影の技能


 ――まだシェリアが、囚人としてディアメルク王立刑務所最下層の牢獄に囚われていた頃。


 己の中に『ウィドラ』という固有技能が発現したのを彼女が知覚したのは、いつの事だったのだろうか。


 泥のような闇が常に心を犯してくる、常人であれば数日と経たずに精神を破壊される地獄のような場所。それでも発狂することなく地獄の中を生きられたのは、幼少期より父から聞かされ続けた言葉があったからだろう。


 ……ツヴァイフェルトの血を持つ者は、闇を恐れるのではなく、闇を隣人とせよ。


 闇との対峙ではなく、闇への順応。

 心を伽藍洞に。そうすれば、自らを侵食してくる暗闇に精神を犯されずに済む。


 深く、深く。どこまでも深く。


 本来であれば、暗闇やそれに類するものは、人間の心へ本能的な恐怖を植え付ける。けれどいつしか、その恐怖が静けさに変わり、それどころか安寧にさえ移ろいかけたタイミングで。


 シェリアの中に、『ウィドラ』の技能が発現した。


 不思議と彼女は、自身の内に生まれた技能が如何なものであるか、発現を知覚したその瞬間に理解していた。

 だからこそ、同時に彼女は数奇とも言えるその〝偶然〟に、いっそ絶望さえしてしまったのだ。


 ――シェリアの生家である、ツヴァイフェルト家。


 そこは表向き、多くの領民から慕われている統治者の家系。王国の南西部に広がる広大な農耕地帯の一部を領地として宛がわれ、民の笑顔と安寧を長年に渡って守り続けてきた、国より伯爵位を賜りし由緒ある血筋の家柄。


 だが。

 その一方で。


 裏の世界における……正規非正規を問わず様々なルートから依頼を請け負い、要人一般人を問わずこれまでに多くの人間を秘密裏に殺害してきた、王国で唯一の〝暗殺稼業〟を生業とする一族。


 王国の影の刃。暗黒面の担い手。


 それらの呼び名もまた、ツヴァイフェルト家を言い表す上で不可欠なものだった。


 そんな家に生まれたシェリアは、当然、幼い頃より貴族としての礼儀作法に加えて『暗殺者』として生きてゆくための教育も施されてきた。そこに年齢や性差による贔屓など微塵も存在しない。ただ優れた暗殺者に育て上げるべく、シェリアの父親は彼女に徹底して技術の粋を叩き込もうとした。


 けれど、シェリアは落ちこぼれで、父からの教えを何一つとして体得することが出来なかった。


 気配を殺すための呼吸法も無音の歩行術も、標的を刹那の間に殺し切るナイフの扱い方も……何より、最も必要で最も初めに教わる要素の〝暗闇への順応〟すら、真面まともにこなせなかった。


 貴族としての粛然とした作法をいくら学ぼうが関係ない。ツヴァイフェルト家にとって重要なのは暗殺者としての資質だけだった。そして不幸にも、当時のシェリアには、その資質と呼べるものが全くとして存在しなかったである。


 故に、父親がシェリアを見限るのに、そう時間はかからなかった。……否、それでも彼女が十四の齢になるまで教育と育成を続けたという点では、常に一縷の望みは抱き続けていたということなのかもしれないが。


 何にせよ、シェリアの父はシェリアを見限った。衛兵を殺し、血に塗れた裸体を晒す実の娘が見据える先で、彼女に背を向けてその場を立ち去った。あの瞬間、シェリアはツヴァイフェルトの血から追放されたのだ。役に立たない木偶は必要ないと正面から宣告され、彼女の心は無残にも殺された。


 そんな。

 落ちこぼれゆえに父親からの期待に応えられず、全てを失い地獄へ落とされたシェリアという少女に発現した技能『ウィドラ』は、恐らく、ツヴァイフェルトの血筋からすれば喉から手が出るほどに欲しい代物であっただろう。


