聞こえるは呪縛の声


 縄で柱に拘束されている七夜は――その身体から大量の血を流していた。


 鮮血で肌は濡れ、身に着けている衣服や長く伸びた白髪は赤の色で酷く滲んでいる。よくよく見れば、身体中には幾つもの打撲痕や切り傷が刻まれており、惨たらしい暴行を長時間に渡って受けていたのは明白だった。


「ッ、……貴様!!」


 シェリアの口から怒気を孕んだ叫びが放たれる。しかし対するウルドは、唐突に怒りを発した彼女をまるで不可解なものでも見るかのような目で見つめ、その顔には怪訝の色を浮かべていた。


「あ? お前、何をそんなに――」


 言葉は続かなかった。

 ウルドの視線の先で、シェリアの姿が音もなく掻き消える。そうして彼が目を見開いた直後、彼我の間にあった距離を刹那の中で踏み越えたシェリアが、眼前へと迫っていた。


「なっ!?」


 ウルドが驚きの声を上げたと同時、その身がシェリアによって押し倒される。二人の身体が重なって倒れ、シェリアがウルドの胸ぐらを掴んだ状態で彼らは静止した。

 周囲の者は何が起きたのか理解できず、困惑による沈黙が束の間の静寂を生み出す。


 誰もが動けず硬直した空間の中で、一人の少女だけが声を上げる。


「貴様、貴様……! 許さない! 絶対に許さない……ッ!!」


「くっ……生憎と女に組み敷かれる趣味はないもんでな! オイお前らァ!!」


 発せられた指示に、近くにいた男数名が機敏に反応した。

 硬直から解けた彼らはウルドの声を聞くなり、その腰に携えていた武器を各々抜き放ち、シェリアの許へ肉薄した後にその得物を振るう。


 多方向から横薙ぎに振るわれた刃を、シェリアは瞬時にその場から飛び退くことで回避した。馬乗りになっていた姿勢から大きく跳躍し、数メートルの距離を空けて着地して見せる。


「チッ、思ったよかすばしっこい女だ」


 純白のコートに付いた砂埃を煩わし気に払いながらウルドは立ち上がる。そうして気付けば、彼を囲い守るかのように、徒党の構成員たちが円の〝檻〟を狭めつつ臨戦態勢を取っていた。


 誰も彼もが、それぞれ腰に提げていた得物を抜き、シェリアに向けて油断なく構えている。


「今の一瞬でちゃんと俺の首が取れてりゃ良かったのになぁ。だがそのチャンスをものにできなかった以上、状況的には一気に不利になっちまったぜ、お嬢ちゃん?」


 一方でウルドは悠然とした態度を全くとして変えず、短刀の一振りすら取り出そうとしない。己を守る徒党の者たちを信用しているのか、コートのポケットに手を入れさえして、余裕の姿勢を貫き続ける。


「例えお前が魔法持ち、いやいっそ技能持ちだろうが、流石に一人でこの人数を相手取るのは無理難題ってモンだろうさ。月並みな言葉かもしれねぇが、抵抗しねぇ方が色々とすんなり済むことも多いと思うぜ? 少しくらい頭を賢く使ってみようや」


 そう言ってウルドは大仰な足取りで数歩後退し、自らの前に配下の者たちを数名配置した。対して、四方八方を武装した男たちに囲われたシェリアは僅かに体勢を低くし、意識を最警戒モードへと移行させる。


 それと同時、魔力の感知網に神経を集中させ、無数に集っている構成員の中で特に危惧すべき者を瞬時にピックアップする。


 ――その〝作業〟を行ったとき、シェリアは思わずと言った風に怪訝な表情になった。


(……これだけの人数がいて、魔法を扱える人間が思ったよりも少ない? 数としては全体の中でも三割に満たない程度。この程度なら、今の人数比でもどうにか……いいや、だとしても『ウィドラ』の技能にある魔法はそもそも攻撃の面では……)


 巡らせていた思考は半ばで中断された。

 ウルドの指示を受けた男たちが数名、得物を振るってシェリアへと襲い掛かってきたからだ。


 自らへ振りかかってくる幾つもの刃を視認した瞬間、シェリアは反射的に『影を踏み越える魔法ダミラディリア』を発動。すぐ近くの地面に落ちていた影の許へと刹那の内に移動する。


