少年は嘲り、そして嗤う
『リィリス』
『―――はいはい』
心の中でその名を唱えれば、七夜にしか見えない漆黒がどこからともなく現れ、絶世の美女の姿を取った。
舞うように出現したリィリスは、純黒のドレスを靡かせながら七夜のすぐ傍らに浮いて留まる。
『なかなか呼んでくれなくて、お姉ちゃんってば寂しかったわ。もう一人で頑張る時間は終わりかしら?』
『そうじゃない。まだ何も手出しはするな。……そこで見てくれてるだけでいい』
『あら、可愛い事を言ってくれるのねぇ』
艶めく笑みを湛え、そうしてリィリスの宙に浮遊したままに、スリットから覗く美脚を惜しげもなく見せつけるかのように足を組む。大人しく控えて傍観に徹する彼女に一瞥を送った後……七夜はその双眸に明確な苛立ちを乗せて正面へと向き直った。
そう――七夜がその貌に浮かべていた険しさの正体は、単純な怒りであった。
胸中の感情を隠そうともしない少年に、リィリスは呆れた様子で口を挟む。
『ただ、何はともかく落ち着きなさいな。不機嫌になるくらいならとっとと割って入れば良かったでしょうに。今のナナヤくんが抱いている感情の半分くらいは、ここまで静観すると決めたナナヤくん自身のせいよ』
『分かってる。わざわざ言うな』
ぶっきらぼうに返した七夜は心のざわめきを鎮めるべく、息を薄く、長く吐き出した。
そうして惨状と呼ぶに相応しい周囲の光景に改めて視線を巡らし……最後に、この状況をたった一人でつくり出した少女を見やる。
――シェリアと目が合う。
彼女はその端麗な顔に一抹の驚きを滲ませて七夜の方を見ていた。いろいろ疑問に思っている事があるのだろうが、ここで呑気に言葉を交わしている余裕などない。
ただ、と。
七夜も
この場において起きた、今に至るまでの一連の出来事を思い返し、彼女が迎えた大きな変化に、七夜もまた驚きを感じていた。
以前までの無機質で空虚だった目とは違い、いま七夜へ向けられているのは、間違いなく人間として在るべき眼だった。
人形、奴隷、傀儡、そう自身を蔑んでいた彼女はもういない。
混乱の最中にあった戦場に生まれた、ほんの数秒程度の静寂。
それを破ったのは男の声だった。
「……ナナヤ=シバぁ……」
「ん?」
絞り出すような声で名を呼ばれ、七夜は素直にそちらを見る。
向いた先にはエルビーアファミリーのボスであるウルドがいた。派手な金髪はボサボサに乱れ、自慢の白コートは砂埃と血で汚れ……シェリアによって右手の五指を斬り飛ばされた彼は、信じられないものを見るかのような目で七夜を睨み付けていた。
散々な姿になった男を視界に入れた途端――一度は鎮めた苛立ちが再び湧き上がってきて、だからこそ七夜はその情動に任せて珍しく笑った。
「……よう、随分とみすぼらしい格好になったなぁ。悪趣味と洒落っ気を履き違えてゴテゴテに着飾ってるより、今の方がよっぽど裏町の人間っぽくて、俺は好きだぞ?」
「お、お前、なんでそんな……縄で縛って動けねぇようにしてたのに……」
「あ? なに言ってる。縄で縛られたくらいで大人しくなるのは魔法を使えない無能力者くらいだろ。つーかあんなもん、そもそも時間さえかけりゃ非力な子供にだって解ける。あの程度の拘束で満足ってのは、さすがに見通しが甘すぎじゃないのか」
「……は」
放られた言葉に、ウルドは唖然として固まる。
男の間抜けな顔から視線を転じ、その少し離れた位置に立つ少女へと七夜は声を向けた。
「シェリア!」
名を呼んだ直後、彼女の足許へ目線を振る。
さすがと言うべきか、シェリアはたったそれだけの仕草で七夜の意図を察したらしく、地面に転がっていたそれ――黒水晶の魔道具を拾い上げ、素早く投げた。
夜空の闇を背に弧を描いて落ちてくる拳大の物体を七夜は片手で危なげなくキャッチする。
先日にも見た禍々しい代物を胡乱げに見下ろしていると、横合いからリィリスが覗き込んできた。ふるりと揺れる豊かな双丘を堂々と見せつけるような姿勢で、
