〝する側〟と〝される側〟


 ――自分のなかに在る刃を自覚したのはいつだったろう。


 ふと、そんなことを考えた。

 少なくとも今この瞬間ではないということは、彼女にも分かっていた。


 もっと昔の時点で、シェリアは己に発現した〝ツヴァイフェルトの刃〟を自覚していた。そして恐らく彼女にとって、〝発現〟と〝自覚〟は同時だったのだ。


 だとすれば、それはあの時以外にない。

 父親に連れられて訪れた招宴で、三人の衛兵から犯されかけた五年前の記憶が蘇る。


 あの時――されるがまま男たちに組み伏せられ、欲望の捌け口となりかけた寸前、シェリアのなかに何かが生まれる感覚があった。そうして気が付けば、ナイフの一本すら持っていなかった彼女は、ただの手刀で以て衛兵三人の喉を掻き切っていた。


 危機に見舞われた際、人は並外れた力を発揮する。それまで不思議なほど何の力も体得できなかったシェリアに、突発的に暗殺者としての才が発現したのも、そういった類いの理由だろう。


 己が手で殺した者たちの血を全身に浴びながら、シェリアは自身の内に生まれた刃を自覚した。

 ……これでやっと、これでようやく、父親の期待に応えられる。そう思わなかったと言えば嘘になる。ほんの些末であれ、心の隅にそんな思いがあったからこそ、目の前で遠ざかってゆく父の背に絶望を抱いたのだから。


 刃はずっと、シェリアのなかに在った。それを抜き放った今、もう父の声に幻影を視ることはない。

 

 奇妙な話である。シェリアにとっての〝鞘〟は、きっと最初からあの男ではなかった。だとすれば今まで彼女の刃は抜き身のままであり、数年に渡って放置された鋼は例外なく錆び付いてしまうものだ。


 にも拘わらず。

 おおよそ五年ぶりに抜かれたその刃は、一切として鈍ってなどいなかった。



     *




 シェリアの双眸が揺らぎなくウルドを射貫く。

 光のない漆黒を湛える瞳に見据えられた男は、少女が疾駆を開始した瞬間、咄嗟に叫んでいた。


「止めろ、お前らッ!!」


 唐突に広がった号令に、全ての者が即座に対応できたわけではない。だが少なくとも、ウルドの左右に立つ二人の射手は彼の言葉にすぐさま反応し、流れるような素早い動作で矢を放った。


 真正面から飛来する矢は一見すればただの点としか認識できない。それでもシェリアは、自分を狙って放たれた二本ともをその手に握ったナイフで正確に斬り落とした。


 一閃によって断ち切られた残骸すら置き去りにして迫り来る存在に、ウルドは数瞬瞠目したものの、すぐに表情を持ち直して口許に笑みを覗かせた。


「ハッ、途端におっかなくなりやがって……だが何も状況は変わらねぇだろ。たかが一人、たかだかナイフ一本で何ができる!」


 ウルドが数歩だけ後退する。そうすれば彼とシェリアとを繋ぐ直線状に、武器を構えた男たちが何人も割り込んできた。


「殺すなよ。お前らの愉しみが無くなっちまってもいいなら話は別だがな」


 明らかに数で優っている自分たちの戦況的有利を疑っていない彼らは、そんなウルドの言葉を受け、我先にとシェリアへ殺到し始める。


 一対多数。

 常人ならばその数に問答無用で圧倒され、成す術なく蹂躙されるだけの傾き過ぎている状況。


 しかしシェリアは疾駆の速度を緩めない。握るナイフの感触を改めて確認し、立ちはだかる者たちに向けて瞳を絞る。


「――『影を踏み越える魔法ダミラディリア』」


 魔法を発動し、影から影へ刹那の内に移動する。だがこの時、シェリアが〝跳躍〟したのは左右後方ではなく、前方……自分と相手集団との間に空いていた距離を踏み越え、武器を構えて襲い来る男たちの只中へと、その身を投じた。


「うわぁ!?」


 一人の男が驚いて声を上げる。相手からすれば突然自分の眼前に人が現れたのだから当然だろう。

 驚愕した拍子にその者が尻もちをついたのとほぼタイミングを同じくして、幾許か手練れと思しき数名が素早い反応を見せ、雄叫びと共に斬りかかってきた。


 勢いはある。だが迫り来る凶器の殆どが急所を狙っていないことを、シェリアは瞬時に察知する。


 ――甘い。

 否応なしにそう思った。


 刃を手にしていながら彼らには相手を殺す気概がない。今のこの状況さえも、きっと彼らにとっては遊び半分なのかもしれない。


 そう思うと、自分の意識がより深く没する感覚に見舞われた。暗く、昏い、闇の底へと。


 シェリアの瞳が細められる。

 自らへ斬りかかってくる男たちを、その鋭利な双眸で見据える。

 ひと息の間に彼ら全員の首筋をナイフで切り裂くイメージを構築し、そのイメージを実行に移しかけた寸前で……彼女は己の衝動に制止をかけた。


(……危なかったですね)