「なっ、消えた……!?」


「いや、魔法の力だ! 瞬間移動か!?」


「だったらもっと遠い位置まで逃げる筈だ! となれば範囲限定系の移動魔法……お前ら円の範囲を狭めろ! この手の魔法は〝狭さ〟が弱点だ!」


 集団の一部から聞こえた声に、シェリアは顔を顰めざるをえなかった。それは無論、相手の口にした言葉が図星の類だったからである。


 ――『影を踏み越える魔法ダミラディリア』。

 自身を軸として一定範囲内に存在する影を、魔力を通して己の影と同一化させる魔法。建物の影であれ、木の影であれ、他者の影であれ、その魔法を行使している間に限り彼女は全ての影を掌握する。


 ただ、一見汎用性が高いように思えるその魔法にも、当然の如く弱点が存在する。


 それが適用範囲の狭さ。

 シェリアが魔法を通じて己の影として掌握できるのは、自身を中心とした半径二〇メートル程度のみ。


 つまり一度の魔法行使による移動はその距離が限界であり、規定された範囲を超える移動には、その都度、追加で魔力を消費しなければならないという欠点がある。


 因みに、シェリアの総魔力量は七夜ほどに高いわけではない。あくまでも一般的。仮にシェリアの持つ魔力量が七夜のそれと同程度だったとすれば、魔法の持つ弱点は弱点たりえなかったのかもしれないが。


 得物を構えた者たちが挙って押し寄せてくる。現在形成されている包囲網は目算で半径三〇メートルほど。二度の魔法行使で〝檻〟を抜けられる計算だ。


「くッ!!」


 その概算ができた瞬間、シェリアは魔法を発動しようとして魔力の密度を瞬時に高める。

 ――しかし。


「ゴア! 光の魔法を使って辺りを照らせッ!」


 ウルドの声が敷地内に響き渡る。

 その指示を受けたゴアという名前らしい男が、即座に命令に従い、右手を空へと掲げながら短い詠唱を唱えて見せた。


 直後、シェリアやウルドの頭上に小さな光球が出現し、辺り一帯へと鮮明な光を撒き散らした。

 敷地外周部に並び立つ屋外灯のそれよりも強い発光。


 使われた魔法は『光を灯す魔法ラティア』。一般人でも行使可能な生活魔法の一種であり、込める魔力量に伴い光量を増減させられる利便性の高い魔法である。


 しかし使用者の持つ魔力を最大限まで消費して用いられたその魔法は、例え生活魔法の類であろうとも、シェリアの視界を一瞬とは言え遮るほどの光量を発した。


 刹那の時間の中、彼女の魔力行使が中断される。

 加えて広場の中央上空を起点として発された苛烈な閃光は、周囲一帯の地面に落ちていた影を瞬く間に消失させた。


(しまった……魔法の跳躍点が……!)


 瞬時に周囲を見渡し、〝現況〟を把握したシェリアが歯噛みすると同時。

 そんな彼女の様子を逃すことなく見ていたらしいウルドが、高らかに笑い声を上げた。


「かっはははァ!! 逃げ場所が無くなって途端に焦ったなぁ! たったの二回だろうがそんだけ見れば嫌でも分かるぜ? お前の技能は恐らく影を媒介に発動する類のモンだろ。そんで一度目の回避時、お前は最も手近な影へと瞬間的にその身を移動させた。たったの一回じゃ核心には至らねぇが、お前は素直に、馬鹿正直に二回目も同じ真似をしてくれた。そんだけヒントを見せられりゃあこっちとしては充分だわなぁ!」


