一生救われない少女


「ナナヤさんの事が、とても羨ましかったからです」


 儚く繊細な声が、部屋の中に伝播する。

 七夜は不用意に口を出す事なく、彼女の話を黙って聞く。


「私は……自分が卑屈な性格だという事を自覚しています。だから半年前、初めてナナヤさんと言葉を交わし、ナナヤさんの事を僅かばかりとは言え知る事ができて……地獄の底にいても、多くの者から切り捨てられた過去を持っていても、まっすぐ前を向いて進もうとする貴方が、とても羨ましく思えました」


 滔々と語る中、再びシェリアが少年を見る。

 光なき闇色の瞳が、ほんの微かに揺れている事に、七夜は気付いた。


 彼女自身の意思がもたらす、本心からの言葉が続く。


「私は、過去に囚われている自分が嫌だった……だから、貴方についていけば私も前を向けるかもしれないと思った。卑屈で陰鬱で、何の価値もない私でも、何か変われるかもしれない、と。そんな希望を、勝手に抱いたんです」


 過去に囚われる自分が嫌。

 そう聞かされた七夜の目が細められる。


 彼はシェリアの過去について、まだ何も知らない。

 過去……恐らくは彼女が、自分を無価値と断ずるに至った何らかの出来事。


 だが、それを知らずとも、シェリアの胸中を理解することはできる。

 他でもない、凄惨な過去の出来事によって今も消えぬ咎を負わされている七夜であれば。


 ――だが、そこで。


 、七夜はシェリアでさえ気付かぬ程度に、薄く目を眇めた。


 その疑問を口にしようとしたところで、数瞬早く、少女の言葉が重ねられた。


「ただ、何か私から提示できる見返りがないと傍にはいさせてもらえないと思って……でも私は、何の取り柄も持っていなくて……」


 声に弱々しさが混ざる。

 またも視線が下へと落ち、無情の貌に影が差す。


「そんな私にできる事と言えば、ナナヤさんのために傷付く事と、この身体を差し出して好きに使って頂く事しかないと考えたんです」


 外套の裾が揺れて、合わせ目の隙間からシェリアの細い脚が太股ふとももの付け根辺りまで露わになる。


 窓から差し込む月光を受け、眩いほどの白を湛えるその肌には、傷一つなくて。


「……、」


 七夜はしばし黙り込んだ。


 シェリアの透徹した美貌、艶めく紫紺の髪、自分とはまるで違う白くなめらかな柔肌、細くしなやかに伸びる肢体。

 その全てが、男の情欲を容易く誘因する代物である事を理解し。


 そして同時に、彼女が幾人もの男に犯されている姿を想像する。


 ――途端に湧き上がった感情に、


 相手に何も関心がなければ、この感情は湧いてこない。

 自身の心裡を改めて自覚した少年は、おもむろに椅子から立ち上がり、シェリアの前へと歩み出た。


 不思議そうに見上げてくる少女の、露わになっている脚にきちんと外套を掛け直してやってから。


「……見返りがないと傍にはいられないってのが、まず間違いなんだよ」


 七夜がシェリアを見下ろす。シェリアが七夜を見上げる。

 二人の視線が、確かに交わる。


「そもそも、最初に俺の方がシェリアを欲したんだ。俺がシェリアを仲間にしたいと言って、そして今、シェリアは俺の傍にいたいと思ってくれている。二人の気持ちが一緒なら、そこに見返りだの代価だのなんてもんは必要ないだろ」


「……ですが、共にいる以上、ナナヤさんの役に立たななければいけなくて……何も持っていない私には、できる事が限られていて……」


「何度でも言うぞ」


 声色は変わらない。

 それでも内に込められた圧が一段低いものに変じたのを、シェリアは察した。


「他人の人形としていいように使われるだけの在り方は、惨めで哀れな弱者のそれだ。誰かから理不尽に与えられる事はあっても、絶対に自分から望んで得るものじゃない」


 そもそも、と。


 少女の持つ〝しがらみ〟の正体を知らない少年は、それでも彼女が経験した過去がどんなものだったのかを確信を持って想像しながら、続ける。


「あんたは昔、その弱者の立場にいて、理不尽に利用されたから地獄の底に落とされたんだろ。だから五年間もあのクソみたいな場所で生きなきゃいけなかったんだろ。その地獄からようやく抜け出せたってのに、今度は自分からその理不尽を求めたんじゃ……あんたは多分、一生救われないぞ」


