第2話
駆けていく
靴をしまって、ふーっと息を吐くと後方から強い甘い匂いを感じて顔を顰める。振り返ると狐色の髪をキツく巻き、少し濃い目のメイクをした少女と目があった。
「……キッコ……すごい匂いだな……」
キッコこと
「仕方ないでしょ、ココ獣臭いんだもん。獣臭移ったら困る」
真珠寮が他の寮と離れている理由がそれだった。
この世界には、人間とは別の進化を遂げた種族がいる。獣人ーー彼らは、人間と同じように、人間とは違う動物から進化をした。人間は進化の過程で獣の要素は消えていったが、彼らーー獣人たちは、獣の姿と人の姿を自由に行き来できる能力を持ったまま進化した。獣になることができる人間として、迫害されることもあれば崇められることもあった。しかし、その歴史は迫害の時間のほうが長い。かつては日本中に多くいた獣人たちも、今ではいくつかの種を残して消えてしまった。その残された種の子どもたちが、人間社会に馴染むことのできるように学ぶ施設として作られたのが
「あー、なんで
キッコは、ブツブツ言いながら靴を脱ぐと荒く足音を立てながら廊下を歩いていった。
「荒れてるねぇ……」
後ろから声をかけられて、流は一瞬驚きながら振り返る。
キッコの匂いのせいで気付かなかった
獣人は人型でも獣の特性を強く持つため、流も一般的な人に比べると耳と鼻が良い。けれど、キッコの香水の匂いでやられた鼻は、背後の二人の匂いを感じることができなかったようだ。いや、それほど香水が強烈だったということか……。
立っていたのは、流の一つ上の代に当たる三年生の二人だった。少し癖のある濃い茶色の髪で眼鏡をかけたほうが真珠寮の寮長である
「また振られたんじゃない?」
「振られてないし!!」
どこかのんびりした口調で総士が言うのに対して、遠くの方からキッコの叫ぶような声が返ってくる。獣人は総じて耳がいい。かなり離れていても物音や人の声を聞き分けることができる。
「ところで。流は今日食事当番なんじゃないか?」
「そうだった!!」
光太郎の言葉にハッとした流は、慌てて階段を駆け上がる。三階建ての寮は、一階が食堂や談話室、d面会室などの共有スペースで、二階が女子階、三階が男子階となっている。流は階段を一気に上がり、自分の部屋に駆け込んだ。元々は二人部屋だった一室だが、寮生の少ない今は一人一部屋を割り当てられて使っている。部屋に入ると、流は使っていないベッドの上にポンと鞄を放る。ついでに、脱いだ制服もポイポイとこちらは使っている方のベッドに放っていく。
「った……」
……と、誰もいないはずの部屋に低い声が響いた。
……
「お前、なんでいんの?」
流が少し呆れて視線を向けた先には、一つ下の
返事が返ってこないことに小さく息を吐きながら流はスエットに袖を通す。翼が流の言葉を聞かないのは、今に始まったことではない。あっさり無視をして着替えを続けていると、のそりと起き上がる気配がして目をやる。すると翼は無言で流の側に寄ってきた。翼の身長は、流よりも少し高い。少しだけ見上げるように目線をあげると、ぴこぴこと動く獣の耳が見えた。鼻の頭をかぷりと
翼の頭をわしゃわしゃと撫でて流はさらに深く溜息を吐く。
「それ、外でやるなよ?」
狼の獣人である流たちにとって、甘噛は実家にいた頃から当たり前とも言える習慣だけれど、ここではそうはいかない。
「……やらない」
「よし」
再びわしゃわしゃと頭を撫でると翼は気持ちよさそうに少しだけ目を細めた。よく見ると、頭の上の獣耳と艶のあるふさふさの尻尾がぴこぴこと揺れている。機嫌がいい証拠だ。
獣人は子どもの頃は人型と獣型のどちらかにしか姿を変えることができないが、成長するにつれて人型で獣の特性が強く出た獣人型に変化することができるようになる。これを獣人たちは、半獣化と言う。多くの場合、耳と尻尾を残した人型をとる。人よりも強く、獣よりも自由だ。獣人たちにとって獣人型は、人型よりも開放的でリラックスできるので自宅では獣人型で過ごす者も少なくないと言う。
「で?なんかあったのか?」
どちらかと言わずとも寡黙なタイプの翼は、流の言葉に小さく首を振る。
別に何もない。でも……
「ここが落ち着く」
流よりも一つ年下の翼は、学院に入学してまだひと月ほどだ。慣れない環境や新しい人間関係に翼なりに気を使っているのかもしれない。流自身も入学したばかりの頃はそうだった。
それまでは人里離れた山里の小さな集落で、ひっそりと暮らしていたのだ。自分たちの暮らす地区には学校がなかったので、小中学校の頃は少し離れた別の集落まで通っていた。と言っても、流たちの住んでいたところよりも多少住人が多いというだけで、その集落もまた山の中にあった。一学年一クラスの小さな学校から、一学年五クラス以上ある学校へと進学したのだ。最初の人間関係を作るのが一番大変だろう。
無理もないか……と、流が小さく息を吐いた瞬間。翼の言葉が続いた。
「この部屋程よく散らかってるから」
……ほう?
部屋を見渡すと、確かに読み終わったマンガや本があちこちに積まれていたり、使ったあとのヘッドホンが机の上に置きっぱなしになっていたり、洋服が椅子やベッドの端に引っ掛けられていたりする。……が、しかし。しかしだ。
「散らかしてるのは半分くらいはお前だろ」
昨日ベッドに寝転んでマンガを読んでいたのは翼だし、その前に部屋に来た時に音楽を聞きたいと言って流のヘッドホンを使っていたのも翼だった。椅子にかけられているカーディガンは、寒いと言って翼がクローゼットから引っ張り出して着ていたものだし、何なら床に落ちているスウェットは翼のものだ。
「自分の部屋使えよ……」
溜息とともに流が言うのも翼は右から左で聞いてはいない。子どもの頃から、流の言うことだけは素直に聞かない。「流には甘えてるのよ」とは翼の姉からの声だが、その甘えを一身に受ける身にもなってほしい。弟のように可愛がってはいるけれど、場所と回数をわきまえるということをそろそろ覚えてもらいたい。
「まぁ……そのうち」
言いながらゴソゴソと布団に潜り込んでいく姿に、着替えを終えた流は再び溜息を吐く。
「オレ、当番だから下降りるぞ。部屋出るときは電気消せよ」
そう言って流は部屋から出た。
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