第32話

 慣れた様子で前を進むたいらの後を追って、ながれは真珠寮の裏口から学院へと向かう。

 昼間水に院長と会うのは明日と言われていたけれど、事情が変わったと呼び出されたのがついさっき。学院の図書室の本にはめぼしいことが書かれておらず、がっかりしていたので白夜びゃくやと今夜のうちに話せるのはありがたい。

 森のように茂った木々の間から、月の光が差し込んできてキラキラと輝く。月が風に流れてきた雲で隠れてしまったのだろうか、しばらくすると森にも影が落ちた。

 何だろう……何か違う……

 少し前に他の寮生たちと通った道が、今は少し違って見える。今日は水と二人だからだろうか。木々のざわめきや風の音、森に生きる小さな生き物の気配……そういうものを濃く感じる。いつもはウザいくらいに構ってくる水が、口を開かないからだろうか。

 校舎に入る入り口に手を手をかけたところで、水が流のほうを振り返る。

「緊張してる?」

 おどけたような口調で水が言う。けれどその表情は少し硬く、流には水のほうが緊張しているように見えた。

「してない」

「はは♪そっか。流らしい」

 いつものように素っ気ない流の答えに、水は笑って返す。

 緊張は、していないつもりだ。ただ、不安は少しある。たすくの容態はどうなのか、自分はこれからどうなるのか。先が見えないのが、少しだけ不安だ。

 大きな扉の前で立ち止まった水が振り返る。流がその瞳に頷き返すと、水は重い扉を開けた。

 !!

「待ってたよ」

 室内に足を踏み入れた流と水に声を掛けたのは白夜だった。けれど、流はその隣に立つ人物から目が離せないでいる。

 艷やかな黒髪と流のそれに良く似た青い瞳。柔らかい微笑みは、水の顔によく似ていると言われる。ただし、黙っている時限定だけれど。

「……父さん……」

 狼族を率いる者として、隠れ里から離れることがほとんどないはずの父がそこにはいた。家でよく見る和装ではなく、グレーのスーツをきっちりと着込んでいる。その立ち姿は、美形で長身と言われる白夜と並んでも遜色のないほどに整っていた。

「……どうして?」

「未成年に何かあったら、保護者に連絡が来るって言っただろ?」

 誰にでもなく問う流に、水は苦笑を浮かべながら返す。

 そう。だから、保護者であるいずみに代わって、水が学院に来たのだと思っていたのだけれど、そうではなかったらしい。

「本当はとおるも来たがっていたんだけどね」

 そう言って泉は少し困ったように笑う。

 狼族の巫女は、神社のある山から離れることができない。山そのものが神域で、その神域を守る結界の要となるのが、巫女本人だからだ。そのため、竜の行動範囲は驚くほど狭い。電車やバスを乗り継ぐ必要のある学院まで、来ることはできないほどだ。

「泉に来てほしいって言ったのは僕なんだ」

 白夜は言う。

 どういうことだろうかと流が内心首を傾げていると、白夜は机の上に置いてあったものを手にとった。

「流は、これを読んだことはあるかい?」

 そう言って白夜が見せた薄い本のようなものに流は見覚えがある。

「それは……」

 白夜の手にあるのは、泉が読みやすく書き直した狼族に伝わる秘伝の文書だ。あんまりにも泉が夢中で作業をしていたので、よっぽど面白い本なのかと思って、流は子どもの頃にこっそり読んでみたことがある。誰かの日記のようだったけれど、特に面白い内容でもなくすぐに読むのをやめてしまった。

「やっと書き直しが全部終わったんだ。これを白夜に渡すためにも、僕が来る必要があったんだよね」

 文書は不思議な力で封をされていて、家から持ち出すときには手順を踏まなければならないと言われていた。

「……水は?」

「オレは父さんの護衛と道案内」

「……竜としずくは大丈夫?」

「結界も張ってるし、今のところ大丈夫だろ」

 あまり家から出ることのない泉は、ドのつく方向音痴だ。流の記憶にある限り、一人で出歩かせて目的地にまともにたどり着けたことはない。

 そこまで言われて、流はようやく泉がこの場にいることを素直に受け入れることができた。

「……それで、オレは何で呼ばれたんだ?」

 大きく息を吐きながら流が問うと、白夜は柔らかく微笑む。「まぁ座って」と促されて、白夜の執務机の横にある応接セットのソファに座った。白夜と泉も流の反対側に腰を下ろす。

「泉が書き直してくれたこれには、君にとっても必要なことが書いてあるんだ」

 白夜の言葉に、泉も流を見つめて大きく頷く。

「扉が世界に現れるのはずいぶん久しぶりのことでね……前に現れたのは百年ほど前だったかな」

 白夜が言うには、前回扉が現れたのは日本でいうと大正時代ぐらいだと言う。海外に現れた扉は、いつの間にか開けられ新しい時代が始まったらしい。泉が書き直した文書は、それよりもずっと前の狼族の鍵と守護者本人による手記だ。その手記の中に、かつて狼族に現れた扉の存在が書かれていたという。

 狼族に現れた扉……

 手記によると、今回と同じように巫女の元に神託が降り、その後扉としての覚醒が起きたとのこと。

 昔流がこっそり読んだときには、そんなことは書かれていなかった。そのときは泉はまだそこまで書き直しが追いついてなかったのだろうか。

「蔵の隅々まで探したんだけどね、残念ながら扉本人や近しい者が書いたものは見つからなかったんだ」

 少し残念そうに言う泉に流は小さく頷く。

 実家の所有する蔵は三つあって、そのどれもがそこそこ広い。その上、中に納められている物も古く、大量だ。探すのも一苦労だっただろう。流は子どもの頃、こっそり忍び込んで隠れんぼをしたことを思い出す。ひんやりとした空気の中に古いもののにおいが混じった不思議な空間に、足を踏み入れるたびに胸がときめいた。

「だけど、扉についてわかったこともあるよ」

「わかったこと?」

 流が小さく首を傾げると泉が大きく頷く。

「流は鍵と扉の関係はわかっているね?」

「扉が選んだ鍵で新しい世界への扉を開くことができる。扉を開いた鍵を持つ一族は、次の世界の覇者となる」

 そして、他の獣人族から襲われる可能性の高い鍵を守るために、守護者がいる。

「そう」

 耳にタコができるほどに言い聞かされてきた言葉だ。問われればすぐに答えることができる程度には覚えている。

 流が唱えるように言った言葉に頷いて泉は続ける。

「前に君がこれを読んだときには、それくらいしかわかっていることはなかったんだ。それが世界の常識だった。でも……」

 泉は言葉を切る。書かれていたのは、それだけではなかったらしい。

「これまで、扉はおおよそ一時代に一人だと言われていたんだけどね」

 ここで言う「一時代」とは、二百から三百年と幅のある期間を指すようだと白夜が補足する。

「以前狼族に扉が現れたとき、実は彼は二人目の扉だったんだ」

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