月に吠えるは狼か

七海月紀

第1話

 闇に浮かぶ満月。

 高台らしいそこは、公園のようだった。目の前に立つ相手は、眼下に広がる町並みと大きな月を背に負っている。口元がニィッと笑みの形になると唇の端から獣の牙が見えた。

「扉が現れるよ。……君は大切なモノを守ることができるかな?」

 その言葉に、ながれはなぜだか背中を冷や汗が伝うのを感じた。頬を撫でる風が生温くて気持ち悪い。目を逸らしたいのに、金縛りにあってしまったかのように視点が固定されて動かすことができない。色素の薄い自分の髪が、汗ばんだ頬や額にペタリと張り付く。

 ……気持ち悪い

 上手く言葉にできない。けれど、胸の奥がムカムカして胃の中のものが逆流してきそうな感じさえする。

 満月の光を浴びて、銀色に輝く長い髪が風になびく。逆光で表情はよく見えない。けれど、その声はどこかで聞いたことがあるような気がした。背後でゆらりと揺れた尻尾は、猫科の獣のもののようだった。

 …………?

「目ぇ開けたまんま寝てたのか?」

 大きくぱちぱちと瞬きをすると、前の席に座る由稀ゆきが呆れたような目でながれを見ていた。ホレと差し出されたプリントを流が受け取ると、由稀は小さく首を傾げながら体を教卓の方へと戻す。

「……寝てはない」

 寝ていたつもりはない……けれど

 ……白昼夢?

 でも、夢と言うにはちょっとリアル過ぎた。制服のシャツの背中と手のひらにじっとりとした汗を感じる。額に張り付く髪の毛も気持ち悪い。

 落ち着こう……

 フーっと大きく息を吐いて、目を伏せて静かに呼吸をする。ゆっくりと呼吸をしていると、少しずつ鼓動が静まり思考も落ち着いてくる。

 あれは、夢だ。

 あんな高台にある公園を流は知らないし、眼下に見えた町並みにも見覚えはなかった。ましてや、あんなふうに獣の牙を剥き出しにして笑うような知り合いはいない。

 終業のチャイムが鳴って、担任が出ていくと教室は途端にざわめきが大きくなる。流は顔を上げて軽く頭を振ると鞄を持って教室を出た。部活に向かう者、寄り道の相談をする者、友達同士ではしゃぐ者……。そんな生徒たちをすり抜けて廊下を進み、階段を降りて昇降口へと向かう。

「もう帰るのか?ちょっと下に寄ってかね?」

 下とは学校のある丘を下った先にある繁華街のことだ。あとを追ってきた由稀の問いに、流は「悪い」と返す。

「今日食事当番なんだ」

 流たちの通う青海学院おうみがくいんは、全校生徒の八割近くが寮生活をしている。寮は生徒の特性に合わせて五つある。一番多くの生徒が所属するのが「自治」を寮訓りょうくんとしている金剛寮こんごうりょうだ。学力の高い生徒が所属し「信愛」を寮訓とするのが紅玉寮こうぎょくりょう、運動能力に長けた生徒が所属し「剛健」を寮訓とする蒼玉寮そうぎょくりょう、芸術的な才能のある生徒の所属し「努力」を寮訓とする翠玉寮すいぎょくりょう、そして流が所属しているのが「自律」を寮訓とする真珠寮しんじょりょうだ。各寮それぞれ寮訓に則った特色のあるルールが存在するが、真珠寮のそれの一つが『食事当番』だった。

「そっか。じゃあ、また次誘うわ」

「おう」

 校門を出たところで由稀に手を振り、流は人の波とは反対方向に歩き始める。小高い丘の上にある学校を出て、丘を下り道なりに進む。しばらく歩くと見えてくる古めかしい門扉もんぴが、流の暮らす真珠寮だ。学校の敷地内にある森を挟んで、ちょうど校門とは真反対の位置にある。他の寮は校門を出てすぐのところにあるけれど、真珠寮だけは少し離れてあった。理由は、真珠寮が一番最初に建てられた古い寮だからと言われているけれど、本当のところはそれだけではない。

 ギーッと鈍い音を立てる門を押し、砂利道を歩くとすぐに玄関にたどり着く。真珠寮は寮と言うよりも古い木造家屋と言ったほうがぴったりくるような外観だった。流は時代を感じさせる引き戸をカラカラと開ける。

「ただいまーー」

 玄関に入り、流が靴を脱いで小上がりに上がろうとすると……

 ダダダダダッと激しい足音を立てながら黒い子猫が流の方にやってきた。よく見ると何かに追われているようだ。子猫は流の前で飛び上がると空中でくるりと前回りをする。……と、子猫は艷やかな黒髪の吊り目がちな少年へと姿を変えた。

「っと!」

 正面からぶつかるようにしがみつく少年を流は優しく抱きとめた。胸の辺りにぐりぐりと頭を擦り付けてくるのが庇護欲をそそられる。

千奈ちな結奈ゆな、ほどほどにしてやれよ。圭斗けいと嫌がってるぞ」

 黒い子猫を追っていたのは、二匹のハムスターだった。ハムスターも流の前でくるりと飛び上がると、その姿を二人の少女に変える。栗色の髪を肩の辺りで切り揃えた双子の少女たち。一人は手にセーラー服を、もう一人はプリーツスカートを持っていた。

「いいじゃん!絶対似合うよ!」

「そうそう!むしろ、今しか似合わないと思うよ!」

 二人はほぼほぼ同じ声音で、ずずいっとセーラー服とプリーツスカートを圭斗の方へと差し出す。それを見た圭斗は、恐れをなしたように流の背中に隠れてしまう。

「そういうのは、着たいヤツが着ればいいんじゃん。無理に着せるもんじゃないだろ?」

 流は視線を圭斗に移して問う。

「圭斗、あれ着たい?」

 圭斗は首をぶんぶんと横に振る。あまりに勢いよく振るせいで、その艷やかな黒髪がさらさら揺れた。

「だって」

 流が千奈と結奈ににっと笑みを向けると、二人はキーッと小さく地団駄を踏む。

「だって、だって、見たいんだもん!」

「絶対、絶対、可愛いんだもん!」

「ダーメ。人が嫌がることしてると、嫌われるぞ」

「「やだーーーー嫌われたくないーー」」

 流の言葉に二人は途端に眉を八の字にする。

「だろ?ひとまず今日は諦めろ」

 流が二人の頭をぽんぽんと軽く撫でると、二人は「はーい」としおらしく返事をして、渋々圭斗から離れた。二人が去ると圭斗は安心したようにあっと言う間に玄関から飛び出してどこかへいってしまう。

「暗くなる前に帰って来いよー」

 流の言葉に、圭斗は手を振って答えた。

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