殺しの覚悟と、事態の終結


 無情の貌で見下ろしてくる七夜に、ウルドは乾いた笑みを向ける。


「堪えるなよ、我慢するなよ、溜め込むなよ。本当は今すぐにでも俺のつらをぶん殴りたいんだろう?」


「――なんだ。よく分かってるじゃないか」


 零れた言葉には、それまで七夜が抑え込んでいた感情が多分に含まれていた。


「さっきからあんたの生い立ちだの過去だの聞きたくもない話を長々と聞かされて、余計に苛立ってたが……言わなくても解るよなぁ、俺のこの感情の理由を」


「どうだかな。ウチの〝商売相手〟にお前の大切にしてる女でもいたかよ。そりゃ気の毒だが、生憎と俺たちはここの連中に無理を通させてまで〝商売〟してるわけじゃねぇ。女どもは全員、自分の意志で身体明け渡して――」



 そこで、反射的にウルドは口を噤んだ。噤まざるをえなかった。

 ただ言葉を遮られたからではない。


 これ以上何かを話せばと錯覚してしまったからだ。


 ウルドだけではない。少年のすぐ傍らにいたシェリアもまた、至近の距離で七夜の殺気を感じ取ったために、肌を粟立たせて咄嗟に臨戦の態勢を取ってしまった。

 だが即座に、自分に降りかかったのは単なる〝余波〟でしかなく、濃度の殆どは正面の男へと叩きつけられているのだと分かり、身体の緊張を解いた。


 シェリアの見ている先で、七夜がウルドへと一歩近づく。


「俺が徹頭徹尾許せないでいるのはな、あんたたちが多くの人間から、不当に、理不尽に、奪い搾取し続けてるからだ。それ以外の何かに、今の俺の心が逆立つ事なんてねぇんだよ」


 怒気を帯びて鋭い眼差しを注ぐ七夜の背後に、ウルドは黒いもやを見た。そして同時に……彼は己の目を疑った。


 その黒いもやが、漆黒のドレスと長髪を靡かせ、傾国の美を湛えて笑う女の姿を象ったように思えたから。

 だが瞬きを一つした後にはもう、そんな幻視など綺麗さっぱり消え去っていた。


 呆然として固まるウルドの眼前で、七夜が男と目線の高さを合わせるかのようにしゃがみ込んだ。

 ふかい闇を揺らめかせる黒瞳が至近距離からウルドの意識を射貫く。


「確かにあんたは、自分を蔑ろにされ続けた挙句、元いた場所から問答無用で切り捨てられて……そのせいで色んな連中に恨みを抱いてるんだろう。でもな」


 そこで。

 声の圧が、数段深まる。


「あんたが何かを不当に奪われたとして、それが、あんた自身が誰かから何かを理不尽に奪っていい道理にはならねぇんだよッ!!」


 威の込められた言葉は、広場一帯に伝播した。

 珍しく声を荒げた七夜に、シェリアは少しだけ驚いた目を向ける。一方でウルドは暫し硬直した後、その貌を険のあるものへと変え、力を振り絞って起き上がりながら口を開いた。


「え……偉そうなこと言ってんじゃねぇよクソったれがぁ! いちいち癇に障ってくる野郎だなテメェは! 俺が連中から何を奪ったって俺の勝手だろうが! 奪われた者は奪い返す、それが出来ねぇ奴は別の人間から代わりに奪う! それがこの世界の道理、条理、常識なんだよ! そんな綺麗ごとばっか言えんのは、テメェが異世界から来た余所モンだからだ! こっちの世界に生きてりゃ、いずれテメェもそんな腑抜けたことは間違っても言えなくなる! 絶対にな! 俺の命まるごと賭けて断言してやるよ!」


「へぇ」


 低い声、繕いのない虚ろの目が、ウルドに降る。


「なら今のあんたの言葉、しっかり覚えておこうか。俺がこの先、誰かに何かを奪われたとして、その報復の矛先を無関係の誰かに向ける事があれば、あんたの言い分は正しいって事になる。でももしそうじゃなかったら……その時は、あんたを殺しに行く」


「……ハッ。覚悟のねぇ文句は吐かねぇ方がいいぜ?」


 そのときウルドが浮かべた笑みは、それまでの厭らしさを含んだ歪みのあるものでありながら――

 どこか、七夜に対する憐憫を孕んでいるように思えた。


 男の言葉に、七夜は目を眇める。


「どういう意味だ」


「テメェは人を殺せねぇだろ? ナナヤ=シバ」


 告げられた言葉を受けて、七夜は不覚にも瞠目した。

 表情を変えた七夜に、けれどウルドは今までのように悦びはしない。七夜の人間性を見抜くように、細めた目で以て少年を見上げるばかりだった。


「テメェ自身や、それ以前にそっちの女の戦い方を見ていりゃ嫌でも解った。ナナヤ=シバ、テメェはどうしたって人を殺せねぇ。その覚悟がねぇ。だからその女も不殺を貫いてたんだろうがが。そこにどんな大義名分があるかは知らねぇけどな――そんな事じゃこの先、この血生臭ぇ世界は生きていけないぜ?」


