第25話

 由稀ゆきのマンションを出たながれたすくは、マンションの立ち並ぶ地区を抜けて繁華街に向かって歩いていく。

「……バス間に合うかな……」

 バス停まではそんなに遠くはないけれど、この時間に学院の近くまで行くバスの本数はそう多くはない。ましてや、休日の夕方となるとなおさらだ。

「大丈夫だろ」

 言いながら翼は、近道になる人通りの少ない路地へと入ろうとする。

「あ!待て!」

 思わず声を掛けた流に、翼は振り返って怪訝な表情を向ける。

「時間ないんだろ?ここ抜けたほうが早くないか?」

 ……確かにそうなんだけれど、この路地は……。

 流はきゅっと口を引き結ぶ。

 上手く言葉にできない、黒い霧のようなモヤモヤとした不安が胸を過る。

「……大丈夫」

 翼は呟いてくしゃっと流の頭を撫でた。流がパッと顔をあげると、翼の黒い瞳が流の不安そうな表情を映していた。

「大丈夫だよ。何も起きない。起きたとしても、二人なら大丈夫」

 言葉を重ねる翼に、流は大きく深呼吸をして頷く。その顔を確認した翼は、もう一度流の頭を撫でると、先に立って路地の先へと進み始めた。

 ビルとビルの間にある細い路地を抜けると、大通りへ繋がる細い道に出る。昼間でも薄暗いそこは、日暮れ前のこの時間になると周囲よりも早く闇が降りる。幸い獣人である流たちは夜目が効く方なので、日の出ている時間帯よりも少し暗いかな……と感じる程度だ。

 ……良かった……何もない……

 細い道の先に人と車の気配を感じて、流はホッと肩の力を抜く。間もなく大通りに出る……というところで、前を歩く翼の足が止まった。

 ?

 眉間に皺を寄せ険しい表情を浮かべている翼の視線の先を追うと、そこは工事の資材置き場にされている場所のようだった。少し開けた空き地に、金属でできた柱や木材、土管などの建築資材が置かれている。

 紙に落とした薄墨が広がるように、胸の奥に不安が広がる。

「……早く抜けようぜ……」

 流は翼の服の袖を引いて先を急ごうとする。

 ……ダメだ……早くここから離れないと……

 スンと鼻をつくのは、鉄臭いにおいだ。その中に生臭いにおいが混じっている。それは先日感じたにおいと同じものだった。

「いや……もう間に合わない」

 翼の声と共に、資材置き場の闇の中から複数の人影が現れた。その影の頭上には尖った獣耳があり、背後では尻尾がゆらりと揺れている。

 ……鍵狩り!?

 流は咄嗟に前に出て、翼を背に庇う。ブルッと一度身を大きく震わせると、流の体は半獣化する。獣耳は遠くで揺れる木々の葉音を拾い、視界が昼間のようにクリアになる。茶色に染めていた髪が元の銀色に戻ってビルの隙間から覗く月の光を反射して輝いた。

「……お前達個人に恨みがあるわけじゃないけど……まぁ……わかるよな?」

 リーダー格と思しき男が、一歩前に進み出て言う。ニヤリと唇の片方だけを上げて人の悪そうな笑みを浮かべているのが見える。

「残念ながらわからないし、わかりたくもない」

 きっぱりと言い切るのは翼だ。振り返ると半獣化した翼の頭上の黒い獣耳は周囲の警戒するようにピクピクと小さく動いている。背後で揺れる太い尻尾は、狼族であることを示すように揺れる。

「満月の夜に狼族を襲おうなんて考える奴がいるんだな」

 翼は少しだけ唇の端を上げて笑う。

 狼族が他の肉食系獣人族を差し置いて最強と言われるのには理由がある。もちろん、肉食獣としての強さもあるがそれだけではなかった。

 満月の夜。狼族の獣人の力は、通常の三倍以上となる。その仕組は明らかにされてはいないが、狼族だけが月の光によって力も筋力も増強される。それが狼族が最強の獣人と呼ばれる所以だった。

 ……大丈夫……一人じゃない……

 幼い頃から狼族の鍵と守護者として、厳しい訓練に耐えてきた二人だ。これくらいなんてことない。二人の前に立つ謎の獣人たちの数は二十人には及ばないだろう。闇の中で彼らの頭上に見える獣耳は、流たちの知る肉食獣のそれではないように見えた。

 肉食の獣人じゃないなら……イケる……かも

 月の光がビルの間から差し込んだ刹那、流は飛びかかってきた男たちを軽いステップで避けて的確に急所をついて落としていく。次々に襲いかかってくる男たちの鋭い爪のほとんどは虚しく空を切るばかりだ。

 満月の今夜。相手を傷つけずに倒していくほうが難しい。ガシャーンと激しい音を立てて、資材の山に突っ込んでいく相手を見ながら流は周囲の様子にも耳をそばだてる。

 ……おかしい……こんだけ暴れてるのに人っ子一人来ないなんて……

 そう思いながらも、次々に襲い掛かってくる相手を避け払い落とす。時折わざと激しい音をさせながら。何度か繰り返して、ようやく終わりが見えてきた。

 残り……二人……か?

 流が相手をしている一人と翼が相手をしている一人。

 そのときだった。

「流!!」

 気を抜いた一瞬の隙きを突いて、一人の男が資材の影から飛び出して流に襲いかかった。その手には、月の光を反射して輝く銀色のナイフが握られている。

 やられる……!

 そう思った瞬間に、目の前に影が落ちた。

 ドスッ

 鈍い音と共に小さな呻き声が聞こえた。流の前では翼が身を屈めている。

「翼?!」

 ゆっくりと翼の体が傾いで、膝をつきそのまま地面へと倒れ込む。

「は……ははは……やった……やったぞ!!」

 ナイフを持った男の声が耳障りだ。何をやったのか……理解しているのだろうか。

「翼?翼?」

 恐る恐る手を伸ばして肩を揺らしても翼は返事をしない。じわりと翼の周りに赤い液体が広がる。

 嘘だろ……

 ドクン……と心臓の音が大きく響く。体の奥が、頭が、体中の血液が沸騰したように熱くなる。

「!!!」

 強い赤い光が目の奥で弾けたところで、流の意識はなくなった。遠くで、誰かが自分と翼を呼ぶ声が聞こえた気がする。

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