父親の像


 ナノハ亭の一室に、シェリアとノゥナの姿があった。


 何をするでもなくただ黙ってベッドに腰掛けているシェリアに対し、ノゥナはベッドの上で一人大人しく絵本を読んでいた。


 部屋の中には静寂が流れ続けている。

 それぞれが互いの存在には関わらないままいるその光景は何ともおかしなものだったが、シェリアはともかくとして、ノゥナが居心地の悪さを感じているような様子はなかった。


 だからと言ってシェリアの事を無視している訳ではなく、寧ろ彼女に寄り添うような格好で座り込んでいる。


 ――と、そこで。

 不意にノゥナが窓の外を向いて太陽を見上げると、静謐を纏って動かないシェリアの服をおもむろにちょいちょいと引っ張った。


「おねーちゃん。もうそろそろお昼だからご飯食べよ?」


 絵本をぱたんと閉じてベッドから降り、シェリアの方を見上げてにっこりと笑う。


 七夜以外の者の言葉には順じないと口にしていたシェリアであるが……、


「はい、分かりました」


 あっさりと頷きを返し、すくりと音もなく立ち上がった。

 何という事はない。事前に七夜から「ノゥナの相手をするように」と言われていたからである。


 ――そんな大雑把な〝命令〟でも構わず動くようになっている辺り、彼女の中で何かが変わりつつあるのだろう。


 二人はそのまま手を繋いで一階へと降りてキッチンへと向かう。

 朝の時点でイレィナが用意した簡単な昼食がそこにはあって、それをノゥナとシェリアは一緒に食事テーブルへ運んだ。


 料理の内容は質素なパンとスープだけであり、昨晩の豪勢な夕食に比べれば何とも物寂しい。


「あのね、おねーちゃん。このパンね、すっごくカチカチなの。だから、スープに付けながらちょっとずつ食べるといいんだよ!」


 だがノゥナは少しも残念そうな顔は見せず、笑ってシェリアに食べ方を教えて見せる。

 シェリアはまたコクリと首を縦に振り、ノゥナのやり方を真似て、スープに浸したパンを口に運んだ。


 素朴な小麦の味がして美味しいが、確かに硬い。

 シェリアでさえそう感じるのだから、幼いノゥナには尚更だろう。


 ――と、そこで不意に。

 スープの皿にパンを落としてふやけるのを待っている彼女が、こちらを見つめている事に気が付き。


 シェリアは食事の手をピタリと止めた。


「……どうか、なさいましたか?」


 細い声でそう問えば、ノゥナは「んぅ」と何故か唇を突き出してから。


「いいなーと思って」


「何がでしょう?」


「おねーちゃん、すっごくがいいから! 美人さんなのに背も高いからいいなーって思ってたの! ノゥナもね、おねーちゃんみたいになりたいの!」


 ビシッと手を挙げて高らかに宣言をするノゥナの目は、基本的に、シェリアの胸部に対して向けられていた。

 お姉ちゃんの服を押し上げる立派な双丘を見て、次いで自分の胸を見下ろして。


 まだ六歳になって間もない幼女らしからぬ溜息が、その口から可愛らしく零れた。


「おねーちゃんはどうしてそんなにがおっきいの? ノゥナはね、ぺたんこなの。もっといっぱいご飯食べられるようになったら、おねーちゃんくらいおっきくなれるかなぁ?」


 何とも年不相応な質問を真剣な眼差しで投げかけられ、シェリアはしばし押し黙ってしまう。

 別段、真面目に取り合って応える必要はないのだろうが、ノゥナの相手をするようにという七夜の言葉が脳裏をよぎり、気付けば彼女は静かに口を開いていた。


「そう、ですね……きちんとご飯を食べて、きちんと睡眠をとれば、ノゥナさんもちゃんと成長できる、とは、思います」


「ほんと!? おねーちゃんみたいにおっきい大人のになれる!?」


「……えぇと、胸の大小は遺伝で決まると言われていますので、その点に関しては何とも……」


「いでん? いでんってなぁに?」


「遺伝、というのは……例えば、親の持つ身体の特徴や性格が、その子供に受け継がれる事……と言えば、分かりやすいでしょうか」


「えぇっ!? てことはノゥナ、おっきくなったらおかーさんとおんなじ身体になるの!? おかーさん、おねーちゃんみたいにおっぱいおっきくないのに! どうしよ、おねーちゃん! ノゥナ、おねーちゃんみたいになれない! ノゥナの未来はなの!」


 イレィナにはとても聞かせられない事を声高に口走ったノゥナは、ガーンという擬音が聞こえてきそうなほど分かりやすく落胆する。

 しょんぼりとする彼女に、シェリアは返す言葉に迷って固まってしまった。


 だが。


「あっ、でも」


 悲嘆したように俯いていたノゥナが、バッと途端に顔を持ち上げた。


は背が高かったから、ノゥナもおねーちゃんくらい背が高くなれるかもしれないよねっ!」


 爛漫の笑顔で話すノゥナに。

 けれどシェリアは、言葉を詰まらせた。


 スープに浸されて柔らかくなったパンをバクバクと平らげてゆく幼女を、シェリアの静かな瞳が捉える。

 やがて、その薄い唇が開かれる。


「……あの、」


「んん?」


「ノゥナさんのお父さんはどんな方だったのか……お聞きしてもよろしいですか?」


 淡々とした問いの言葉。

 静寂が宿の一階フロアに満ちた。


 きょとんとシェリアを見上げていたノゥナの愛らしい貌が、やがて何かを考えるかのようにきゅっと顰められる。


「う~ん」


「あ、その、何か思い出したくない事があるのでしたら、無理には……」


「んーん、そーゆーのじゃなくてね? ノゥナ、あんまりおとーさんのこと覚えてないの」


 ノゥナは手に握っていたスプーンをテーブルに置いた。

 つられてシェリアも食器から手を離す。


「ノゥナのおとーさん、ノゥナが生まれてちょっとしたら、神様のところにいっちゃったんだって。だからおとーさんの顔も、おとーさんがどんな人だったのかも、ほんとは知らないの」