 それは決して挑発紛いの言葉などではなく、どこか本意を伴った忠言の類いであると、不思議と七夜は思った。

 静寂の中、少年と男の目が合わさる。

 そこに、裏に込められる感情などなかった。投げられた言葉に対する返答。それを口にする側と、待つ側。


 両者のどちらが先に口を開くかは、言うなれば明白だった。

 

「なら、それに関しては俺の命を賭けようか」


 七夜はふと、静かに言う。


「俺がこの先、もしも自分の意思で誰かの命を奪うような事があれば……その時は俺自身の命を、あんたにあげればいいのか?」


「そんなモンいらねぇよ、バカが」


 そう吐き捨てた後、ウルドは笑んだ。


「だがな、言うなりゃこれは俺がテメェに与える呪いだ。テメェはこの先、殺しの選択を幾つも迫られる。その度に頭ん中に俺の言葉が蘇るんだ」


 そう言って男は掠れた声で、それでいて七夜に深く刻みつけるかのように言った。


「不殺は美徳でも何でもねぇ。テメェ自身の徹底的な弱さだ。その弱さが、他でもないテメェ自身から何かを奪うだろうさ。それが嫌なら、今のテメェの甘ったるく腐り切った温い性根、とっとと捨てちまうんだな」


 クッハハ、と乾いた笑いを洩らしてから、ウルドは再び仰向けに倒れ込んだ。

 いよいよ顔からは血の気が失われ、蒼白を超えて土気色になりつつある。魔力欠乏による影響と右手からの大量失血が原因なのは明らかだった。


 七夜は暫し、死に体のウルドをただ黙って見下ろしていた。

 このまま放っておけば、いずれこの男は死ぬ。どんな形であれ、死を見過ごせばそれは殺しと同義だろう。

 今しがた言われたばかりの言葉が脳裏で反芻される。殺しに対する覚悟の無さ。殺しを成せない甘さ。それが自分にあると、当然、七夜も解っている。


 ――仮に自分が誰かを殺すとすれば、その時は、自分がその者に殺された時だけ。


 そんな破綻した倫理思考が、今も七夜の中には在る。自覚として持っているその理念を踏まえ、その上で考える。


 もしも実際にに直面した時、果たして自分は、本当に殺しの引き金を引けるのだろうか、と。


「―――、」 


 おもむろに、右手を持ち上げる。

 そうして地に横たわっているウルドへと、掌をかざす。


「……ナナヤさん?」


 その行為を見止めたシェリアが伺いの声を向けてくるが、七夜は何も返さず、静かに魔力を励起させた。

 螺旋を描いて立ち昇る漆黒の粒子が七夜の右手に収束する。――『人を射殺す黒の魔法ヴァラルガンド』。『ノード』の代名詞であり、七夜の最も得意とする魔法。


「……クハッ。面白れぇ、テメェにやれんのかよ」


 夜闇よりも尚深い黒の魔力光に照らされながら、ウルドは嗤う。そこに、死に対する恐怖など微塵も感じられなかった。


 ただひたすらに魔力を凝集させながら、七夜は目を細める。魔法を放とうとして、惑い、そうして生まれた間の中で、浅く溜め息を吐いた。


 それが答えだった。覚悟が定まっていれば、そもそも惑う事さえないのだから。


 七夜は右手の魔力を霧散させる。その姿を見たウルドは、仰向けに転がったまま、途端に甲高い声を響かせて笑った。


「クハッ、クッハハハハハッ!! そうだ、そうだよなぁ! 殺せるワケねぇよなぁ! がテメェっつー人間の本質なんだ。やっぱテメェはどこまでも甘ちゃんなんだよ!」


「……、」


「いいか、それはテメェにとっての、どうしようもないほどの弱さだ! その弱さはいつかテメェの足を掬う。その甘さがいつか命取りになる! 徹底的に後悔した後で、自分の弱さを呪うんだなぁ!!」


「……ご忠告どうも」


 嘲りを向けてくるウルドに対し、七夜はどこまでも落ち着いていた。

 冷えた眼を浮かべ、無感情に相手を見下ろす少年は、やがてその場にしゃがみ込み、男と視線の高さを合わせる。


「ただな、あんたに言われるまでもなく、そんな事は解ってんだよ。は俺の弱さで、この世界で生きていくにはどうしたって要らないもので、あんたの言う通り、持ち続けてたらいつか俺から大切な何かを奪っていきかねない類いのものだ」


