その刃に赦しを得て


 ウルドを始めとして、徒党の者たちにざわめきが伝播する。

 彼らの目の前で、それまで地面に蹲って微動だにしていなかった少女が、突如として立ち上がり、その両腕を貫いていた矢を掴み引き抜いたからである。


 男のそれとは全く違う、少し強く握っただけで折れてしまいそうな白の細腕から勢いよく鮮血が噴き出す。その光景を見たウルドは思わずと言った風に目を瞠った。


(……なんだ?)


 そこに至り。

 彼の目が、彼女を別人だと判ずる。いま視線の先に立っている少女と、少し前まで自分たちの見世物になっていた少女は、まったく別物だと。


 その一方で、シェリアは何も言葉を発さない。腕や脚から決して少なくない量の血を流しながらも、ただ静かに、ゆらりと立つばかり。

 それも当然である。

 この時のシェリアはどこまでも寂然とした闇のなかに意識を置いており、先刻まで彼女を苛んでいた痛みなど、とうにその身から消え去っていたからだ。


 ――暗殺を生業とするツヴァイフェルト家の教えには、自らの意思で痛覚の一切を遮断するものがあった。


 痛みがあっても、それを感じないように。

 何かに導かれてシェリアの内側から引き出されていたのは、幼少期より父から叩き込まれ、けれどそのことごとくを体得できなかった、ツヴァイフェルトの教え。


 とどのつまり。

 今のシェリアの躰は、心は、意識は、その全てが暗殺者のそれとしてこの場に在った。



     *



 声が、頭のなかで連鎖的に聞こえ続けていた。


 聞きたくなんてない忌々しい男の声であり。

 胸の裡をざわつかせ、それまでどこかへ消えていたはずの悪感情を無遠慮に引きずり回し、無理やりに自覚させてくる、不協和音の類である。

 シェリアはそれらが自分のなかの何かを、シェリア自身の意思に関わらず、強引に変じさせたのだと分かった。


(やめ、て……)


 ざわめきと静けさと。

 その二つが混在して反響を繰り返す歪な音に、シェリアは痛みを堪えるように頭を押さえた。


(やめて、ください)


 その嘆願は当然、脳内に響く父の声に対するものだ。

 絶えず自分の名を呼び続ける声が、否応なしに、かつての記憶を呼び覚ます。


 どれだけ教えを受けようが、何一つとして実にできなかった落ちこぼれとしての記憶である。

 何故、あの頃の自分は父の教えを身に付けられなかったのか。どうしてもそう考えてしまい、同時に、この感情は『ウィドラ』の技能が発現したときのそれとまったく同じだと思い至った。


