第48話

 獣人会議じゅうじんかいぎの翌朝。キラキラと朝の光が降りる森を抜け、朝食を済ませたながれは学院の図書室へと向かった。みんなにあれだけ言われて、さすがに目を通しておかざるを得ない状況だ。

 気は進まないけど……

 本を読むのは好きなほうである自負はあるけれど、好きなのは読みたい本を読むことなのだ。気乗りのしない本を読むことほど、憂鬱ゆううつなことはない。

「はぁ……」

 溜息を吐きながら、図書室の扉を開ける。

「あら、久しぶりね」

 図書室に入ると、図書室の主であるひとみが流を見て言った。本の整理をしていたのだろうか。彼女は黒い髪を一つに束ねて、その腕に十冊ほどの本を抱えていた。

「君は二年生だったわよね?夏休みなのにどうしたの?」

 三年生の課外授業があるとはいえ、朝の図書室に生徒たちの気配はない。

 でも、一応……

 流はキョロキョロと見回して、他に生徒がいないことを確認すると、声をひそめてひとみに尋ねた。

「院長先生が、ここに本を預けてるって……」

 それを聞いたひとみは、ぱぁ!と表情を明るくする。

「あぁ!君がそうなんだね。そこに座って、ちょっと待ってて……」

 言ってひとみは、カウンターの奥にある扉の向こうへと消えていく。流は、言われた通りに近くの机について座ってひとみが戻ってくるのを待った。

 ちょっと、疲れたな……

 思い返してみるとここ数日……いや、扉が現れるという神託を聞いてから数ヶ月。流の周囲では、目まぐるしく状況が変わっていった。

 自分は守護者で、鍵であるたすくを守る存在だと思っていた。それが、守護者であると同時に扉でもあると言われ、守られる存在となった。

 いや、元々守られていたのかもしれない

 両親や兄、身近にいる大人たちに、流は守られてきたのだ。

 ヒトとは違う獣人であることも理由の一つであると思う。けれど、自分の周りにいる大人たちは、子どもや年少者、自らよりも弱い存在を守ることを厭わない人たちだった。だからこそ、流はこれまでもこれからも、きっと幸福を感じながら生きていくのだろう。

 でも、それだけじゃ嫌なんだよな……

 自分も、他の大人たちと同じように、大切な人たちを守れるようになりたい。

 何から?どんなふうに?

 考え始めるとキリはないけれど、守りたいと思う。守れるようにならなければと思う。

 そのためには、やはり読まなければならないのだろう。

「お待たせ」

 ひとみが手に持ってきたのは、重ねた和紙の束の端を糸で綴じた和綴本わとじぼんだった。

「いまどき和綴わとじっていうのも、オツよねぇ……」

 言いながら渡されたそれを、流は受け取る。藤色の表紙には、見慣れたいずみの伸びやかな文字でタイトルが書かれている。

 狼紀

「ろうきって読むそうよ。狼族の記録だからね」

「ろうき……」

 そっとページを捲ると、目次の次ページに編著者……つまり、泉からのメッセージが書かれていた。

 これまでの狼族に敬意を。そして、これからの狼族のために。

 父さん……

 その言葉だけで、泉がどれだけ自分たち……鍵と守護者に生まれた子どもたちのことを思ってくれているのかがわかって、胸の奥が熱くなる。変わっていく世界の中で、自分たちがどのように生きていけばいいのか。父はいつだって穏やかに笑みを浮かべて、進む道を照らしてくれていた。きっとこれからも、その命ある限り子どもたちの行く道を案じ、その道が平らかであるように心を砕いてくれるのだろう。

 ……敵わない

 まだ学生である流が到底敵わない懐の深さに、小さく溜息を吐きながら読み進める。

「あれ?流?早いな」

 後方から声をかけられて、流はビクッと肩を震わせて振り返る。声の主は、光太郎こうたろうだった。きっちり制服を着ていることから、これから課外授業に向かうのだろうことがうかがえる。

「あ、それ、昨日院長先生が言ってたやつ?」

 言いながら光太郎は、流の背後から本を覗いた。

「……」

「……?」

 言葉をなくしたように瞬きをして、光太郎は目をこする。流が小さく首を傾げると、光太郎が息を吐いて口を開いた。

「流は、それを読めるのかい?」

 ……?どいうことだ?

 言っている意味はよくわからないけれど、この本を読むことができるのかと尋ねられれば普通に読める。

 流がコクンと頷くと、光太郎は小さく「そうか……」と呟いた。

「あら、生徒会長。君も早いね」

 カウンターの奥に行っていたひとみが戻ってきて、光太郎に声をかける。

「おはようございます。読みたい本があって、探していたんですが……」

 一度言葉を切ると、光太郎は視線を流のほうに向けて小さく苦笑を浮かべる。

「どうやら、僕には読むことができないみたいですね」

 どういうことだろう?流の手にしている本……泉の書き直した狼紀ろうきは、難しい言葉で書かれているわけではない。何なら泉らしいわかりやすい表現で書かれていて、むしろ読みやすいくらいだと思う。

「あぁ。彼に渡してるのは、本物だからね。狼族にしか読むことができないんだよ」

「は?」

 流の口から間の抜けた声が漏れる。

「君はどこの一族だっけ?」

「馬族です」

「うん。だったら、こっちだね」

 そう言って、ひとみはカウンターの下から薄い冊子を取り出した。作りは同じく和綴本だけれど、表紙と題名が違うようだ。萌黄色の表紙に書かれた文字は「狼紀抄訳ろうきしょうやく」。流の読んでいる「狼紀」が全文書かれたものだとすると、それを抜き書きしたと言っていたものなのだろう。

「狼紀は、狼族が守ってきたことに関わることも書かれているから、狼族以外の一族には読めないようにしてるんだって」

 え、何その技。すごくない?

 ひとみから受け取った光太郎は、ページを開いてホッと息を吐いた。

「良かった。受験勉強のしすぎで、目がおかしくなったのかと思った」

 光太郎が言うには、流の開いている狼紀は、文字がぼやけているというかモザイクがかかっているというか……とにかく、文字を文字として認識できないそうだ。「そっちをずっと見てると気が狂いそう」らしい。

 狼紀の最初の章に書かれているのは、昨夜泉が話していた「鍵と扉」のことについてだった。曰く、扉の存在は、神託しんたく巫女みこの力によって明らかになるが、扉が扉であることに気づくことができるのは鍵であるとのこと。鍵は、扉がわずかに発する香りを頼りにその存在に気づくのだそうだ。その香りとは、フェロモンのようなものであろうというのが、泉の注釈ちゅうしゃくとして書かれている。

「……フェロモンねぇ……」

 光太郎は、言いながら天を仰ぐ。

 鍵は鍵同士、守護者は守護者同士で匂いでわかるが、それと同じ仕組みだろうか。

「生徒会長ー。君はそろそろ授業じゃないかい?」

 声にハッとした光太郎は、時計をみると慌ててカウンターに本を返す。

「先生、ありがとうございました。また来ます」

「はいはい。いってらっしゃい」

 本を受け取りニコニコと手をふるひとみに、ペコリと頭を下げた光太郎は、バタバタ図書室を出ていった。

「君は?どうする?」

 視線を流に向けて、ひとみは問う。

 家に帰るのは、今日の午後だ。昼ご飯の時間まで、特に予定は決めていない。

「オレは、もう少し読んで帰ります」

「そう。じゃあ、帰るときに声かけて」

「はい」

 そう言ってカウンターの奥に向かうひとみの背中を見送って、流は再び手元へと目を移した。

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