 言いながら、ウルドがその右手を横薙ぎに振るう。すると彼の背後に控えていた徒党の構成員数名がそれぞれ握る武器を振り上げながらシェリアへと肉薄してゆく。


 自らへ振りかかってくる刃を確かな視界の中で見据えながらも、少女は己の魔力に意識を集中させる。

 魔法の適用範囲内に移動できる地点は――ない。今も尚、煌々と輝き続けている光球の影響で、一定範囲内の影がことごとく退けられているからだ。

 どうすればいい――巡る思考の中で考える。


 だが。

 シェリアは、そんな逡巡を抱く自分に苛立ちを覚えた。


 視線を正面へと戻す。無数の取り巻きたちに囲まれて悠然とこちらを見ているウルド。そんな彼のさらに後方に立つ鉄柱に縛り付けられた七夜の姿を、改めてその目に捉える。


「ッ……」


 血に塗れて磔にされているその姿に、シェリアは強く歯噛みし、鋭い剣幕を表情へと浮かべる。

 どうすればなどと悠長に考えている暇はない。一刻も早く七夜を救い出さなくてはならない。


 そんな思考が、またも彼女の頭から冷静さを失わせてゆく。――だからこそ、己が見ている光景のにシェリアは一切として気付けない。


「くッ!」


 頭上から降り注ぐ光の眩しさを半ば無視し、一直線に七夜の許を目指して駆け始める。何の魔法も使っていない、端から見ても無策だということが一目瞭然の行為。


 そんな彼女を見てウルドは分かりやすく落胆した。


「おいおい、急にどうしたよ。たったこれしきのことで無様に特攻かぁ? 拍子抜けさせんなよ……オイお前ら、撃てぇ!」


 放たれた号令を合図に周囲の〝檻〟から十名以上の男たちが円の中へと踏み入ってくる。彼らの手には総じて弓矢が握られており、自らへ向けられる無数のやじりを視認した直後、シェリアは走る足に急制動をかけて瞬時にその場から飛び退いた。


 くうを貫く鋭い音が群れとなってあちこちから聞こえてきた。射出された矢は全て放物線を描き……ちょうど中空に浮かぶ光球と重なるような軌道で降り注ぐ。


(ッ、光が邪魔で矢が――)


 間は無かった。

 不意に立ち止まってしまったシェリアをめがけて夥しい数の矢が落ちてくる。だがその狙いは正確無比というわけではなく、むしろ甘いと言って良かった。


 それが幸いした。シェリアの身体を貫かんとして迫る矢は数ある中でも僅か数本。それを彼女は必要最少限の動きで辛うじて回避する。


 だが、直後。


「ぅぐ……!?」


 全く別方向から飛来した矢が二本、シェリアの右腕と左腕に突き刺さった。

 見れば、ウルドの左右にそれぞれ立つ男たちが洗練された姿で弓を構えていた。大きく動き回ってなかったとはいえ、静止していない標的に狙いをつけて射貫く技量は、射手として相当なものだと分かる。


 つまり一射目として矢を放ってきた者たちは総じて囮で、あの二人による不意打ちが本命だったのだろう。


 両の腕に矢を突き立て、ふらふらとよろめくシェリアを見て、ウルドは肩を揺らして笑い声を上げた。


「はっ、なんだ腕なんかで良かったのかよ。脚を狙って動けねぇようにしてた方が、この後お前らが上で好都合だったんじゃねぇのか?」


「……ボスは、あまり早く〝ショー〟が終わるのが好きじゃなかったでしょう」


 ファミリーのなかで最も長い時間を共にしている男の台詞に、満足げな頷きが返る。


「あぁ、流石によく分かってるな。凌辱嗜好なんモンは微塵も持ってねぇが、〝芸術鑑賞〟は

昔からの俺の欠かせない趣味だ」


 言いながら、ウルドはコートの内側から一本のナイフを取り出し、手慣れた仕草でそれをシェリアめがけて投げ放った。


 完全に意識を外していたために、シェリアは回避が間に合わなかった。だが避ける必要は最初からなかった。投擲された短剣は彼女の身体ではなく服の一部を引き裂き、それによって覗いた肢体に周りの男たちが分かりやすく興奮を露わにする。


 シェリアはそっと拳を握り込む。しかしそれは自分の身体を無遠慮に見られたことによる羞恥などではない。

 その握り拳は吐露しかけた感情の代わりだった。


 油断した。そう言葉を零す時間すら今は惜しい。


 鋭い痛みに顔を歪めながら、己の両腕に刺さった矢を見下ろす。それを抜こうと矢羽に手を掛けようとしたところで、彼女は半ば無意識に躊躇した。


(ッ、どうして……)


