がるような感じがして、嗚咽をどうにか飲み込む。何度か大きく静かに呼吸をして、衝動を落ち着かせる。ゴロンと仰向けに転がって目を閉じると、瞼の裏でチカチカと火花が散った。

 体を起こしたときに一瞬見えた窓の向こう。広がる景色は見たことのないものだった。どうやら少し高い所、街を見下ろす場所にいるらしい。空は茜色に染まっているので夕方だろうけれど、どれくらいの間気を失っていたのか分からないので、日付が変わっているのかすら分からない。

 知らないところだ……逃げなきゃ……

 ここがどこかは分からない。けれど、ここにいる限り翼の……狼族の負担になる。

 もう一度大きく息を吐いて、体を小さく震わせると流の頭上に銀色の獣耳が現れる。ピクピクと動かして耳を澄ませてみると、離れたところで人が動く気配がする。体はうまく動かすことはできないけれど、縛られているわけではない。

 大丈夫。オレならできる。

 寝かされていたベッドからズルリと滑り落ちるように降りると、体を引きずるようにして唯一の出入り口であるドアを目指す。

 通常ならほんの数歩、数秒で到達するはずのドアが、今はひどく遠く感じる。

 流をこの場所に連れてきたであろう朔月さつきの姿は今は見えない。けれど、彼が虎族であり、虎族が扉を求めているのであれば、ここから逃げ出すのは最重要事項だ。

「はぁっ……」

 小さく息を吐きながら、どうにかドアのところにたどり着いた流が、ドアノブに手を伸ばした瞬間。カチャリと鍵が開き、外からドアを開けられた。

 足元で半分体を起こしたような状態で座り込む流に気付いて一瞬驚いたように目を丸くするが、彼……朔月は、流に向かって微笑んだ。

「目が覚めたんだね。体の具合はどう?」

 言いながら朔月はしゃがみ込むと、膝裏に腕を差し込んで流を横抱きにして抱きかかえた。

「ちょ……」

 驚くほど軽々と抱え上げられて、流は抗議の声をあげようとするけれど、その間もなくベッドへと戻される。虎族の力だろうか。朔月の体は、流よりも華奢に見えるのに単純な力は流よりもありそうだ。

「あの香りはちょっと強烈だからね。狼族には辛いかもしれないけれど、体に害があるものじゃないから」

 しばらく休んでいれば元に戻ると言いながら、朔月は布団を流の肩まで引き上げる。

 ……悪いヤツ……ではないんだよな……

 いや、自分をこうして攫ってきて、閉じ込めているのは十分悪いことではあるのだろうけれど。でも、それでも、流はどうしても朔月に対して悪い感情が湧いてこない。

「もうすぐウチの鍵が来るんだ。その鍵を使って扉を開けてさえくれれば、君はすぐに開放されるよ」

 ウチの鍵とは、獅子族のことだろうか。朔月に命令を下していた男は、獅子族の名を名乗っていた。虎の血を引く鍵……圭斗けいとは、狼族の里で守られているはずだ。

「……扉を開ける方法を知ってるのか?」

 狼紀ろうきには、無理に扉を開けると鍵も扉も壊れてしまうと書かれていたけれど、獅子族はそれを知らないのだろうか。それとも、鍵を壊さずに扉を開ける術を知っているのだろうか。もしかすると狼族と同じように、獅子族か虎族にも何かしら伝わるものがあるのかもしれない。

「僕は知らないよ。僕の今の役目は、鍵が届くまで君をここに留めておくことだからね」

 そう言うと朔月はベッドから離れていく。

「じゃ、それまでもう少し休んでおくといいよ」

「あ、ちょ……」

 手を伸ばそうとするけれど、その腕はまだまだ重い。静かに閉まるドアを見送って、流は大きく息を吐いた。

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