諦念を拭い、本心を晒して
裏町の細い通りを、シェリアは闇色の長髪を激しく揺らしながら駆けていた。
その美しい貌に七夜たちといたときのような静謐さはなく、僅かに切羽詰まった色を乗せた表情を浮かべて、彼女は荒い息と共に懸命に足を動かす。
「はぁ、はぁっ……はぁ……!」
どうして自分がこんな懸命な顔を晒して走っているのか分からない。己の持つ〝力〟を使えば、こんな遅さで、みっともない姿で息を荒げる必要もないのに、そんな事など今のシェリアの頭からはすっぽり抜け落ちている。
数十分前、唐突に宿へと帰ってきたイレィナから聞かされた話。
その内情を理解した途端、シェリアは自分でも驚くほど反射的に、ナノハ亭の扉から飛び出していた。
イレィナの制止する声も置き去りにして。彼が連れて行かれたという場所が一体どこにあるのかも知らないのに。
尤も、場所が分からないとしても、魔力を感知する意識網を駆使すればすぐにでも分かるはずなのに。
かつて生家で〝落ちこぼれ〟と言われていたシェリアであっても、それくらいの芸当は出来るのにも関わらず。
本来の、常に冷静な視野を持つ彼女であればまず間違いなく至る思考にさえ、今のシェリアは至ることが出来ない。
ただ、出所の知れない焦燥と、自分らしからぬ醜態を晒している自分そのものに、困惑し続けている。そして困惑しつつも、足だけが止まってくれないのだ。
「はぁ、はぁ……、あっ!」
足元を一切として見ないままに走っていたせいで、地面の些細な段差に躓き、シェリアは盛大に転倒してしまった。
ろくに受け身を取る余裕もなく、通りの真ん中をゴロゴロと派手に転がる。
「……くっ」
そうして地に伏せった彼女は、惨めな己の姿に思わず歯噛みした。いったい自分は何をしているのだと自問するも、答えそのものは一つしかなく。
(ナナヤさん、を……探さなくては……)
その思いだけが、まるで
それは最早、一種の強迫観念とさえ言えるほどのものであり。
果たして今の彼女が、本当に彼女自身の意思で以てここにいるのか怪しく思えてしまうほどのものでもあった。
奴隷。操り人形。自由意志を持たぬ傀儡。
自らに価値を見ないシェリアは、七夜と共にいるために、そう自分を定義した。そうすれば、無価値な自分でも傍に置いてもらえるから。そうしなければ、無価値な自分があの地獄の底以外の場所で生きることなどできないから。
そう、思って。
だから、使い勝手のいい奴隷になると言った。自発的な意思を持たず、ただ言われたことにのみ従うだけの存在として。
なのに。
ならば。
どうして今、自分は、ここでこうして地面に這い蹲っているのか。
「……、」
芒洋とした目を浮かべ、シェリアはゆっくりと立ち上がる。その美しい貌に感情はない。生気を失った顔はそれこそ人形のようで。
「……ナナヤさんを、探さなくては……」
やがて、のろのろと力なく歩み始める。それにつられるように、彼女の頭が、巡る思考の中に囚われる。
――不意に、釈放されたあの日のことを思い出した。
監獄内でドロエに犯されかけた際、シェリアの抵抗を阻害したのは、他でもないシェリア自身であった。
より正確に言うならば、『父への復讐心を抱くもう一人のシェリア』である。
無価値で無意味な存在理由しか持たない自分には、外界での暮らしなど必要ない。なればこそ、あそこでドロエを殺していれば、自分は再び殺しの罪で牢獄の中へと戻ることが出来たのに――
けれどそんな想いを、他でもない彼女の内に潜む
ここでまた牢獄へ戻る事は許さない。私が果たすべきは、五年もの地獄を与えてきたあの男への復讐だけなのだから。
だからここでは素直に犯されていろ。どうせ満足すれば勝手に解放される。
そんなある筈のない声が、あの時、シェリアの脳裏には在った。
故に彼女は抵抗をしなかった。大人しく心を委ね、そして心を殺し、男の慰み者になる運命を粛々と受け入れようとした。
尤も、その直後に彼女は七夜によって助け出されてしまったが。
「―――、」
己の心裡に、意識を向ける。あのとき心身を強く縛り付けた『復讐心の塊』は、今のシェリアの中にはない。
であれば。
自身を無価値な機械と断じてやまない自分が、街の中を闇雲に走り回り、七夜を探し出さんとして躍起になっていたのは何故だ。
(……解りません)
あなたが羨ましいのだと、以前シェリアは、彼に対して言った。
あの地獄の底で言葉を交わしていたとき、最後の最後でシェリアは、彼の
また彼に会えたら。そうシェリアは、一抹の後悔を孕んで小さく願いさえした。
それは――何故だ。
(解りません)
――彼に対して羨望を抱いているから、大人しく言う事を聞いてついてきたのか。
――多くの者と敵対してまで助けに来てくれたから、彼の奴隷になっても良いと惰性的な決断を下したのか。
――自分には何の価値も存在理由も無くても、奴隷としてなら傍に置いてもらえる。だから強引に迫って身体を重ねようとしたのか。
――無理やりにでも自分の価値を見出してもらうために。そして他でもない彼ならば自分の価値を見出してくれると適当で粗末な期待でも抱いていたのか。
(解りません)
――無価値で無意味なら、どうして今、息を荒げて彼を探しているのか。
――ある筈のない価値を見出してもらうために、躍起になっているだけなのか。
――自分は彼の奴隷だから、主の危機には駆け付けなければならない。そんな仮初めの行動原理を受け入れて、そしてそれが今の自分から生まれている本当の衝動なのだと信じているのか。
(……