 けれど。

 父の期待に応えるべく、かつてのシェリアが何を差し置いてでも欲した力は、今の彼女にとっては何よりも忌むべき代物であった。


 暗闇に順応するべく、如何な状況においても乱れないようにと教わった呼吸法も。

 相手の認識よりも早く接近し、その命を刈り取るためにと教わった歩法も。

 肉を切られ骨を断たれようが、何よりもまず標的の喉を切り裂くためにと教わった、痛みを感受する神経の遮断方法も。


 全ては父から与えられたもので、けれどその父は強い厭悪の対象であり。

 ゆえに。

 自分のなかに在る暗殺者としての技術全てが、シェリアにしてみれば忌避を抱いて然るべきものであった。


 血が流れている感覚はある。けれど痛みは感じない。

 周囲に向けて意識を巡らせば、魔力の感知網を用いていた時よりも鮮明に、いま自分を囲っている者たちの存在を知覚できる。

 こちらをただ眺め、警戒もなく立っているだけの彼らをひと息に殺して回るための明確なイメージが、頭のなかで勝手に構築される。


 それら全ては、シェリアの意思に反して。

 まるで今まで頑なに閉ざされていた扉が開いたことで、そこに封じられていたものが一挙に流れ出てくるかのように。


 絶えず呼び続けてくる不快な声の群れが、今の自分に次々と力を与えてきているかのように思えてならなかった。

 だからこそ、シェリアはその声を脳内から振り払いたくて、自らの頭を強く抱え込んだ。


 しかし。


「ッ――!」


 意識が、そして肉体が勝手に反応した。

 咄嗟にその場から飛び退く。直後、それまでシェリアの立っていた場所に矢が四本、立て続けに突き立てられた。


 反射的に視線を巡らせる。ウルドの左右に立っている二人の男が、精密な狙いで以て矢をつがえている姿が目に映った。

 逡巡の間はない。

 刹那の後に射出された二本の矢を、シェリアは未だ空中にいながらその身を捻って危なげなく回避し、そうして音もなく着地した。


 先ほどよりも機敏な身のこなしを見せたシェリアに、ウルドは感心したような色を声に乗せて言う。


「どうした、急に元気になったじゃないか。何か胎のなかでデカい覚悟でも決めたのか?」


 ウルドだけでなく、周囲の男たちもシェリアの纏う空気が変容したことに気付いたのだろう。続々と腰や背中から得物を抜いて構え始める。


 それと同時、先ほどから絶えず頭上で輝き続けている光球が、僅かに明滅を始めたのをシェリアは敏感に察知した。

 いくら生活魔法の一種と言えど、これほどの大光量を常に発し続けるには相応以上の魔力を消費する。そして彼らのなかには、人並み程度の魔力を有する者しかいなかったはずだと、シェリアは最初の魔力感知の段階で把握していた。


 つまりあと少しで光は絶える。そうなればこの〝檻〟に囲われている状況からは容易く脱することができる。

 しかしシェリアの目的は、何よりも拘束されている七夜を助け出すことで――


 そのためには、『ウィドラ』の技能だけでは足りない。、自分の内にある力を使う必要がある。


 けれど。


(ッ、嫌だ……)


 その力はやはり、父からの教えで今のシェリアに備わっているものであり。

 ゆえに彼女は、その力を使うことで――その力に助けを乞うことで、未だに自分があの忌むべき男の存在に囚われているのだと自覚させられるように思えてならなかった。


 心に根付いた忌避感が、再び彼女の足に躊躇いを生じさせる。

 その躊躇いを振り払おうと顔を持ち上げれば、ウルドの背後で無残な姿を晒す七夜の存在が目に入る。


 彼のためならば、何を成そうが構わない。使える力は何だって使う覚悟をした。


(……嫌だ)


 それなのに。

 いいや、だからこそ。


(ナナヤさんのために〝刃〟を使うことだけは、絶対に……)


 王国の暗黒面を担ってきたツヴァイフェルト家。

 その技術の粋は何代にも渡って研ぎ澄まされ、連綿と継承されてきた。


 かつては何ひとつとして力を発現できなかったシェリアにも、その教えそのものは欠けることなく受け継がれている。

 そして、暗殺を生業とする家系が何よりも優先して継承する技は、他でもない暗殺術。誰よりも、何よりも疾く。闇に紛れ、音もなく標的を葬り去る殺しの技。


 シェリアの父は、その技を『ツヴァイフェルトの刃』だと言っていた。


 刃。

 あの家に長年受け継がれてきた技術の総称。


 それを今ならば自分も使える――ゆえにシェリアは、その自分さえも酷く嫌悪する。己のなかに、忌むべき男の存在が血として流れていることにさえ、吐き気を催すほどに。

 彼女にとって、ツヴァイフェルトの名は最早、自分を構成する要素ではない。躰から、心から切り離したくて、けれどどうしても切り離すことが出来ない呪縛の類である。


 だから、その名の象徴たる〝刃〟は使いたくない。けれど使わなければ、自分が傍にいたいと願った者の助けになど、なれはしない。

 そんな葛藤が、シェリアという名の少女を徹底的に苦しめようと牙を剝く。


 ……つらい。


 彼女は思う。

 苦しみに喘ぐ。

 自分の意思を持たず、誰かの命令でのみ動き続ける傀儡でいたならば、決して感じることのなかった苦しみに。


 こんなことならば、初めから考える頭など持たなければよかった。簡単に揺れ動く感情など持たなければよかった。意思の、行動の、それら全ての決定権を他者に委ねたままでよかった。――


