第53話

 え……?

ながれっっ!!」

 驚いたように目を見開き、叫ぶように自分の名を呼ぶ半獣化したたすくの姿が少し離れたところに見える。流に向かって駆け出しそうになるのをとおるに止められているようだった。

 流の体は、いつの間にか朔月さつきの腕の中にある。後ろ手に回された流の腕は、手首を強い力で掴まれていて動けそうにない。振り返って見上げた朔月の頭上には、黒い模様の特徴的なオレンジがかった丸みを帯びた獣耳があり、背後では太い尾がゆらりと揺れる。それは、獅子ししではなく……

とら……」

「正解」

 流の耳元で、朔月が微笑んで答える。どうにかその腕から逃れようと体をよじってみるけれど、朔月の力は思ったよりも強く外れそうにない。

 クッソ……

 流も小さく身を震わせて半獣化をする。そして、改めて力を入れてみるが、朔月の手はビクともしない。トラとオオカミでは、単体の戦闘力を比べると明らかにトラのほうが強い。けれど、ここは狼族の里だ。チーム戦になれば或いは……

「無駄だよ。申し訳ないけど、君には僕と一緒に来てもらうから」

 そう言うと朔月は、篤樹あつきに向かって頷き、流を抱えて大きく……跳んだ。一度の跳躍で、流はさらに狼族と離されてしまう。

「ちょっ……!!」

 その腕から逃れようと身を捩る流の顔を覗き込んで、朔月はふわりと微笑んだ。

「ごめんね」

 流にしか聞こえないくらい小さな声で朔月は言う。その顔はどこか泣きそうにも見えて、流は言葉を失う。

 どうして、お前が泣きそうな顔してるんだ……?

常木つねぎ!」

 篤樹の声に、狐族の長が頭を下げる。

「はっ!」

「……あとは、好きにしろ」

 そう言うと、篤樹は流と朔月のほうへと歩いてくる。その背後では、狐族の長が燈弥とうやに何事か指示を出しているようで、燈弥が頷くと境内の周りの森からフードを深く被った男たちが姿を表した。

 あいつら……

 それは間違いなく、先日狼族を襲った獣人たちだった。

 狐族だったのか……?

 だとすれば、あの獣人会議のときの長の発言は嘘だったのだろうか。彼は狐族の指示ではないと言っていた。でも、本当は狐族が指示をして、狼族を襲わせたと言うことだろうか。

 それにしても……

 人数が多い。多すぎる。前と比較しても倍以上の数だ。いくら狼族が強いと言っても、数が多ければ流石に劣勢になることもある。相手が肉食獣人であれば尚更だ。

「テンとハクビシンで狼族に敵うのでしょうか?」

 テンとハクビシン……

 朔月の言葉は、流に相手が誰かを伝えているようだった。

 小型の雑食獣だ。それならば狼族の敵ではないだろう。流は内心で大きく息を吐く。家族が……翼が無事ならば、あとは自分の身だけを考えればいい。自分の身くらいなら、きっとどうとでもなる。

「ふん……時間稼ぎくらいしてもらわねばな」

 小さく鼻を鳴らして、篤樹は流と朔月の横を通り階段を降りていく。

「わかっているな」

「御意」

 通り過ぎざまに言われた言葉に、頭を低く下げて答えた朔月は、篤樹の姿が見えなくなると大きく息を吐いた。その顔は、どこか影がある。

「ごめんね。大人しく一緒に来てくれる?」

 小さく首を傾げるようにして申し訳なさそうに言われても、流にその気はない。むしろ、離れたところで交わされている狼族と燈弥を先頭にした獣人たちの戦いが気になってそれどころではない。

「っ……離せっ……!」

 きつく掴まれた腕から逃れようと、再び体を捻ってみるけれど、朔月の手はビクともしない。

「……ダメだよ。離せない」

「離せ」

 真っ直ぐに、朔月の目を見て流は言う。その黒い瞳に、焦った表情の自分が写っていて、それが余計に流の気持ちを急かす。

「無理」

 同じように真っ直ぐに自分を見て、朔月は短く言う。流を見つめるその瞳は、ぽっかりと開いた空洞のようで何の感情も感じられない。

「……どうして?」

「命令だから」

「命令なら、やりたくないこともやるのか?」

 流の言葉に、朔月がハッとした表情になり、瞳の奥で光が揺れる。……が、それも一瞬のことで、すぐに元の空虚な瞳へと戻ってしまう。

「そうだよ。それがあの方の命令なら、僕はやるしかないんだ」

 やるしかない

 その言葉にはどこか悲壮感も漂うけれど、朔月の意志も感じる言葉だった。

「だから、大人しくついてきてくれると助かるんだけど?」

 再び顔を覗くようにして言われるけれど、流は小さく首を振る。

 それでも、オレは……

「だよね。いいよ。わかってたから」

 朔月は少し困ったように眉根を寄せて笑った。

「君にとって、家族が……鍵が大切なように、僕もあの方が大切なんだ」

「……お前……」

 どこか儚い笑顔に、流が言葉を続けようとした次の瞬間。鼻元にふわりと香るハンカチを当てられて、流の思考は闇の中へと転がっていった。

「僕だって、大切なものを守りたいんだよ」

 朔月の声は、流の耳には届かない。

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