 暗闇や影。それらへの順応ではなく、。己の肉体や気配そのものを〝闇の系譜〟と混ぜ合わせることができる唯一の技能、それこそが『ウィドラ』である。

 その獲得は最早、ツヴァイフェルト家にとっての悲願でさえあった筈だ。


 けれど、シェリアが『ウィドラ』の技能を発現させたのは、失意と失望の全てを経験した後だった。


 どうしてなのだろう、とシェリアは何度も思った。父が自分への期待を失うよりも前にこの技能が発現していれば、恐らく全く別の人生を歩めていただろうに。


 しかし技能の発現とは本来そういうものだ。些細な例外はあれ、大半が後天的なものとして生まれる固有技能は、その発現条件として当人が何らかの試練を経る必要がある。


 シェリアにとってはそれが、家族から切り捨てられた絶望の経験だったというだけの話。


 けれど今の彼女には、そんな過去の記憶などどうでもよかった。一刻も早く七夜の許へ行く。その為に使える力ならば何だって構わない。


 魔法により、彼女は影から影へと音もなく移動を繰り返す。常人がどれだけ全速で駆けようとも敵わない速度で、夜の帳で満たされつつある通りを疾駆する。


 そうして気付けば。

 シェリアの見据える視線の先で、この裏街には似つかわしくないほどの、鮮烈な明かりの群れが姿を現した。



     *



 その豪奢な屋敷に辿り着いたとき、敷地内はファミリーの構成員である男たちの姿で満たされていた。

 屋敷や敷地そのものを囲うように立ち並ぶ屋外灯からは裏街の夜を退けるほどの明かりが煌々と放たれており、視界の面で困ることはない。


 シェリアが門扉をくぐり、敷地の中へと足を踏み入れた瞬間、そこに集っていた者たちが一斉に彼女の許へと視線を集中させる。闇色の長髪を揺らめかせ、音もなく姿を現した美しい女に、徒党の男連中が興奮したように口々に声を上げた。


 無遠慮に注がれる醜悪な眼差しに若干の嫌悪感を抱きつつも、シェリアは静かな声で言う。


「ナナヤさんはどこですか」


 短い問いに、しかし男たちは下卑た笑い声を洩らすだけで誰も答えようとしない。しかし代わりに彼らはぞろぞろと動き、集団の中央に一本の道を形成した。


 奥からゆったりとした足取りで歩み出てくる白コートの男を、シェリアは細めた目つきで見据える。


「ようこそ、俺たちエルビーアファミリーのアジトへ。良かったぜ、ちゃんと〝伝言〟に素直に従って来てくれてよ。歓迎するぜ、お嬢さん」


「……ナナヤさんはどこですか」


 先ほどと同じ質問を口にするシェリアに、大仰に両腕を広げていたウルドは束の間静止すると、途端にだらんと脱力し、それまで纏っていた軽薄な雰囲気を収めた。


「まぁそうくなよ。どうして俺がお前をここへ呼んだのか、その理由をよく考えな」


 シェリアとウルドが向かい合っている一方で、徒党の者たちが統率の取れた動きで、二人を囲うように円を形作る。


「お前とお前のお仲間は俺の家族に手を出した。その落とし前っつーワケでもないんだが、どうにもお前の美貌とやらを忘れられない奴らに、ちょいとばかし良い夢を見させてやってくれねぇか? そうすりゃウチとしては、何の禍根も残さねぇで喧嘩両成敗ってことに出来るんだがねぇ」


 軽々しい口調だが、その眼はファミリーの長としての凄みを孕んでいた。そしてウルドの言葉に、周囲四方を埋め尽くす男たちが分かりやすく色めき立つ。


「俺は女には塵ほども興味ねぇが、それでもまぁ、お前がとびっきりの上玉だってことは分かる。そんなお前が身を砕いてくれるだけで色んなことが丸く収まるんだよ」


「……、」


「周りの奴らは一夜限りの良い夢を見られる。俺は愛しの家族共の願いを叶えてやれる。そんでお前のお仲間は、下手に、余計に、無意味に、危ない目に遭わずに済む。どうだい? これ以上ないほどにウィンウィンなご提案だろう?」


