第16話

 闇の中から現れた爪と牙がたすくを襲う。目の前で倒れる翼と散る鮮血。

 グッと腹の底から何かが上がってこようとするのをながれは必死に耐えながら、鞄の中からハンカチを取り出して男性の頭に当てる。薄いブルーのそれがすぐに血に染まってしまい、流は少し顔をしかめた。

 このままじゃマズイ……でも、救急車を呼ぶわけにはいかない……

 半獣化して耳と尻尾をあらわにしている姿は、一般の人に見られるわけにはいかない。だからといって、ここに残して行くわけにもいかない。

 寮に連れていくのがいいか……?

 迷っている暇はない。 小さく頭を振って迷いを振り払うと、流は目を閉じて静かに深呼吸をした。次に目を開くと、視野が広がり、聴覚や嗅覚がさらに鋭くなっているのを感じる。血のにおいに何か別のにおいが混じっている。彼の付けている香水の香りだろうか。耳を澄ませると、頭上の獣耳がピクピクと動く。

 半獣化すると、感覚が鋭くなるだけでなく人型のときよりも腕力や体力といった基本的な能力も上がる。人型でも決して運べなくはないが、成人男性を誰の目にも触れないうちに寮に運ぶのであれば、獣人型のほうがずっとやりやすい。

 流は男性を背中に乗せて足を抱え、彼の腕を自分の体の前に回して背負う。

「少しだけ、我慢してくださいね」

 流が声をかけると、男性は小さく頷いた。それを確認して、流は駆け出す。小高い丘の上にある寮まで帰るのに人目につかない場所を選ぶと、必然的に森を走ることになる。背中に乗る男性になるべく負担がかからないように、姿勢を保って走るのはなかなか難しい。

 これなら獣化したほうが良かったかな……

 でも、街中まちなかに突然狼が現れると、それこそ事件だ。半獣ならば、まだコスプレという言い訳もたつ。そんなふうに考えているうちに、流は寮の入り口に到着した。寮の玄関の引き戸を開けると、その音が聞こえたのだろうか、奥から奈子なこが現れた。

「どなたかしら?」

 エプロンで手を拭きながら出てきた奈子は、流を見て何か言おうと口を開きかけるけれど、背中の男性を見て声を上げた。

燈弥とうやくん!?」

「奈子さん知り合い?」

 流が背中からそっと男性を下ろしながら聞くと奈子は小さく頷く。男性は気を失ってしまったのだろうか。目を閉じて動かない。

「一昨年卒業した狐族の子よ。キッコちゃんの従兄いとこなの」

 いつの間にか彼……燈弥から獣耳と尻尾が消えている。流も一度体を震わせて、耳と尻尾をしまう。

「……とにかく、寮母室に運んでくれる?傷の手当しなくっちゃ」

 流は頷いて燈弥を横抱きに抱き直すと、言われたとおりに奈子の生活スペースである寮母室へと燈弥を運ぶ。先に部屋へと移動していた奈子は、布団を敷いて流を待っていた。側には手当をするための道具も準備されている。

「ここに寝かせてくれる?」

 流が燈弥を布団に横たえると、奈子は手早く彼の傷を確認する。

「……大丈夫。そんなに深くないわ。」

 奈子の言葉に流はホッと息を吐く。

「頭を強くぶつけたみたいね。たんこぶができてる」

 脳震盪のうしんとうで意識を失った状態なのだろうというのが奈子の見立てだ。奈子は寮母になる前は、看護師としてしばらく働いていたと聞く。

「じゃあしばらく眠ったら目を覚ますかな?」

「そうね。少しそっとしておきましょう」

 流と奈子は揃って寮母室を出て寮の食堂へと移動する。流が適当な椅子に腰を下ろして大きく息を吐くと、奈子は流の前に冷たい麦茶の入ったグラスを置いた。

「で。なっくんは何でこんな時間に寮に帰ってきてるの?」

「ごほっ!!」

 麦茶を飲んでいた流は、奈子の問いに思わずむせる。

「何で?」

 流の向かいに座った奈子は、ニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべながら流に問う。

 こえぇ〜〜……

「え〜っと……ちょっと体調が悪くて早退したんだ」

「そう。どこで燈弥くんと会ったの?」

「……下の公園……」

「寮に真っ直ぐ帰って来なかったの?」

「……はい」

 柔らかい手で優しく頭を撫でられて、流はシュンと肩を落とす。きっと今獣耳があれば、ペションと倒れてしまっているだろう。

 奈子は大きく溜息を吐くと続ける。

「まぁ……いいわ。朝から顔色悪かったもんね。なっくんもお部屋で休んできなさい」

「はーい」

 流は大人しく奈子の言葉に従い、自分の部屋へと向かう。

 部屋に着き、制服を脱ぎ捨てて部屋着のスウェットとティーシャツに着替えると、そのままベッドに転がる。

「はぁーー」

 ……ドッと疲れた……

 寝不足のせいもあるし、半獣化して人を運んだせいもあるだろう。でも、それよりも、流の思考を囚えて離さない言葉がある。

『猫だった……大型の……』

 ぐるりと一周公園を回ったけれど、あの公園に出入りできるのは流が入った入り口だけだった。もちろん、流がやったようにフェンスを乗り越えれば森や道路と行き来はできるだろう。けれど、わざわざそんなことをするのは、流のように人目を避けて行動したい者だけだ。

 あいつ……

 流とすれ違ったあの学生服の青年。

 猫科の大型獣……

 ゾクリと寒気が流の全身を襲う。

 この間の街での気配といい、今回のことといい。

 近づいて来てる……

 確実に。鍵狩りが流と翼の側まで、近づいている。

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