『……ま、分かってはいたけれど、あの変態妄想クソ野郎の看守長さんが持っていたものと全く同じね。相変わらず欠陥品も欠陥品だけれど。一介の徒党のボス程度じゃ裏社会の売買人との繋がりなんかないだろうし、案外、闇市辺りにも多く流れているのかもしれないわねぇ』
『精神干渉の魔道具……明らかに使ってる本人もなんか影響受けてるみたいだったが、あの変態妄想クソ野郎のときはそんな事なかったよな? こっちの水晶の方が、反作用があるくらいには強力……って事なのか?』
『残念、逆よ。使う人間に反作用があるくらいには、こっちの方が
『ふぅん』
『……でもここまで酷いと、むしろこれを作った人間に興味が出てくるわねぇ。ナナヤくんもそうは思わない?』
『どうせろくでもない奴に決まってるし興味ない』
そう吐き捨てた後、七夜はじっと目を凝らして黒水晶の〝奥〟を見据えた。リィリスが揶揄うように口を挟む。
『一人でできるの? お姉さんがやってあげましょうか?』
『いい。一度あんたがやってるのを見て原理は分かってる』
言って、体内の魔力を突発的に励起させる。
漆黒の粒子が螺旋を描いて立ち昇り、右手に持つ水晶へと収束する。
「――『
『
そうすればディアメルクでのときと同じく、動力としてのエネルギーを失った水晶は容易く機能の全てを停止させ、薄く発し続けていた光も溶け入るように消失する。
同時に、シェリアによって動きを拘束されていた者たちの、その身に纏わりついていた靄のような光も霧散した。
その変化を見届けたシェリアが、魔法を解除する。縄のような影の束縛から解放された男たちは、一人の例外もなく、その場へと崩れ落ちた。恐らく半数以上は操作を受けていたときから既に意識を失っていたのだろう。
魔道具によって操られ、傷を負いながらも止まる事ができなかった彼らに、七夜は決して同情しない。
そして代わりに抱いた感情こそが、怒りだった。
逆立つ心の矛先を、正しく向けるべき相手へと向ける。未だ呆けて動かないでいる一人の男へと、隠す必要のなくなった苛立ちを注ぐ。
「おい、下衆男。いつまでバカみたいな間抜け面晒してるんだ? いい加減に戻って来いよ。ずっと見てると蹴り飛ばしたくなるんだが。それとも俺に蹴り飛ばされたくてやってるのか? お前は俺の事が好きみたいだしな」
「……な、なんで……どうしてお前が……」
「何だよ」
「なんでお前が、魔法を使える……? おまっ、お前は何の才もない無能なんじゃねぇのかよ! 話が違うじゃねぇか、ナナヤ=シバぁ……!!」
噛みつくように騒ぎ立てるウルドに対し、七夜はあくまで冷たい眼差しを返す。
「勝手に勘違いして勝手にキレられても困るんだが……あぁ、いや。別に勘違いってわけでもないか」
「……何だと?」
「俺が無能なのは間違っちゃいない。多少魔法が使えたところで、徹底的に無能な人間がそうそう簡単に〝有能〟に変われるわけもないだろ」
そうして彼は、今日初めて耳にした一つの言葉を思い出す。
自分が檻の中に囚われていた三年の間に、王国中に広まったらしい自らの蔑称を。
「
卑下も何もない声は淡々としていて、それが逆にウルドから言葉を失わせた。
やがて彼の目が、少年の身から洩れ出る漆黒の粒子を捉える。
空を満たす夜の闇よりも、シェリアの操る影よりもなお深い色の黒が、七夜の周囲に揺蕩う。一般人のものとは明らかに異なる特徴的な魔力光は―――その〝正体〟がいったい何であるか分からないまでも、彼が技能持ちである事実をウルドに知らしめる。
途端。
男の顔が険しさを伴って歪んだ。
「ふ、ふざけんな……何だってんだよお前ぇ……! 技能持ちで魔法が使えるなら、なんで俺たちに大人しく捕まった? 逃げ出そうと思えばいつだって逃げ出せたはずだろうが! 本当はお前は〝持ってる奴〟で、だからどうせ裏で〝持ってない俺〟の事を嗤ってたんだろ、そうなんだろッ!!」