脳裏に巡る不可解な問答を繰り返している内、シェリアの足は自然と止まっていた。
裏町の一角、ナノハ亭からはかなり離れた奥まった住宅密集地の道端で、少女は俯いたままに動きを止める。
周囲に建つ家屋同士の隙間に形成された暗がりからは、唐突に姿を現した〝上玉〟を狙って無遠慮な視線と欲に塗れた笑みが既に向けられ始めている。
だがそんなものには気を取られていない様子で、シェリアは変わらず、顔を俯けて地面に視線を落としており。
闇色の長髪が、風を受けて揺らめく。
「違います」
今度は、確かな言葉があった。
当人以外にはとても聞こえないような、ほんの小さな否定の言葉。
「仮初めなどでも……惰性などでも、ありません……」
いつまでも動かないシェリアに対して、暗がりから這い出てきた
既に彼らの頭には、目の前に立っている少女とどうやって遊んでやるか、その一点にしか思考が及んでいないのだろう。
だからこそ、その少女の言葉は彼らの耳には届かない。例えそれが、自分の内へと向けた独り言であったとしても。
「私は……確かに自分の意思で、あの人に……
そうして。
少女は、自分の心の奥底にある気持ちを口にする。
「
その。
曝け出された本心は、もしかすれば、彼女が今ここにいる理由にはなっていないのかもしれない。
曖昧で抽象的。それはきっと、いま自分の中にある感情に、シェリアがこれまでの人生で触れてこなかったが故の表現なのだろう。
けれどその台詞は、今まで諦念に
他でもない彼女自身が、己の心を自覚するきっかけにもなった。
途端。
焦燥に満ち溢れて冷静さを欠いていたシェリアの頭に幾許かの余白が生まれた。ほんの僅かに生じた思考的余裕の中で、彼女は懸命に、七夜の許へ辿り着く手段を考える。
と、同時。
シェリアの目に、あるものが映った。
それは自身の影。
顔を俯けてほぼ真下を見下ろしている彼女の視線の先には、当然というべきか、シェリア自身の影が地に落ち長く伸びている。
既に空は夜の闇に支配されつつあるものの、遠方の空に淡く残る橙の色が、未だ通りの一帯に仄かな明るさを残しているためだろう。
そんな中にあって、シェリアにとってはその瞬間、自身の落とす影が酷く昏い泥のようなものに思えてならなかった。
そしてその〝泥〟には、見覚えがあった。
彼女が五年もの歳月を過ごした、ディアメルク王立刑務所の最下層。石造りの壁と鉄の檻、強烈な饐えた匂い、そして身に纏わりつくような深い闇があるだけの、まさしく地獄と呼ぶに相応しい場所。
投獄された当初は、そこにある泥濘の闇がただひたすらに恐ろしくて仕方がなかった。だから彼女は、その闇に身を委ねる方法を自ら見出した。……それと似たようなことを、幼少期からずっと、父親から教えられてきた筈なのに。
何の身体的技術も、魔法的才覚も、どれだけ学びを積もうが顕在化できなかったシェリアが、地獄の底で五年の月日を経る中で開花させた、一つの〝力〟。
その存在を、今、彼女は思い出した。
「―――、」
直後。
シェリアの体内から膨大な魔力が周囲へ放出された。微かな風圧だけを伴って放たれたそれは、けれど濃密な威を伴って瞬時に周りへと伝播し、今まさにシェリアへと掴み掛ろうとしていた男たち全ての意識を根こそぎ刈り取った。
ドサリドサリ、と人間の倒れ伏す音があちこちで聞こえる。
しかしそれを成し遂げたシェリア当人は、自分に迫ろうとしていた者達の存在など最後まで気付いていないかのように、細めた双眸を夜空へと向けていた。
身体の奥底から何かが湧き上がる感覚。
魔力を励起させる。無形の圧力としてただ放出するのではなく、己の中で、形作るように練り上げる。
それはまさしく、技能の行使。
「……こうしてちゃんと使うのは、何気に初めてですね」
やったことなどない。牢獄の中で、その力を使う機会など当然の如くなかったのだから。
それでも不思議と迷うことはなかった。
思考が没する。
意識の底へ。そして意識を超えて、自らの足許に広がる漆黒の影へと。
影。暗闇。それに類するものは全て、彼女にとっての〝力〟となる。
瞼を閉じ、水中で揺蕩っているかの如き浮遊感に身を委ねたシェリアは、そうして魔力の感知網に意識を巡らせた。
そうすれば、ここからそう遠くない場所に、小さな魔力の烏合を感じ取る。そしてその殆ど中央の位置に存在する、その場の誰よりも鮮明で強大な魔力の塊までをも、明確に。
「見つけました」
呟きと同時、シェリアの瞳が芒洋としたものから一転し、抜き身の刃の如き鋭さを秘めたものへと変じる。
光を持たぬ闇色の瞳それ自体は変わらない。
しかし確かな意思を持って鋭利なものと化したその双眸は、今までの彼女のそれとは根底から異なる。
薄く、音もなく、息を吸う。そうして小さく、シェリアは言葉を紡いだ。
「――『
直後、シェリアの姿が霞むように消失した……否、常人には目視叶わぬ凄まじいほどの速度で通りを疾駆し始めたのだ。
既に空の殆どが宵闇に覆われつつある。ゆえに決して幅広くはない裏町の通りは、その大半が建物の影による暗がりで支配されている。
その影から影へ。
さながら瞬間移動の如く、シェリアは短い距離を繰り返し移動しながら往来を駆け抜ける。
彼女が過ぎ去った後には、風も、音も残らない。静寂を尾として引いてゆく。
――そう。
影。暗闇。
それに類するものは全て、彼女にとっての〝力〟となる。
その力こそが、シェリアの中に発現している固有技能……『
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