第30話

 ドアを開けて、部屋に入ると何だかドッと疲れを感じる。肩が重い……というか、体が怠い。医師の診察では、何の問題もなかったから体の疲れというよりも精神的なものだろう。

 ふぅーー……

 ながれは大きく息を吐くと、気を取り直して部屋着のスウェットを手に取る。着替えるときに背中に流れるほどに伸びた髪が、服の中に入ってしまって気持ち悪い。慌てて引き抜いてホッと息を吐く。

 改めて見ても長いな……

 頭の後ろで軽くまとめて前に回してきても、銀色の髪は鎖骨に届くほどの長さがある。普段見かける女性とくらべても長いほうだろう。

 ……何でこんなことに……

 ぐしゃぐしゃと頭を掻きながら階段を降り、庭に出るとすでにたいらは準備を整えていた。レジャーシートの上に椅子を一脚置いて、その後ろに立っている。腰には美容師さながらの鋏のセットがぶら下がっていた。側にもう一枚レジャーシートが敷かれていて、そこでは圭斗けいと一葉いちはが寝そべって何やらごそごそしているようだ。傍らに色鉛筆が散らばっているのを見ると、二人でお絵かきでもしているのだろうか。

「……二人は?」

 流が水に尋ねたのが聞こえたのか、答えたのは一葉だった。

ながれ兄さんのあとに、わたしたちも切ってもらえって兄さんと奈子ちゃんが」

 なるほど

 昔から水を知る奈子なこ研太けんたなら、その腕前を知っているのも納得だ。確かに、一葉の栗色の癖毛は落ち着きなく跳ねているし、圭斗の艷やかな黒髪も前髪が少し目にかかっている。

「はいはーい。じゃあ、こっち座って」

 水に言われて流が椅子に腰掛けると、水は穴の空いたゴミ袋を流の頭から被せて髪の毛が服に付かないようにする。

「どれくらいにする?長め?短め?ツーブロックとかでもいいよー?」

 水の頭の中には、色々な髪型の流がいるのかもしれないが、流が水に頼むのはいつも同じだ。

「スッキリすればそれでいい」

 流の言葉にクスクスと水は笑いを漏らす。

「りょーかい。スッキリ男前にしてあげよう♪」

 そう言って水は慣れた手付きで流の髪の毛に鋏を入れ始めた。シャキシャキと小気味よい音を立てながら水は鋏を動かしていく。残念ながら店舗のように自分の前に鏡がないので、どのような髪型になっているのかはわからない。けれど、水が鋏を入れるたびに、確実に流の頭は軽くなっていく。

 頭が軽くなると、それまでぼんやりしていた思考も少しずつ冴えてくるようだった。

 昨日、流と翼を襲った獣人たちは、まるで二人がそこを通ることがわかっているかのようだった。あの通りは、バス停までの抜け道として知られていて、普段から人通りがないわけではない。でも、あの時。通りにいたのは流と翼の二人だけだった。あの獣人たちは、まるでそれがわかっているかのようだった。

 ……それに、オレたちが戦っている間、誰も人が来なかった。

 帰宅時間のピークにかかる時間だったのに、だ。

 なぜ?

 抜け道を他の人たちが使わないように、使えないように誰かがしていたのか?

 誰が?あいつらの仲間が?

 でも、あの時他に気配はなかった。

 気配はなかった。けれど、いつもとは少し違った……気がする。

「……流兄さん」

 思考の海に沈んでいた流は、一葉の声にハッとしてそちらに顔を向ける。

 一葉は、深い茶色の瞳を真っ直ぐに流に向けて口を開く。

「わたしたちは、味方よ」

 一葉の言葉に同意するように、隣にいる圭斗も大きく頷く。

 訳がわかっているのかいないのか……圭斗の真剣な様子に、流は少し毒気を抜かれて笑いながら頷き返した。

「ありがとう……」

「よーし、できた!完成だ」

 言って水は流に手鏡を差し出す。流はそれを受け取って、鏡を覗く。トップは長めだけれど耳にかかるほどではなく、サイドとバックは短く刈り上げられている。最近流の周囲でも良く見かけるタイプの髪型だ。ちょっとヤンチャなクラスメイトたちに多い。

「分け目変えるとだいぶ雰囲気も変わるよ」

 言いながら水は櫛を使って流の髪の分け目を変えてみせる。

 確かに。分け目をかえるだけで雰囲気がかなり変わる。センターで分けると途端に真面目な印象になる。流自身は分け目を変えるのも面倒だからしないだろうけれど、注文通りスッキリもしてくれている。

「ありがと」

「どういたしまして」

 手鏡を返しながら言うと、水はにこにこと笑みを返す。

「カラーはどうする?」

「カラー……かー……」

 目立たないブラウンに染めていたはずなのに、髪が伸びたのと同時に髪色も元の色に戻ってしまった。

 ……ほんと、どういう仕組だよ

 流の口から思わず溜息が漏れる。

「やるなら、風呂場に行ったほうがいいと思うけど……」

 洗面台で髪の毛を染めると、寮母の奈子にめちゃくちゃ叱られる。だからと言って、まだ日の高いこの時間から風呂に入る気にもならない。

「そのままのほうがかっこいいよ!」

 キラキラとした瞳で言うのは圭斗だ。光に当たると銀色にも見える流たち兄弟の髪色を、圭斗は気に入っているらしい。

「だよねぇ。オレも流にはこの色が似合うと思うんだ。それに……」

 一度言葉を切った水は、流の顔を覗き込んで続けた。

「まだ顔色があんまり良くないから、そろそろ一旦休んだほうがいいと思うんだよね」

 水は笑顔の中に少しだけ心配の色を混ぜて言う。

 そうかな?

 言われてもう一度鏡を覗いて見るけれど、鏡の中の自分はいつもとそう変わらないように見える。けれど、水たちの少し曇った表情を見るとどうやらそうではないらしい。

「……わかった。ちょっと部屋で寝てくる」

 昨夜がよく眠れたかと言われるとそうだとは決して言えない。素直に頷いて部屋に戻ることにする。「ありがと」と水に礼を言って流が椅子から立ち上がると、すぐに圭斗が飛んできてちょこんと椅子の上に座った。

 小動物みたいだな……

 実際、猫科の獣人である圭斗は子猫へと姿を変えることができるので、小動物というのはあながち間違いではない。ただ、小動物と言うには獣化した圭斗の脚はがっしりしていて、子どもながらに牙も鋭い。ゆらりと揺れる尻尾も野良猫や家庭で飼われている猫よりも太くてしっかりとしている。

「よーし、じゃあ次は圭斗だな!」

「おねがいしまーす!」

 楽しそうな様子を背中で感じながら、流は自分の部屋へと戻った。

 ……やっぱり疲れてんのかな

 階段を登る足が、いつもよりも重い気がする。いや、足だけじゃない。全身が、鉛のように重く感じる。

 重い体を引きずりながらようやく部屋に入ると、流は大きく息を吐いた。その瞬間ドッと疲れに襲われて、流は倒れるようにベッドへと転がる。

 ……考えなきゃいけないことが、たくさんある……気がする……

 翼のこと、扉のこと、鍵のこと……

 けれど、もう頭が回らない。ちょっとだけ……と思いながら、流はそのまま目を閉じた。

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