癇癪を起こしたようにウルドは声を荒げる。
乱れた金髪をさらに振り乱して喚き立てる男が……七夜には、どうしてか酷く惨めで哀れなように見えて。
だからこそ。
「――だったらどうした?」
少年は、心の底から嗤った。
徹底的に、純粋に、獰猛に、口端を吊り上げて相手を嘲り嗤った。
「目を付けた獲物が、自分の思い通りにできる扱い勝手のいいお人形じゃなくてガッカリしたか? 元からあんたの抱き枕になるつもりもなかったが、さっきのアホ面を見れただけで、散々ぶん殴りたくなるのを我慢した甲斐があったってもんだ」
明確に相手を挑発する言葉。
怒気を露わに鋭い剣幕で七夜を睨み付けるウルドと、どこまでも冷然とした鋭い双眸でウルドを
暫しの静寂が両者の間に落ちる。
「……止血した方がいいんじゃないか? 待っててやるから回復魔法でも何でもかけろよ。そうしなきゃあんた、遠からず死ぬぞ」
右手の指から絶えず血を流し続けている男に、七夜は言う。
しかしウルドは魔法を使う事なく、懐から手巾を取り出したかと思えば、それを右の手先に乱暴に巻きつけた。
真っ白だった布は、すぐに赤く染め尽くされる。
「分かるか?
唸るようにウルドは言った。
「分からねぇよな。何もかもを持ってるお前らみたいな連中には、理解できないだろうよ」
その言葉に。
七夜は何も返さなかった。表情すら変える事なく、こちらをねめつけてくる男の顔を見る。
ただ。
その言葉で。
七夜は少しだけ理解できた。いま目の前にいる男が向けてくる、明確な憎悪と嫌悪の理由を。
「……もしも俺があんたに向ける感情があるとすれば、それはきっと同情しかない。でも俺に、その〝唯一〟をあんたにくれてやる道理と義理はない。それくらいは分かってるだろ。だったらわざわざ理解を求めてくるなよ。かまってちゃんなのか、あんた?」
「ッ。馬鹿にするなよ、
低い声が響く。
そうしてウルドは七夜から一度視線を外し、近くに落ちていた長剣を拾い上げた。
左の手で柄を握り、その切っ先を真っ直ぐに七夜へと突き付ける。
「……たくさんの人間を率いる奴ってのは、どんな時だって立場と意地を秤にかけさせられる。そんでどんな時だって前者を選べる人間になれと、俺は
けどな、と。
剣を構えた男は続ける。
「たまに思うんだよ。立場も意地も、結局は連結してるもんなんじゃねぇかって。立場を貫かなきゃならねぇっつー意地があって、意地を貫かなきゃならねぇっつー立場があって……。どっちかを選んで、その選ばなかった方に後悔を抱くくらいなら、二つを丸ごと選べるような人間になりゃあいいんだって」
それは七夜に向けた言葉のようで、実際は淡々と紡がれる独り言にしか聞こえなかった。
一方で、やはり。
七夜はただ、黙って相手へ視線を注ぐばかりだった。そこに生じる声は一つとしてない。
―――己へ差し向けられる少年の眼が何を思っているか、恐らくウルドには分からなかったろう。
だからこそ決して刃は納めず、次の瞬間には、猛然と駈け出していた。
白コートの裾を大きくはためかせながら男は少年へと肉薄する。
素早く振りかぶられた刀身が、夜空の月光を受けて鈍く輝き、それに対して七夜が返すものはしかし、冷徹な瞳のみ。
長剣を振り下ろすなか、ウルドは目を瞠る。どうして動かない? と。
その疑問に応じたのは、音と、衝撃だった。
キィン、という澄んだ音が響き、その清冽さにそぐわない激しい衝撃が、ウルドの身を軽々しく吹き飛ばす。
「な……ッ!?」
驚愕の後、ウルドは自分と七夜の間へ割り込んできた存在へと、険しい面持ちを叩きつけた。
反して。
「―――シェリア」
その名を呼んだのは、七夜だった。
影を踏み越えて姿を現した少女は、間近で聞こえた呼び声に、言葉ではなくナイフの煌めきで応じた。
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