第7話

 電車とバスに揺られておよそ三時間。県境にほど近い山奥に、流たちの実家はあった。

『次は〜大上おおがみ神社前〜大上神社前〜』

 運転手の車内アナウンスにながれは読んでいた本を閉じると、隣に座ってうつらうつらしていたたすくの肩を揺らし降車ボタンを押す。バスが止まると席を立ち、料金を払ってバスを降りる。二人が降りたバス停は、大きな鳥居と長い階段の前にあった。見上げても先が見えない階段は子どもの頃に数えたら合計で百九十八段あった。

「ふぁ〜っ」

 大きな口を開けて欠伸あくびをする翼に小さく苦笑をしながら、流は階段を登り始めた。

 大上神社は、流たちの実家が管理している神社だ。その歴史は古く、建立は鎌倉時代ともそれよりも前とも言われている。かつては都の近くにあった神社だが、人々の迫害や他の一族による攻撃から逃れに逃れた狼族がやっと辿り着いたのがこの地だったそうだ。それからはひっそりと狼族の隠れ里として存在していたが、近代に入り獣人の存在を知らない人々が移り住んでこの小さな地区ができたという。移り住んできた人々は、自分たちが暮らし始める前からある大上神社を地域の信仰の対象として、受け入れてくれた。由緒あるこの神社を今守っているのは、流の父だ。

 階段を登りきり振り返ると沈む夕日と茜色に染まった空が見える。眼下に広がる田畑や家々も夕日を浴びてその色を変えていた。

 綺麗だと思う。けれど同時に狭い世界だとも感じる。この狭い世界が、『全て』だった人たちがいる。そのことが少し悲しい。人と獣人、狼族と他の一族。以前よりもその距離は縮まったようにも思うけれど、そこにはいまだに埋められない溝があることを流も知っている。

「おかえりなさい」

 鈴の音のような澄んだ声。振り返ると顔の半分を前髪で隠した女性がいた。

「姉さん!」

 流には滅多に向けられることのない嬉しそうな笑顔と声を上げた翼が小走りに彼女……とおるの元へと向かう。境内の掃除をしていたのだろうか、竜の手には竹箒たけぼうきが握られていた。

「代わるよ」

 すかさず竹箒を奪おうとする翼に竜はくすくすと小さく控えめな笑いをこぼす。

「もう済んだから大丈夫。それより早く荷物を置いて会いに行ってらっしゃい。二人のことをお待ちよ」

 竜の言葉に流は頷き、まだ何か言いたげな翼の腕を引っ張りながら境内の横にある戸口から居住スペースへと入った。流と翼の実家は、古民家一歩手前と言われる程度には古い、平屋の日本家屋だ。玄関の引き戸を引くと、カラカラと乾いた音がする。昔ながらの造りで、三和土たたきは広く上がりかまちは高い。玄関のすぐ先には座敷があり、右手側には客間が、左手奥には家族が居間として使っているスペースがある。そこを通り抜けた先の縁側を進んだ突き当りが二人の目的の場所だ。

 もう日暮れだというのに障子と窓が開け放たれ、外の青々しい風が吹き込んでいる。薄暗い部屋の隅にある文机に向かい、彼は書き物か何かをしているようだった。

「ただいま」

 流の声に部屋の主が顔を上げる。その瞳が流と翼を映すとふわりと表情を変え、柔らかい笑みを浮かべた。艷やかな黒髪と流のそれに良く似た青い瞳。微笑みを浮かべる顔は、たいらとよく似ている。

「おかえり、待ってたよ」

 まぁ座ってと促された先には、座布団が準備されていた。

「何かやってたなら、あとでもいいんだけど?」

 言われたとおりに座布団の上に座りながら流が言うと、部屋の主である流の父・いずみは首を振る。

「待ってたって言ったろ。二人を待ってる間に、ちょっと昔を思い出していただけだよ」

 文机の上に広げられていたのは、ちょっとくたびれた封筒と便箋だった。それは、その昔流の母から父に宛てられたもので、何十年経っても父はそれを大切にしまっているのだった。