 そんな思いを抱いてしまえば、〝彼〟の傍にいたいという強い願いさえも、自分の内側から排斥してしまいかねないから。

 その感情だけは絶対に消すわけにはいかない。

 だからもう、シェリアは自身を傀儡と見下し、無価値な存在と断じて卑屈に染まることはしない。


 ただ。

 それでも。

 だからこそ。


 声が欲しい。彼女はそう願った。

 今の自分を苛み続けている、聞きたくもない男の声などではない。

 シェリアが求める声の主などたった一人しかいない。けれど今の状況においてそれは叶うわけもない。


 その、はずだったのに。



 ――シェリア



「ッ、」


 唐突に聞こえた声があった。

 耳に届いたものではなく、頭のなかへ直接響いた音。思念伝達の魔法による念話だとすぐに分かった。


 視線を転じる。何十人もの男たちが織り成す囲いの外、地面に突き立てられた鉄柱に拘束されている七夜へと。


 その身からは尚もぽたりぽたりと血が流れ続け、服や髪を濡らしている。

 長い前髪に隠れてその表情はとても窺えず、だらんと脱力したその有り様は彼が明らかに意識を失っていることを示している。


 けれど間違いなく、聞こえた声は七夜のものであった。魔力を通じて彼と不可視の線で繋がっている感覚を認識する。それと同時、シェリアは胸中で無意識に言葉を零していた。


『……ナナ、ヤ、さん』


 ――シェリア、それ以上は何も迷うな


 そんな言葉が、即座に帰ってきた。

 脳内に滔々と、求める者の声が沁み込んでくる。反して、それまで彼女の頭を冒していた父親の声は、驚くほどに呆気なくその音を収束させてゆく。


 ――その躊躇いは余計な代物だ。使える力は何でも使う……確かにそう決めたんじゃないのか。だったら何も迷う必要なんてないはずだ


『ッ……で、でも』


 ――


 シェリアの反駁は、強い言葉によって遮られる。


 ――自分の意思でここに来たんだろ。誰に何を命令されたわけでもなく、自分で考えて、自分の足でここに来たんだ。だからもうお前は、自分が都合のいい奴隷や傀儡なんかじゃないってこと、ちゃんと分かってるはずだ


 その言葉に彼女は沈黙を返す。暗闇に揺蕩う意識のなか、抵抗なく浸透してくる声はシェリアの心に静けさをもたらす。

 もう、余計な音は何も聞こえてこなかった。


『……ナナヤさん。私は……』


 ――それでもまだ、お前が何かに迷ってるなら、その迷いがお前の次の一歩を踏み止まらせてるなら、そんな躊躇いを捨てられるよう、俺が欲してやる


 その言葉に。


 初めて彼女は、赦しを得た気がした。


 ――俺はシェリアが欲しい。だから、他でもない俺のために、その迷いを断ち切ってくれ


 自分のなかにある、忌むべき者から教え授けられた力を使うための赦しを。

 不思議だった。七夜はまだ、シェリアの持つ懊悩の正体を、それ以前に彼女の抱える過去すら何一つとして知らないはずなのに。


 それでも彼の言葉は今のシェリアにとって何より必要なものであった。

 決して命令などではない純粋な嘆願は、驚くほどすんなりと彼女の心を縛りつけている〝柵〟に届いた。


 その瞬間、惑いの一切が消え去る。

 もやのかかっていた意識が途端に晴れ、見据えるべきものを見据えるための確かな視界を得る。


 同時に一つの覚悟が定まる。

 自分のなかにある〝刃〟を抜き放つ、そんな一つの覚悟が。


「………、」


 気付けば七夜との間に繋がっていた魔力線は途切れていた。

 彼の声はもう聞こえない。けれど先ほどとは異なり、余計なノイズが彼女の脳内を満たすことは二度となかった。


 深い息をゆっくりと吐き出す。静謐を孕んで広がる闇に身を没する感覚と、光のない真っ暗な水の中を力なく揺蕩う感覚が、共存して彼女の器を満たす。『ツヴァイフェルトの刃』と『ウィドラ』。己を無価値と断じ、何をも持っていないと卑下していた少女が持つ、二つの力。


 おもむろに、目線を横へ振る。すぐ傍らに地面に突き立てられている一本のナイフが目に映った。先刻、ウルドがシェリアに対して投げたナイフである。

 一般的なものよりも刃渡りが短い、本来であれば投擲用にのみ使われるものであろう短剣。


 だがそれで充分だった。その一本さえあればそれ以外には何も要らない。


 あとは、己の躰だけで事足りる。


 地面に刺さったナイフを抜き、拾い上げる。シェリアが得物を手にしたことで、周囲の男たちに僅かながら緊張が走る。多くの者が見ている只中で、少女はどこか手慣れた動きで右手に握ったナイフを逆手に構えた。


 同時、身体の内側に『ウィドラ』の魔力を馴染ませる。シェリアの足許に落ちている影が再び陽炎のように揺らめいたのを、その場にいる全ての人間がはっきりと見た。


 そして。



「―――いきます」



 宣告があった。

 直後、少女の姿をした一人の暗殺者が、闇色の長髪を尾として引き、凄まじい速度で疾走を始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る