 困惑が、彼女の動きを止めた。


 ――監獄に囚われていた五年。いいや、もしかすればそれ以上の歳月。シェリアはほとんど痛みという感覚に触れてこなかった。投獄されるよりも前の彼女は、父親から家柄としての〝教育〟を受け続けてはいたが、それは何も血反吐を吐いて痛みに泣き喚くような類いのものでもなかった。


 そして当然、ディアメルク王立刑務所へ収容されてからも、例えば七夜のように毎日拷問紛いの懲罰を受けるようなこともなく、ただ静かに、シェリアは決して短くない時間を地獄の底で過ごし続けた。


 その弊害が、だった。


 ――痛い。


 感覚に思考が侵食される。突き刺さった矢を引き抜く手に震えが走る。そんな無様を晒す自分が嫌になる。

 不自然なほど唐突に動きを止めたシェリアを見て、ウルドは眉を顰め、しかし右手だけを投げやるように振りながら声を発した。


「やれ」


 その命令に、彼の右隣で弓を構えていた男が間を置かずして矢を射る。射出されたそれは敢えてシェリアの左脚の膚を掠め、傷ひとつなかった白い肌に一筋の赤い線を刻み込んだ。


 糸を切られたかの如く、シェリアが体勢を崩してその場に崩れ落ちれば、周囲の男たちは一層の沸き立ちを見せる。美しい女がいいように弄ばれている姿に、「もっとやれ」だの「俺にもやらせろ」だのと口々に叫ぶ。


「……拍子抜けだな」


 ウルドがため息交じりに言う。


「見るからに技能持ちだったからと構えはしたが、まったくの杞憂だったな。あんまり失望させないでくれよ。……〝持ってる奴〟の力ってのは、そんなしょうもないモンなのかよ」


 どこか苛立ちを含んだ声は、けれど地面へ蹲るシェリアの耳には届いていない。

 両の腕と左の大腿部から血を流しながら、その少女は俯いたまま僅かも動かない。


 ――痛い。


 そんな余計な思考に囚われる自分自身に、シェリアもまた、苛立ちを覚えていた。

 覚悟を決めたはずなのに、躊躇い、踏み止まってしまう自分自身に、失望を抱いていた。


 地に膝をつく彼女の真下には影が落ちている。頭上ではなおも光の球が輝き続け、一定範囲の闇を煌々と退けているが、唯一、己の影だけは足許へと落ちる。


 影。

 シェリアの持つ力。


 しかしその力をどれだけ駆使しようとも、いま彼女を苛んでいる痛みを消すことはできない。

 ……だが、もしも仮に。

 痛みが無かろうが、未だ十全に『ウィドラ』の技能を使いこなせていない自分に、これから何ができようか。


 彼女の中に在る卑屈さが心の表層へと浮かんでくる。


(……嫌だ。弱い私は、でてこないで)


 切り捨てたはずのそれを必死に押し込めようとする一方で――


 心の中。

 まるで湖の奥底から湧いてくるかのような、得体の知れない〝何か〟に、意識の幾許かが引っ張られる感覚があった。


 自分の内側が急速に冷えて没してゆく。心が研ぎ澄まされる感覚とも違う。中へ何かがするりと入り込んでくるかのような――否。


 自分の中から何かが無理やりに引き出されていくかのような、そんな感覚だった。


ウィドラ』の魔力に身を委ねているときの浮遊感とは異なり、深く、尚も深く、シェリアの意識はどこかの〝底〟を目指して沈み続ける。


 そんな時、聞こえる声があった。


 耳の奥にこびりついていて、けれど今まで彼女の耳が閉ざされていたせいで、聞こえていなかった声が。


 ――シェリア。


(……お父、さま)


 それは父親の声だった。彼女を見捨て、切り捨て、地獄の底へと突き落とした男の声だった。


 皮膚が粟立つ。血の巡りが速くなる。

 不意に脳内へ響いた憎むべき男の呼び声に、シェリアは無音の中で激しく絶叫した。


 狂乱する意識のなか、続く言葉が鮮明な音として聞こえた。



 ――ツヴァイフェルトの血を持つ者が、痛みなど、感じるな。



 直後。

 現実の世界へと強引に意識を戻された彼女は、それまでの逡巡の一切を置き去りにして。


 まるで何かに操られているかのような無機質な動作で、己の両腕に突き刺さっている矢を二本とも、ひと息に引き抜いた。

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