「――ナナヤさんは、どこですか」


 繰り返される言葉。だがその声音は少しずつ圧を帯びているように思えた。


 怜悧な双眸が射貫くようにウルドをねめつけるが、悠々とした態度を変えない男は、そんなシェリアの威を柳に風と受け流し、ひとつ息を落とした。


「ハッ、まんま機械みてぇな奴だな。こんな女抱いたって何も愉しくねぇだろうに……まぁ、あいつらにとっちゃそんなのは些末な問題か。一応助言しとくんだが、あいつらの玩具になるときは嘘でも構わねぇからもうちょっと分かりやすい女を演じてやれ。じゃなきゃあいつら、俺に内緒で高い薬を勝手に使いやがるもんでなぁ」


 周囲で沸き立つ男たちに視線を巡らし、ニヤリと笑む。そうしてウルドは改めて、自らが向かい合っている者の姿をその眼に捉え――


「……あん?」


 不意に、訝るように目を眇めた。

 口許からは笑みが消え、何かを見定めるかのように少女の貌を凝視する。


「お前……お前のその顔、どこかで見覚えが……」


「最後の質問です」


 ウルドの口から洩れ出た呟きは、シェリアの語気を孕んだ強い声音に掻き消された。


「ナナヤさんは……一体どこですか……!!」


 途端、彼女を中心として風圧が巻き起こる。それと同時、彼女の足許に落ちている影が揺らめき、まるで陽炎の如く魔力を立ち昇らせた。

 その段階に至り、ファミリーの男たち全員が、そこにいるのがただ美しいだけの非力な女ではないのだという認識を得る。


 目に見える形での魔力の励起。影が揺らぎ蠢いているという現象は、シェリアが魔法、ひいては技能を持つ存在であることの何よりの証明である。


 徒党の者たちに、一瞬にして緊張が伝播する。その一方で――


「……チッ、クソが。お前も〝そっち側〟なのかよ」


 吐き捨てられた男の言葉はシェリアの耳には届かない。束の間、ウルドの目に浮かんだ荒々しい眼光は、けれど次の瞬間には消えており。

 全ての中心に立つ豪奢な男は、さながら舞台上に立つ役者であるかのように、上体を仰け反らせて声を上げた。


「あぁあぁ、そんないきり立つなっての。おんなじことしか言えねぇのかお前は。そんだけお仲間に会いてぇっつーなら、とりあえず姿だけは見せてやるよ」


 ウルドがパチンと指を鳴らせば、周りを囲っている集団の一部が僅かに動き、それまで出口のなかった円に少しの隙間を作る。


「安心しな。ちゃんと後で俺が愉しめるよう、おもてなしさせてもらってるぜ。お前も相当な上玉だが、あいつはそれ以上のとびっきりだからな。わざわざお前が来るまで辛抱貫いた俺の根性を褒め称えてほしいくらいだ」


 囲いに生じた隙間に、自然とシェリアの視線が向く。

 そこには一本の大きな鉄柱が地面から生えており、その柱にはまるで罪人を晒し者にするかの如く、一人の人間が縄で縛り付けられていた。


「―――、」


 その瞬間、〝それ〟を見たシェリアは息を呑んだ。瞠目し、四肢を硬直させた。彼女の耳から急速に音の全てが遠のいてゆく。


 地に打ち立てられた鉄柱に縛られているのは、他でもない七夜であった。その姿をシェリアが見紛うことなどありえない。

 彼女が息を呑み、目を瞠ったのは、その有り様に驚愕したからだ。


 縄で柱に拘束されている七夜は――その身体から大量の血を流していた。

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