 ゆっくりと話す彼女の表情には、悲しみの類は見受けられない。

 寧ろ、自身の頭に刻まれた数少ない記憶を思い出し、その口許に笑みさえ浮かべて。


「でもね、おとーさんがいっぱい抱っこしてくれたり、高い高いしてくれたのだけは、何でか分からないけどすごく覚えてるの。ノゥナが笑うとね、いっぱいいっぱい、おとーさんは抱きしめてくれるの。それで、たくさん高い高いするから、いつもおかーさんがおとーさんを優しく怒ってたの。危ないでしょって」


 ご機嫌そうに身体を揺らしながら、ノゥナは言う。


「おとーさんって背が高いから、いつもノゥナ、天井にぶつかっちゃいそうだったんだって。昔おかーさんがよく言ってたの」


「……そう、だったのですね」


 天井を見上げるノゥナにつられて、シェリアも自らの頭上を仰ぎ見た。

 顔を覚えていない父親の事を、けれどノゥナは楽しそうに話す。それだけ父親にされた行為が幸せなものとして記憶されているのだろう。


 可愛らしくにこにこと笑う少女の顔を、シェリアは無情の貌で見つめていた。

 父親との記憶を思い浮かべて笑う事ができるノゥナを、羨ましいとは思わない。それでも自分にはできない表情を見せる少女に、シェリアは回顧と共に一抹の虚しさのようなものを胸に感じた。


 こちらを見下ろす父親の、失望にまみれた顔が脳裏によぎる。

 血に濡れながら立ち尽くすシェリアに何の声もかける事なく、落胆を抱いて立ち去ってゆく父の背中が、彼女の胸中に空いた空洞を押し広げる。


 そうして少女は無意識に心の中で呟く――期待に応えられなくてごめんなさい、と。


 何の意味もないその謝罪が、シェリアの己に対する価値を下げてゆく。


「おねーちゃん、どうしたの?」


 俯いて黙り込んでしまったシェリアを、ノゥナが横合いから覗き込んでくる。

 きょとんとした面持ちで小首を傾げる彼女に、暫しの沈黙を返した後、シェリアはふるふると首を横に振った。


「いえ、何でもありません」


「ほんと? もしかして、ご飯おいしくなかった……?」


「いいえ、そういうわけでは。とても美味しいですよ」


 瞼を伏せ、父親の幻影を見据える。

 そうして胸中に生まれるのは、やはり寒々しさを孕んだ空虚のみ。


 ――いつからなのだろうと、シェリアは不意に考えた。

 自分の中にある、父親に対する苛烈な復讐の炎が薄れてしまったのは、いつからなのだろうか、と。


 五年もの歳月を地獄の底で過ごす中で、ゆっくりと醸成し続けた炎。

 あの監獄を出て、七夜と共にいる内に、いつしかその姿を霞ませた炎。


 まるで自分の中から大切な何かが抜け落ちてしまったかのような感覚に陥る。シェリアは先ほどとはまた違った寂寞を胸に感じて、静かに拳を握り込んだ。


(……いいえ)


 少女は異を唱えた。この感情は不要なものだからと。

 七夜と共に在るために、父への復讐心という〝個人的な情念〟は不要でしかないからと。


 ――ただ、と。

 ならば自分は、この先の一生、血塗れの過去を乗り越えられないまま、父の幻影に苛まれ続けるのだろうか。


 シェリアは苦しみを堪えるかのように目を眇めた。


 そんな彼女の様子には気付かず、隣ではノゥナがにこにこと笑いながら食事をしている。

 全く逆の表情を浮かべている二人がテーブルを囲んでいるその空間に――やがて、ひとつの足音が聞こえてきた。


「ッ、」


 シェリアは咄嗟に警戒心を巡らせ、扉の方へと意識を向ける。古惚けて立て付けが悪くなっているそれが、壊れんばかりに勢いよく開かれたのは、その直後であった。


「シェリアさん!」


 血相を変えた様子のイレィナが飛び込んでくる。かなり長い距離を走ってきたのか、シェリアの前で立ち止まった彼女は膝に手をついて荒い息を何とか落ち着かせようとしていた。


「どしたの、おかーさん。だいじょーぶ?」


 椅子から降りたノゥナが母親に駆け寄る。

 しかしイレィナは娘の心配には取り合わず、肩で息をしたままシェリアへと詰め寄り、張り詰めた剣幕で縋りつくように肩へとしがみ付いてきた。


「シェリア、さん……お願いします、助けて下さい……!」


「……何が、あったのですか」


「シバさんが!」


 そうして聞かされた話に、シェリアは無意識に目を見開いていた。

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