 流の父はここで育った狼族の獣人だが、母はずっと以前にこの地を離れた狼族の血筋と人間の混血だった。二人が出会ったのも、やはり青海学院おうみがくいんだったという。学院を卒業した後、父は家に戻り、二人が結婚をするまで、母は世界中を旅しながら写真家として活動していた。そのときに送られてきた手紙を父は今でもたまに読み返している。

「それで?」

 何の用だと続きを促す流に泉は小さく頷く。

「もう察しはついてると思うんだけどね……」

 隣に同じように正座で座る翼の喉が、ゴクリ……となる。

 察しはついていても、覚悟ができているわけではない。それでも、流たちは聞く必要がある。聞かなければならない。

「間もなく扉が現れるよ」

 ピクッと翼の肩が揺れるのが流の視界の端に映る。

 泉の口から告げられた言葉は、二人が想像していた通りの言葉だった。

「扉と鍵の話は、何度もしてるよね?」

 泉の言葉に流は翼と共に頷く。

 ヒトには知られていない獣人世界の話だ。世界の流れが歪んだとき、新しい世界への扉が現れると言われている。その扉は誰かの心の中にあり、扉を持つものを獣人たちは「扉」と呼んだ。その扉を開くと、新時代の覇者となれると言われている。世界中の歴史を紐解いていくと、世界を手中に収めた者の中には、扉を開いたと思しき人物も多くいるらしい。

 ……「らしい」というのは、ここ百年ほどの間は扉が現れたという例がないからだ。もはや

伝説の域になりつつある。

 心の中にある扉を開くためには、鍵が必要になる。その鍵もまた、獣人の誰かの中にあるのだ。鍵は、各一族ごとに定期的に生まれてくる。その期間は種族によって異なるが、一般的に草食動物の一族のほうが肉食動物の一族より生まれてくる頻度が高い。現に狼族で鍵が生まれるのは、およそ二百年ぶりだという。生まれてきた鍵は、その体のどこかに一族を表す文様を宿している。

「流……自分の役割は覚えているかい?」

 泉の言葉に、流は大きく頷く。

「オレは、鍵を守る守護者です」

 背筋を伸ばして答えると、泉は流に頷き返した。

「そう。君は鍵である翼を守る守護者だ」

 扉を開くことのできる鍵は一つしかない。しかし、どの鍵が扉を開くことができるかは、試してみないとわからないという。そのため、扉が現れると他の一族に扉を開かれるのを嫌がる一族による「鍵狩り」が横行する。二百年ぶりに狼族に生まれた鍵は、流の一つ年下の従弟だった。狼族では守護者は、鍵の近くにいる人間から選ばれることが習わしで、翼が生まれたその瞬間に流は守護者となった。

「君は翼を守らなければならない。でもね……」

 泉は一度言葉を切ると、真っ直ぐに流を見つめて柔らかく笑む。

「君自身もまた守られるべき存在なんだよ」

 流も翼も幼い頃から、体術や古武術などの鍛錬を重ねてきた。その師は、泉や水だった。

 獣人は、得てして人よりも身体能力が高い。そのため、奇異の目で見られたり忌み嫌われる対象となることもある。その感情は時として暴力という形で獣人たちを襲うこともある。いくら身体能力が優れていたとしても、集団で襲われては一溜まりもない。そんなときに対抗する術として、獣人の子どもたちは体術や古武術などを学んで武力を鍛える。守護者である流は、他の獣人族から翼を守るという名目もあり、年端もいかない頃から厳しい訓練を受けてきたのだ。

 役割に縛られるのが嫌になって逃げ出したこともあったけど…

 それでも、父はいつだって流を見守り、その思いを受け止めてくれたのだった。

「はい」

 頷く流に泉は笑みを深くする。

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