 言い聞かせるように言葉を連ねる。


「弱い立場でいる事を望むな。自分の意思を持て。自分には取り柄が無いだの価値が無いだの、そんな事でウジウジ悩むな。前を向きたいって気持ちがあるならとっとと前を向け。何も持ってない自分を卑屈に思うのは、無駄な時間以外の何物でもないぞ」


 かつて周りから無能と嘲られ、それでも折れずに前を向いて多くを学び続けた少年は、強く告げた。


「……、」


 対してシェリアは、仮面の如き無表情を変える事なく。

 けれど唇だけは、微かに震えていて。


「……ですが」


 言葉が零れる。


「ですが……でも……私は落ちこぼれで、どれだけ頑張っても期待には応えられなくて……だから、お父さまはあの時、私を切り捨てて……血を浴びた私に、背を向けて、どこかへと去っていって……」


 七夜には理解できない呟き。


 その瞬間だけ、彼にはシェリアが酷く幼い子供のように見えた。


 寂寞と絶望。

 何かに取り残されてしまったかのような顔。

 まるで迷子になってしまったかのような、ひとりぼっちの子供の顔。


 それは今の彼女とはどこまでもかけ離れていて――。


「シェリア」


 無意識に七夜は少女の名を呼び、そして彼女の肩を掴んでいた。

 焦点の揺らいでいた闇色の双眸が七夜を捉える。


「落ち着け。自分にとって嫌な過去は思い出すな。余計に精神を追い詰めるだけだ」


 明らかに正常ではない様子の彼女を至近から見据え、ゆっくりと言い聞かせる。


 やがて、少女の唇が薄く開かれて。


「………………?」


「ッ、」


 何とも聞いた台詞。だがその声は、惑うような震えを伴っており。

 まるでその言葉が、彼女の意思とは無関係に出てしまったかのように見えて。


 七夜は答えに詰まる。同時に思った。――これでもまた届かないのか、と。


 シェリアの肩を掴み、その怜悧な貌を間近から覗き込んだ体勢のまま、少年は顔を顰めた。

 彼女が抱えるしがらみは相当に強く、根深い。他者の意思に従う在り方が、シェリアの中に観念として染みついてしまっている。


 いくら訴えかけたところで、それが言葉だけならば決して解けないほどに。


 七夜はそっとシェリアから手を離す。

 その表情には隠し切れない落胆が滲んでいて、そんな少年の顔をシェリアは無感情に見上げてきて。


 七夜は無意識に、今ここにはいない黒髪の女に助言を求めようとして、内心で派手に舌打ちを鳴らした。





 ――その後、時間も時間という事で、シェリアには大人しく自室へと戻ってもらった。


 一人になった部屋の中でベッドに座り込めば、ドッと疲労が押し寄せてきて、思わず深い溜め息を吐き出す。

 そのまま後ろに上体を倒し、仰向けに転がった。


「疲れた……今日一日で色んな事が起きすぎだろ……さすがに限界だ……」


 木張りの天井を見上げてそうぼやく。

 そして湧き上がってきた眠気に身を任せて瞼を閉じれば――


 不意に、こちらへ覆い被さってくる裸のシェリアが思い起こされた。


「ッ」


 情けないくらいに正直な自らの本能を、理性で何とか抑え込む。

 しかし目を閉じている以上、どうしても映像は消えてくれなくて。


 女性的な起伏に富んだ躰のラインや白く滑らかな柔肌が瞼の裏に焼き付いて離れず、また身体が生理的反応を示しそうになって七夜は思い切り布団を被った。


(くそ……これじゃ俺まで猿みたいだろ……! 元の世界にいた頃はこんなんじゃなかったのに……!)


