第52話

 それは突然の出来事だった。ながれが帰省中の日課である境内の掃き掃除をしていると、不意に結界が揺れる気配がした。ほんの一瞬のことで、ほんの少し揺れた後は何も起こらない。気のせいか?と首を傾げて掃除に戻ろうとしたところで空気が一変する。

 バタバタと慌てた様子で泉が六花りっかを伴って社務所しゃむしょから出てくる。たすくも家へと続く戸口から飛び出してきた。流は、その場に足が縫いつけられたかのように動かない。動けない。

 長い階段を登ってくる人物の頭が、少しだけ見える。ゆっくりと近づいてくる。

 流の頭の中では、カンカンと危険を知らせる鐘が鳴り響いている。でも……

 体が、動かない。

 それは、自分よりも強い生き物に出会ったときの感覚に似ているかもしれない。頭の隅では、逃げなければならないことはわかっている。けれど、体が自分の意思に反するように動かない。

「あ、いたいた」

「え……」

 そう言いながら流に手を振るのは、燈弥とうやだ。ニコニコといつものように爽やかな笑みを浮かべている。

 何だ……

 ホッと肩に入った力を抜いた次の瞬間だった。燈弥の背後から見慣れない男たちが姿を現す。いや、正確に言うならば見たことがないのは一人だけで、燈弥をのぞく他の二人を流は見たことがあった。

「狐族族長が、わざわざこんなところまで……どうされたんですか?」

 穏やかに声をかけたのは、社務所から出てきていた泉だった。笑みを浮かべてはいるものの、その瞳は笑っておらず警戒の色が濃い。それを見て狐族の族長は、吊り目がちな目をさらにキュッと細く吊り上げて笑む。

「いえね、先日の獣人会議で、狼族が被害を被ったと聞いたものですから、何かお手伝いできればと思って参じたまでですよ」

「お気遣いありがとうございます。ですが、獣人会議でもお伝えしていますが、大丈夫ですよ。ご覧の通り、やしろも自宅も無事ですし、結界の修復も済んでおります。襲撃者たちも間もなく明らかになるはずです」

「そうでしたか。でも、色々とご入用でしょう。ご融資いたしましょうか」

 一層笑みを深めて言う狐族の長の言葉に、泉の背後で六花がガタリと不穏な音を立てる。けれど、泉は片手でそれを制して言葉を続けた。

「それも結構です。狼族はこう見えてそう困ってはいないんですよ」

 見えない火花が目の前で散っているような気がして、流は酷く居心地が悪い。視線をぐるりと巡らせてみると、燈弥はニコニコしているだけだし、家から飛び出してきた翼はその腕をとおるに掴まれて流の元に来るのを止められているようだった。

 ……オレを挟むの、やめてほしい……

 大人たちに何かしらの事情があるのは分かるけれど、ここではないところでやってもらいたい。

「……わざわざここに来た理由は、それだけではないでしょう」

 息を吐きながら言う泉に、一瞬眉を上げた狐族の長は、気を取り直したようにスーツの襟を正す。その隙に泉に「下がっていなさい」と言われ、流は箒を持ったまま翼の隣まで下がる。翼は、隣にきた流に幾分ホッとした表情を浮かべ、流の腕をギュッと掴んだ。

「そうですね。本題はこちらです。ご紹介させていただこうと思ってお連れしたんですよ」

 そう言って恭しく紹介された……流が唯一見たことのない男性が、一歩前に出て微笑んだ。ゾクリと背筋を冷や汗が伝うその笑みを、流はどこかで見たことがあるような気がした。

「初めまして、獅堂篤樹しどうあつきと申します。以後お見知り置きいただけると幸いです」

 獅堂……?

 どこかで聞いた覚えのある名に、流は小さく首を傾げる。が、男の後ろに立つ最後の一人を見て思い出す。

亜輝あき……」

 翼がボソリと呟く。

獅堂亜輝。学期の途中という中途半端な時期に、転入してきた翼のクラスメイト。そして、流の友人である由稀ゆきの腹違いの弟。彼の名字が獅堂だった。

 小さな、本当に小さな翼の呟きをどうやって拾ったのだろう。男の背後に立っていた……朔月さつきが嬉しそうに笑った。そして口元が小さく動く。

 正解

 どうして、二人の父親が狐族の族長とともにここにいるのだろう。融資と言っていたので、銀行関係者だろうか。いや、それならばなぜ朔月が一緒にいるのだろうか。

「獅堂……」

 泉が小さく呟き、六花がハッとしたような表情を浮かべる。

「獅堂……とは、獅子族ししぞく家名かめいですね。では、あなたが……?」

 少し躊躇うように、ゆっくりと尋ねる泉に篤樹は大袈裟に首を振る。

「いいえいいえ。わたしは亡き妻に代わって獅堂を束ねる立場にあるだけで、おさではありませんよ。いずれは息子にその座についてもらいたいとは思っていますが、なかなか思うようにはいきませんね」

 眉を下げて笑みを浮かべる彼は、困っているようには見えない。むしろ、どこか楽しそうな気配さえ感じる。

「では、獅子族を束ねる立場のあなたが、今日はなぜこちらに?」

 慎重に、言葉を選びながら泉は尋ねる。それを聞いて彼は「ハハッ」と声を上げて笑う。

「何、簡単なことですよ。こちらに扉があると伺ったのでね。取りに参っただけです」

 次の瞬間、流の視界はグルリと大きく変わった。

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