 自分にかけたを思い出し、シェリアは自身の内側に湧いた余計な殺意を鎮める。そうして一瞬の内にナイフを順手へと持ち替え、今にも自身の肌を切り裂こうと降りかかっていた刃全てを、瞬時にいなす。


「なッ!?」


 シェリアへと襲い掛かっていた男は総じて五名。その全員の得物が例外なく弾き流され、生じた火花が彼らの驚愕に満ちた表情を一瞬だけ照らし出す。


 ――その刹那さえあれば、暗殺者は容易く標的の身体に刃を突き立てられる。


 鮮血が舞う。

 ある者は右腕を斬られ、ある者は左の太股を刺され、ある者は両足の腱を断たれた。自覚の遅れた世界でようやく痛みを感受した者たちが揃って悲鳴を上げながらその場に転がった。


 たった一秒にも満たない時間の中、狙った相手を一人の漏れもなく無力化したシェリアは、血の付着したナイフを無感情に見下ろした後、ぽつりと零した。


「安心してください。貴方たちに私を殺すつもりがないように、私にも、貴方たちを殺すつもりはありません。誰一人として、そちらの陣営の方が命を落とすことはないので、何もご心配なさらず」


「……なんだと?」


 彼女の言葉に反応を示したのは、当然、ファミリーのボスであるウルドだった。武器を握る配下の男たちがまだ何人も控えているなか、唯一丸腰の男は、徒党の集団を掻き分けてシェリアの前へと姿を現す。


「何だそれは、俺たちを舐めてるのか? こっちがお前を殺さないのはただの気まぐれだ、殺そうと思えばいつだって殺せる。お前くらいの上玉なら、こいつらは死体だろうが喜んで抱くだろうからな。……だが、それがお前を思い上がらせる理由にはならねぇだろう。それとも何か、たった一人でこの人数を相手取って、その全員を殺せるとでも言うのか? むしろ全部終わった後にお前が五体満足でいられてるかどうか、そっちの心配をする方が有意義に思えてくるがな」


「……殺そうと思えば殺せる。それは、私も同じです」


 小さな苛立ちを込めて言葉を連ねるウルドに対し、シェリアの物腰はどこまでも静かだった。

 

「ですが、私の敬愛するお方は、どうやら人を殺すことを好まないようなので。あの方の意思に反して己を通すほど、私はあまり我欲というものが強い方ではありませんから……少なくとも、何ら恨みを向ける必要のない周囲の方々を、私が手に掛けることはないでしょう」


 ただし、と。

 淡々と無機質な声に、僅かな空隙が生まれた。


 少女の声が、底冷えする威を孕んで零れる。


「私は今、貴方に対してだけは、明確な殺意を抱いているようです。彼を傷つけ苦しめた貴方に対してだけは」


「は? 何を言って――」



 ナイフの握りは 順手のまま。力みなく立つその姿には、一見して殺意どころか敵意すら感じられない。

 ただ声だけが、聞く者の怖気を誘う暗殺者の静謐な声だけが、彼女が内に秘める殺しの意志を周囲に認識させる。


「誤って貴方を殺してしまわないように。なのでできることなら、周りの方々を片付け終わるまで、私の刃が届かないところへ適当に逃げていてください」


「ッ、」


「忠告はいたしました」


 聞く者の耳にするりと染み入るような音を残し、その少女は再び姿を霞ませた。最も近い位置にいた男に肉薄し、その者がこちらの存在を知覚して武器を振り上げるよりよっぽど速く、シェリアはナイフを振るう。


 ただ、それだけの工程が繰り返されるばかり。結果として残るのは成す術なく刃の餌食となった者たちの血と悲鳴のみ。


 相手の認識の隙間を縫う暗殺者の歩法に、そして常人のそれを遥かに超える素早い身のこなしに、徒党の男たちは誰もシェリアの姿を目で追えない。辛うじて視界の端で存在を捉え、武器を振り回そうとも、次の瞬間には影を通じて全くの意識外へと移動している。


 その光景は、当事者たちからすれば悪夢と同義だっただろう。

 姿は見えず、音も聞こえず、気配すら捉えられず、そうして困惑がようやく恐怖へと移り変わり始めたかと思えば、気付いたときには痛みに襲われてその場に転げているのだから。


 自分たちが囲っていたのは、ただ美しいだけの非力な女ではなかったのか。

 こちらはこれだけ人数がいるのだから、たった一人の女を好き勝手に弄び蹂躙するだけの〝愉しい時間〟を堪能できるのではなかったのか。


 そんな疑問などとうに消え去っていた。行われているのは確かに一方的な蹂躙である。


 だが――〝する側〟と〝される側〟。

 その二つの立場は、きっと最初から変わることなく当て嵌められていたに違いなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る