 年頃の男子としては当たり前の事なのだが、かつての彼は女性と関わる機会があまり無く、それ以前に勉強の虫であったために異性そのものに関心がなかったのだ。


 そんな彼であっても、年齢を重ねた事で何かが変わったのか、はたまた目にした裸体が絶世の美女であるシェリアのものであったからか。


 均整の取れた彫像の如き身体という点では、リィリスのそれと大差はない。造形美としての違いがあるとすれば、リィリスの方が少しだけ胸が大きいという事くらいだろう。


 頭の中で、二人の裸をそれぞれ思い浮かべてしまい――七夜はクソったれな自分の思考を消し去りたくて、布団の中でぶんぶんと頭を振った。


 何とか別の事に意識を向ける。シェリアの心を理解するために、彼女と正しい関係性を形成するために、真面目に思考を巡らせる。


(……結構本音を吐き出したつもりだったんだがな)


 布団から顔を出し、天井を見上げてそう零す。


 シェリアに対して、七夜は常に真摯な姿勢で在り続けようと決めている。

 だからこそ、取り繕う事もなく、全て本音でぶつかった挙句に、変わらぬ対応をされて落胆してしまうのは当然の事だ。


 しかし、彼女のそんな頑なな姿にも何か理由があるのだと思い。

 それはきっと、自分の知らない彼女の過去が原因なのだろうと、ぼんやりと考えた。


 ――と、そこで。

 

 七夜は、先ほどシェリアに対して抱いた疑問があった事を思い出した。


「そういえば……、」


 思い出される彼女とのやり取り。


 自分は七夜の奴隷であると言い、そして自分の身体は七夜の為にのみ在る。

 そう彼女はハッキリと、そして何度も口にした。


 それを聞いて七夜は、シェリアの言葉が浮き彫りにする矛盾を明確に察知した。


 という思いが、脳裏をよぎったのだ。


 記憶が巡る――半年前。

 シェリアの事を知るために念話で語らい合った、あの一日。


 彼女は自身の過去について言及される事を避けていた割に、言葉や声の端々にの明確な感情を何度も覗かせていた。


 その感情とは……

 チリつく火の粉を思わす声に沈む、囂々ごうごうと揺れる炎の如きそれ。


 七夜は当初、罪人の気配がないシェリアは、自分と同じ境遇なのだろうと判じた。要するに、第三者から罪を着せられ、投獄されるに至ったのだろうと。


 しかし彼女はそれを否定した。自分は自らの意思で罪を犯し、ここにいるのだと口にした。


 もし本当にそうなのであれば……あの憎悪の正体はいったい何なのか。


 考え、七夜はそれが、〝復讐心〟であるとの答えを出した。


 確かに彼女はその手で罪を犯したのだろう。

 だが――例えば、その状況が第三者によってつくられたものだとすれば。罪を犯さなければならない状況に陥れられたのだとすれば。


 その第三者に対して憎しみや恨みの感情を抱いて然るべきであろう。


 正解など知らない。全ては七夜の憶測だ。


 それでも唯一確かに言えるのは、シェリアの中には、炎の如き苛烈な復讐心が潜んでいたという事。


 そう、


 今の彼女には、七夜があの時感じた何者かに対する憎悪が微塵も感じられない。

 そもそも、心の中に炎を抱えているのだとすれば、七夜の為には死すら厭わないという今の在り方は、明らかにおかしいだろう。


 その矛盾が起きているのは何故なのか。


 考えを巡らそうとして――けれど、再び襲ってきた眠気が意識を侵食し始めて。

 疲労が限界に達していた七夜はそれに抗えず、瞼を閉じた。


 急速に沈んでゆく意識の中、彼は辛うじて考える。


 果たしてシェリアは、あの復讐心を何らかの理由で失ってしまったのか。

 または、ただひたすらに覆い隠し、目を逸らしてまで自分の傍にいようとしているだけなのか。


 少なくとも、後者でなければいいなと、そう漠然と思いながら眠りについた。

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