第35話

 「夏休みには帰っておいで」そういずみに言われてからひと月半。期末考査も終わって夏休みを待つのみとなった本日、ながれは久しぶりにたすくと顔を合わせていた。

 二人がいるのは、学院の校舎の影。森を抜けると真珠寮の裏口へと繋がっている。昼休みも終わろうかというこの時間。近くに人の気配はない。

 流の背後には、校舎の壁。正面には流に覆い被さるように翼がいて、翼の腕は流が逃げ出さないようにしっかりと壁につかれている。……いわゆる壁ドンという状態だ。流が女子であれば、イケメンと名高い翼の顔面をこんなに間近で見ることができるチャンスにキャーキャーと黄色い声を上げているところだろう。

「……どういうつもりだ?」

 どうもこうもない。それはこっちのセリフだと流が口を開こうとしたところに、被せるように翼が言う。

「逃げるな」

 静かな声だけれど、その声の奥にある感情を流は感じる。

 ……さすがに怒るよな……

「逃げてなんか……」

「嘘だ」

 流が言い終わる前に翼が言葉を重ねる。

「じゃなきゃ同じ寮に住んでてここ一ヶ月顔を合わせないなんてありえない」

 それもそうだ。

 謎の獣人たちに襲われ、ナイフで腹部を刺された翼が退院したのは、事件から一週間後だった。獣人は普通の人間に比べて、身体能力が高いことに加えて怪我の回復も早い。退院後の二日間は自分の部屋で養生していた翼だが、三日目には学校にも戻った。その回復ぶりを一番喜んでいたのは、奈子だった。

 正直に言おう。

「逃げてはない……避けてただけだ」

「一緒だろ」

 黒曜石のような瞳がじっと流を見つめる。その瞳に映る自分は、落ち着きがなく居心地悪そうにソワソワしている。

「何で、逃げてるんだ?」

 真っ直ぐに自分を見る星のような黒い瞳から逃げ出したくて、流は少し目を伏せてふーっと息を吐く。

 あの日……翼が刺された日から、流は翼の顔を見ていなかった。顔を見たい、無事を確認したい、元気な姿を見たい……そう思っていたことは間違いない。けれど、どうしても真っ直ぐにその瞳を見ることができなかった。

 守る立場で守られたこと。自分が扉だから襲われてしまったのかもしれないこと。自分のせいで、翼を傷つけてしまったこと。

 どれもが、流にとって耐えられなかった。弱い自分が情けなくて、合わせる顔がなくて、翼が入院している間はお見舞いに行くこともなかったし、退院してからもなるべく顔を合わさないように過ごしていた。

 一緒にいなければ、翼が襲われることも少なくなるかもしれない。そう思ったのも嘘じゃない。

 朝は翼が起きるよりも早く起きて登校し、夜は翼が部屋に戻る頃に寮へと戻った。流が避けていることに感づいた翼が、流に会おうと早起きを始めたり、流と下校時間を合わせようと学校に残っていたりする時は、逆に時間をずらしてやり過ごした。

 我ながら、ホントがんばってたと思う。

 でも、それを翼に話そうとは思わない。話したところで、そんなことをする必要はないと言われるだけだろう。

「……悪い……」

 顔を合わせるのが気まずいというのは完全に流の都合で、翼は全然悪くない。

 ダンッと耳の側で鈍い音がして、流は反射的に顔をあげた。

「……どうせ、自分のせいだとか思ってるんだろ?」

 流の顔の横でギュッと手を握る音がする。微かに鉄くさいにおいがして、流はハッとする。

「バッ……カ!お前どんだけ力入れてんだよ!!」

 慌てて顔の横にある手を取って強く握られた拳を開くと、爪が皮膚を破りわずかに血が滲んでいた。壁を殴りつけたところも、傷がついている。流はその腕を抱えるように取ると、そのまま森の中へと引っ張って行く。

 森を抜ければ真珠寮はすぐだ。寮に戻れば、消毒もできるだろう。そう思って進む流に、翼は大人しくついていく。

「奈子さーん、救急箱どこだっけ?」

 翼の手を引いた流は裏口から真珠寮の敷地へと入り、調理室につながる勝手口から寮の中へと入っていく。

「あら、なっくん。どうしたの?授業は?」

「今日はもう終わり。翼が怪我しちゃって」

 夕飯の仕込みを始めていたのだろうか。ちょうど調理室にいた奈子に流は返す。

 授業が終わりというのは嘘ではない。流のクラスの残りの時間は、自習の予定だった。自習なら教室でするのも寮でするのもそう変わらない。

「あらあら、それは大変。救急箱は、談話室にあるはずよ」

「わかった」

 返事をした流は、そのままずるずると翼を引きずるようにしながら談話室に向かう。

 談話室に着いた流は、翼の腕を掴んだまま片手で救急箱から棚から引っ張り出す。そのまま無言で翼をソファに座らせると、その前に膝をついて救急箱を開ける。翼は大人しく流にされるがままになっている。その様子を見て流は小さく息を吐くが、気を取り直して消毒液を取り出す。消毒をしていると、傷口に染みたのだろうか、翼が少し眉を顰めるが気にせずに絆創膏を貼り付ける。

「……流に手当てしてもらうの、久しぶりだな」

 頭上から呟くように聞こえた翼の声に引かれるように流は顔をあげる。黒曜石のように輝く翼の瞳が、じっと流を見つめている。

 確かに。

 実家にいた頃は、怪我の少なくない生活をしていた。子どもの頃は、とおるたいら、父に手当てしてもらうこともあったけれど、小学生になる頃には自分たちでお互いにするようになった。最近は、なかなか怪我もしなくなったし、自分の怪我は自分でどうにかするようになっていた。だから、流が翼の手当てをするのも数年ぶりになるかもしれない。

「……悪かった」

 流は翼を真っ直ぐに見つめて言った。

 悪かった。それは何に対してだろう。翼が手を傷付けるきっかけを作ってしまったこと?それとも、退院後の翼を避けていたことだろうか?いや、流を庇って翼が怪我をしてしまったことかもしれない。

 いや……そうじゃない。全部……全部、オレが悪かったんだ……。

「……ごめ」

「流に謝られる理由はない」

 流の言葉を遮るように翼は言う。その黒い瞳には、戸惑うように瞳を揺らす流自身が映っていた。

「獣人に襲われたときに怪我をしたのがオレなのも、手を怪我したのも、オレが勝手にやったことだ。流のせいじゃない」

 翼が……翼なら、そう言うことはわかっていた。でも、やっぱり流には、自分のせいだとしか思えない。

「まぁ、オレを避けてたことだけは謝ってほしいけど」

「……それは、ホントにごめん。オレが悪かった」

 自分の独りよがりで、翼を避けていたことには間違いはない。ただ、どうしても拭えない思いがある。

「でも……やっぱり、翼が襲われたのはオレのせいだと思う」

 あれがきっかけで、自分が扉として目覚めることになった。もしかしたら、相手は流が扉であることを流よりも先に知っていたのかも知れない。

「……流といるから襲われたわけじゃないよ。あれは、最初からオレたち二人……狼族の鍵と守護者を狙って、仕組まれていたんだ」

 ……仕組まれていた?

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