 淡々と、七夜は言う。


「けどそれと同時に、は俺が、真っ当な人間で在り続けるために必要なものなんだ。今まで散々な地獄を経験して、色んなものを捨て去った俺に辛うじて残ってる、昔の俺の名残……これを捨てちまったとき、俺が丸っきり違う人間に変わるのは目に見えてるんだ」


 だからその一線は越えないのだと。

 それはまるで独り言のようだった。


 七夜はうっすらと微笑んでいた。

 自嘲と、自身に対する憐憫を多分に含んだその笑みは、それまで目の前の少年を徹底的に笑っていたウルドの情動を、また別の意味で刺激した。


 その微笑みを見た瞬間、彼は反射的に身を起こし、少年の胸ぐらを掴んでいた。


「――自惚れんなよ、クソ野郎が」


 自慢の金髪が降り乱れるのも構わず、ウルドは七夜に迫る。

 男と少年の顔が、鼻先数センチの距離で向かい合う。


「さっきは笑って、今は怒って……あんた忙しい奴だな」


「うるせぇ! いいか、俺の命をテメェのエゴに付き合わせてんじゃねぇよ。テメェが真っ当で居続けるために必要だぁ? ハッ、ふざけんじゃねぇッ! 俺たちはテメェの自己満足を埋めるための道具なんかじゃないんだよ! ……そもそもな、テメェはもう真っ当な人間なんかじゃねぇ。とっとと自覚しろよ。いつまでも手が綺麗なままだって勘違いしてやがるんなら、その腐った頭ぶん殴ってやるからよぉッ!」


 怒気を孕んだ声が広場に響き渡る。

 その言葉とは裏腹に、ウルドは七夜へ手を挙げようとしない。実際に殴る意思がなかった事は、人の気に敏感なシェリアが何ら微動だにしていなかった事からも明らかだろう。


 鋭い剣幕で詰め寄る男に、しかし七夜は何も返さない。微笑みを収め、ただ無感情にウルドを見下ろすばかりだった。


 自分が真っ当でないと、とうに自覚している目。

 正気と狂気の狭間を行き来している者の、底の見えない深い目。

 見ていればどこまでも吸い込まれそうな、それでいて見る者を拒絶するかのような、光のない空虚な目。


 その目を見たウルドは数瞬言葉を失い、そうして舌打ちを一つ鳴らした後、七夜の胸元から乱暴に手を離した。


「クソったれが……おい、そこの女、シェリアって言ったか?」


 唐突に意識の矛先を変えたウルドに、シェリアは眉一つ動かず応じる。


「はい、何でしょうか」


「お前、とんだご主人様に付いてきちまったな。この先、お前が負う苦労を思うと泣けてくるぜ」


「ほう」


 ウルドの言葉に、シェリアは底冷えするような声で言う。


「私の主を愚弄しますか。ならば今度は左手の指を全て斬り落として差し上げましょうか」


「勘弁してくれ。いい加減、死ぬほど身体が重ぇんだ。抵抗できねぇ」


 そう言ってウルドは大きく息を吐き、また仰向けに寝転がった。

 しばらく夜空の星々をぼぅと眺めていた後、視線だけを七夜へと差し向ける。


「おい、ナナヤ=シバ」


「何だ」


「全部が今回みたいに上手くいくわけじゃねぇ。テメェの言葉を借りるなら、テメェが違う人間に変わっちまう時は必ず来る。その時、テメェがその内に抱えてる大切な何かを取りこぼすような事がねぇ事を、祈っててやるよ」


「へぇ」


 告げられた言葉に、七夜は素直に驚いた様子で口端を上げた。


「優しいんだな、あんた。徒党の頭目なんざやってないで真っ当に生きれば、今からでも人生やり直せるんじゃないか?」


「ふざけんな。想像しただけで反吐が出る。……それにさっきも言ったろ。俺にとって、ファミリーを率いる事こそが今の全てなんだ」


 そう言ってウルドは気怠そうに立ち上がり、周囲に倒れ伏している者達のもとへと向かう。そして気絶して動かない男たちの一人ひとりに治癒の魔法を掛けてゆく。


 どうやら使える回復魔法は低級のもののみらしく、最低限の止血だけが行われる。


「あぁ、クソが。これほぼ全員じゃねぇかよ。こりゃ徹夜コースだな」


「おい」


 そんなウルドの背に、七夜は声をかけた。


「あ、何だよ。こちとら忙しいんだ。これ以上テメェと話す事なんざ……」


「一つ聞かせろ。―――あんたが持ってたこの精神支配の魔導具、これはどこで手に入れた?」

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